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白蟻

勝鶴峠=現在の名称は勝弦峠


一町=約109m

一里=約3927m

 武田家と村上家との合戦が起きた数日後から、小笠原右馬助が配下の国人衆を強制して動員をかけてる事との内容を書かれた密書が小笠原一族で塩尻を統治してる三村駿河守長親から、諏訪上原城の長坂釣閑斎光堅の元に届けられた。


 長坂釣閑斎は、御屋形様への急使を送ると諏訪刑部大輔頼重と今井左馬助信甫等と共に御屋形様から受けた塩尻を先に抑えよと言う命を実行しようと、ただちに預けられた兵四千五百の内、長坂釣閑斎と諏訪刑部が兵四千を率いて、残り五百で今井左馬助が上原城を護る事を(あらかじ)め決められてた。


 諏訪から出陣前に長坂釣閑斎は、諏訪刑部と今井左馬助に言う。



「これより、小笠原勢が諏訪に侵攻する前に塩尻峠を抑える。さらに高遠城代秋山伯耆守虎繁へ急使を送り、小笠原右馬助の領土を南から脅かしてもらおう。」


「釣閑斎殿、三村駿州からの密書は信用出来るのでしょうか?」


「刑部殿、仁科弾正少弼盛国、三村駿河守長親、山家薩摩守昌治、西牧四郎右衛門信道、二木豊後守重高、星野内膳正盛通、曲尾源右衛門常光等が調略に乗り誓詞が送られてきてますぞ。(ただ)しそれをまともに守ってくれるかどうかは、保証しかねますが。」



 その話を釣閑斎から聞いて、今井左馬助は深く息を吐いて嘆息を漏らした。



「また気難しい話よのう、不確定な要素に我等の命を捧げなくてはならないのか・・・・」



 諏訪刑部は小笠原勢侵攻は、ほほ想定内の想定なので動揺を見せる必要は無いと言う。



「釣閑斎殿、しかし我々は御屋形様が諏訪に戻られるまで、三倍の小笠原勢を抑えなくてはいけないのは決まっておりますので、敵が寝返ろうが寝返らないが、我々がやる事は決まってます。決して独断で焦りを見せて動く事は、板垣駿州の二の舞になりますので、(それがし)は与えられた任務を遂行するのみです。」



 今井左馬助も釣閑斎に語り始める。



「釣閑斎殿、小笠原勢はいずれ諏訪に向かって侵攻するのは分かってただけに、御屋形様は我等に手勢を与えてくださったのです。我々は、小笠原勢が塩尻峠を越えて諏訪に侵入される事をもっとも懸念されておるのです。だからこの度の密書に乗るつもりではありませんが、御屋形様の指示通り援軍が来るまで、遅延戦術を取り、諏訪への進軍を遅らせないと我等がここに置かれた意味は無くなるでしょう。」


「刑部殿、左馬助殿、御二人の意見は承知した。(それがし)諏訪郡代を任じられた者として、塩尻峠と勝鶴峠の三十町ほど離れた二ヵ所に部隊を派遣しようと思うが、二人はどう思われるか聞きたい。」



 諏訪刑部も今井左馬助も長坂釣閑斎が両方の峠を固めたいと言う意見に賛成の意志を表し、部隊配置を釣閑斎に任せる事にした。



「まず塩尻峠の方は、なだらかで道が広い為、小笠原勢の主力が押し寄せる可能性があるので、(それがし)自らが兵二千五百を率いて迎撃に参ろう。そして細い道の勝鶴峠には、諏訪刑部殿に兵千五百を預けますから、小笠原勢への対応をお願いします。最後に今井左馬助殿には、上原城と諏訪の防衛を兵五百でお願いしたい。」


「そして大雪で進軍には手間取るが、小笠原勢の大軍も侵攻に手間取ると思われるので、各自防衛には(おこた)る事無きようにしてもらいたい。」


「「釣閑斎殿、承知しました。」」



 こうして二月十四日には、長坂勢、諏訪勢共に進出し逆茂木や監視望楼などの陣造りに励み、十日余りでそれぞれ陣を完成させた。


 この防衛施設を素早く完成させた裏話に躑躅ヶ崎館にいる高遠四郎が村上方と板垣駿州が合戦を行われた時、諏訪郡代の長坂釣閑斎へ文を送り、(あらかじ)め諏訪の大工や職人に砦の材料を加工させて、足軽達に現場に運び、そこで陣を作らせる手法を伝えて、建築工期を短縮させて、真冬の寒さからも将兵の損耗も抑えると言う内容だったので、即採用したと言う。


 さらに朗報として、二月末には武田晴信は今年新たに侍大将に任じた山縣三郎兵衛尉昌景、工藤源左衛門尉昌豊、春日弾正忠虎綱、それに馬場民部少輔信房の四武将と兵二千五百を先行させてくれた為、戦力が不足してた勝鶴峠にも山縣三郎兵衛尉と春日弾正忠の二武将が到着し、守りも堅牢になってくれた。


 その間、塩尻領主三村駿州は武田方と使者をやり取りして陣造りも黙認、さらには諏訪方面の情報集めすらも小笠原右馬助を(たばか)って、武田勢は塩尻に未だ向かわず、大雪の為諏訪で武田本隊との合流を行おうとしてると伝えたりしていた。


 小笠原右馬助も国人衆に動員をかけたが、大雪の為思うようにいかず、林城に一万二千の兵が集まったのは三月上旬となり、その頃までには塩尻峠、勝鶴峠共に突貫作業で砦を作り、その砦建築には三村領の住民すら動員させて完成させた為、当初小笠原方への調略を不審に思ってた長坂釣閑斎も今では、すっかり調略の結果に満足し始めた。


 これらの状況を味方の武将達の背反と武田方の三つ目衆を始めとした防諜組織の活動により、武田側の真意を探る事に失敗し、また小笠原右馬助も武田側の動きへの関心は鈍く、味方の国人衆の動きの鈍さに(いら)ついており、仕舞には小笠原家中一の弓術巧者神田将監重慶にも当たり散らした為、小笠原右馬助の傍に近寄る事が少なくなった。


 三月十日、これ以上侵攻が遅れると春の農作業に遅れる事を懸念し、焦りを感じた小笠原右馬助は小笠原勢一万二千に進撃を命じ、塩尻峠側五千と勝鶴峠側四千の二手に分けて兵を送った。


 塩尻方面は、三弟小笠原孫次郎貞種を大将にし兵五千、犬甘大炊助政徳、犬甘主馬助政国、仁科弾正少弼盛国、二木豊後守重高、赤沢伊豆守政経、西牧四郎右衛門信道、星野内膳正盛通、山家薩摩守昌治


 勝鶴方面は、叔父小笠原左衛門尉定政を大将に兵四千、三村駿河守長親、小笠原彦七郎頼貞、草間源次郎時信、島立右近丞貞知、日岐丹後守盛次、細萱河内守長知、耳塚作左衛門元直


 そして小笠原勢本陣には兵三千、馬廻り衆の須沢清左衛門、征矢野大炊助宗澄、塔ノ原長門守時満、平瀬甚平義兼、中島四郎左衛門宗延、坂西勝三郎時重、穂高内膳佐盛員


 また南信濃の小笠原家庶流で長時の二弟鈴岡民部大輔信定にも、伊那郡高遠城を攻めるように命じてた。


 これらの軍勢は一万四千余りになり、小笠原右馬助が自信を持って兵を集めたのも頷ける話であった。



 











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