父に、会いました。
ぼちぼち少しづつ書いております。
2019 11/8 色々矛盾や気に食わない所を手直ししてます。
2020 2/24 ごめんなさい思いっきり乳母でミスしました。
✖諏訪大社神氏の向山又七郎の妻於琴 〇跡部攀桂斎信秋の妻比呂
向山又七郎と奥方於琴さんは、のちに使います。
あれから誕生後に解った事は、どうやら俺は武田家四男で未来の武田勝頼らしい事は解った。何故なら四郎様四郎様と皆が俺の事をそう呼んでるからだ。
将来お先真っ暗だと知ってても歴史のキーパーソンに生まれ変われた事は純粋に嬉しい。思わず笑みが零れてしまうのは、オタク根性から来てるかもしれない。
武田家がジリ貧になるのは解ってるので、赤子の間はやる事も無いため武田家を潰さないように試せる富国強兵策を色々考える日々を送っていると、乳母や侍女達からは、いつもニコニコ笑ってる愛らしい赤子だと評判になっていた。
生母の香姫は、産後の肥立ちが悪く未だ寝たきりの状態らしい。俺が誕生した日以来あまり会えてないけど、たまに乳母が俺を抱きかかえて、香姫の所に連れてってくれる。
そうそう、まだ父には会えてないが、俺の幼名は四郎となった。
父は、俺が男子だと解ると事前に決められていた名前に決定し、領内に俺の誕生を発表した。本当は4歳年上で生母香姫の弟で父信玄の妹禰々の子・諏訪寅王丸を廃嫡するはずだったが、禰々叔母さんとまだ未婚だった母が嘆願し、母が父の側室になることで寅王丸が諏訪家嫡子となり、母から俺は誕生した。
0歳だから、周りからは何も解らないと思われてるが、父信玄のやってる事は俺も強引だと思う。せめて従兄叔父と言う複雑な関係の寅王丸をもっと大切に扱っても良いと思うな。
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1546年(天文15年)と言う年、武田家は信濃侵攻で佐久郡平定に邁進していた年であった。前年には諏訪家棟梁の地位を望んでいた高遠頼継は、小笠原長時の支援の受け諏訪氏分家の伊那郡福与城藤沢頼親と共に反抗し、高遠合戦が起こった。
武田家は高遠合戦に勝利したおかげで、高遠城は高遠頼継が籠城せずに逃走し藤沢頼親は福与城が包囲された。藤沢氏は頑強に抵抗を行い、武田軍の攻勢を弾き返して武田軍鎌田長門守も討ち死してしまうほどの抵抗を見せた。
武田軍福与城包囲の中、後詰に小笠原氏出兵の報が入ると武田晴信は長期の包囲による将兵の疲労を鑑み藤沢氏との和議を講じた。藤沢頼親の弟権次郎を人質に受け取り、さらに藤沢氏に同調していた伊那箕輪城に火を放ち甲府へと引き上げていった。
藤沢氏への後詰に来た小笠原信定は、武田氏と藤沢氏の講和の報を受け取り、一戦も交わず兵を引き上げていった。
前年度、高遠合戦で武田軍が疲弊を強いられた為、勝頼が誕生した天文15年は将兵に休息を取らせていた。
そのお蔭で一時的に甲府には、武田晴信と配下達は安らぎが与えられた年と言えた。晴信を含む上から下までの者共は、現代で言えばいわば家族サービスを行える時間が出来たのである。
俺こと四郎が誕生して数日後、早くも父・晴信が正室三条西家の円姫と嫡子太郎、次男二郎、三男三郎、長女梅姫、次女見姫を伴って、香姫と俺がいる部屋にやってきた。
部屋に入るなり父・晴信が大声で香姫を誉め称え始めた。
「でかしたぞ、御香よ。御香は、諏訪の棟梁を継ぐべく男子を産んだ。これは、戦場にて、大将首を打ち取った位の比類なき手柄を上げたぞ。この子の名を四郎と命名する。そして傅役は跡部攀桂斎信秋を乳母役を攀桂斎の妻比呂に命じようぞ。」
正室円姫も母・香姫にお褒めの言葉をあげていた。
「香姫様、幾多の苦難を乗り越え四郎殿の出産を遂げて、本当に御苦労様でした。身の回りで必要な事がありましたら、遠慮なく言づけてください。貴女と私は、御屋形様に御仕えしえる経緯は違えども我々はもう姉妹でございます。私の事を姉だとお思いください。」
母は、父・晴信と正室円姫の言葉に感激したように言葉を紡ぎだした。
「このような所までわざわざ足を招いてくれて、ありがとうございます。本当なら我々母子が御屋形様・奥方様に御挨拶に向かわなければいけませんのに、大変恐縮でございます。この度、我が子に四郎の恩名を賜り大変恐縮しております。」
あれっ? 俺が前世の中で得てた知識では、確か三条の方と諏訪御料人はバチバチで険悪な関係だと思ったが、あれって後世の人々のフィクションかい?
そう考えていると父・晴信が母・香姫が抱いていた俺を取り上げて、俺の顔を覗きこんでいた。
「うむ、良い面構えだ。四郎は兄者達を良く助け、兄弟皆仲良く絆を保つように。」
俺もそれは自覚してるさ。なんていったって、武田家は後継者や一族の混乱が元で滅亡したのと同じだからな。領地の立地条件が悪すぎるし、増長し身勝手な一族や家臣もいるんだから、今後が大変だよ。
だからせめて親しい人達はちゃんと守れる環境作りをやらないと・・・
そう思案してるといつの間にか父・晴信から、正室円姫様に俺の身体は移っていた。円姫様は、大変御綺麗で、母・香姫にも勝るとも劣らずな美女な上にとてもお優しい方に感じられた。
そうして円姫様の周りに俺の事を一目見ようと兄弟達が一斉に近寄ってきて覗き込んだり、身体を触れてきたりしてきた。そしてみんな興味深々で俺に群がってると、太郎兄が俺を抱きたがって円姫様にお願いを始めた。
「母上、某も四郎を抱きあげたいです。」
「太郎殿、赤子は大変繊細なのですよ。落としたり力強く締め上げてしまうと大変危険なので、その事を思いつかってください。」
すると香姫が、「太郎様は大変お優しい御方ですので、幼き兄弟に慈悲心をもって接してくれてるので、私には何も不安がありませんので、太郎様に抱かせてください」とお声をかけてくれた。
そうして一通り兄弟達のおもちゃにされながらも武田家は案外仲良い家族なんじゃないかと実感しながら、この先に起きる悲劇をなるべく回避する為に思案しながらもいつの間にか眠りに落ちていた。
武田大膳大夫晴信 武田家史上最高の出来人。才能に恵まれておるが統治してる領地が日本有数の貧しい土地で、さらに父・信虎の行き過ぎた政治により沢山のハンデを背負う。しかし甲州法度を作り国内の荒れた土地を整備改良を行い、そして他国への拡大路線がツボにハマり日乃本一の大将と噂されるほどの大名となる。
しかし統治難儀な領土ばかりで、領国拡大に実力ありながら時を費やした為、織田家が先に畿内に進出してしまい、それが武田家の戦略を袋小路に追い込んだ。
三条の方 円姫 左大臣転法輪三条公頼の次女。武田晴信継室。姉は細川晴元室で、妹は本願寺顕如室如春尼。晴信との間に太郎義信・梅姫・次郎・三郎・見姫を成す。
三条の方は、不運の人として知られ長男が病死、次男が幼少期に失明、三男が夭折、父三条公頼が大寧寺の乱に巻き込まれて殺害され、そして長女黄梅院梅姫は武田家駿河侵攻の際、嫁ぎ先北条家から離縁されて翌年病死してる。さらに三条の方も梅姫死去の翌年に労咳によって死去。
創作物の中では、とても傲慢で嫉妬深い性格と書かれてるが、快川和尚が残した記録によると「大変お美しく、信仰心篤く慈悲心を持って周囲の人々にあたり、春の陽光のような穏やかなお人柄で、晴信との夫婦仲もむづまじいご様子でした。」と記されている。
武田太郎義信 武田家嫡子として養育され傅役は甲山の猛虎と呼ばれた飯富虎昌。三国同盟成立の為にのちに今川義元娘・嶺姫と婚姻する。四郎との兄弟仲は大変良く、異母弟四郎の事を気にかけてくれて、甲府に四郎がいる時は遊んだり学んだりして、のち四郎が高遠城主になった時はよく訪ねてくれた。
義父今川義元戦死後、武田晴信の北上から南下政策への方針転換に納得出来ず対立状況に陥り、飯富虎昌を中心に謀反計画を立てる。しかし事前に計画が発覚し幽閉されて病死した。
実は初陣で反乱起こした知久氏の小諸城を降伏させ落武者300人以上討ち取りったり、第四回川中島合戦では上杉謙信を敗走寸前まで追い詰め謙信が信頼してる老臣志田源四郎義時、大川駿河守高重を討ち取るなど戦上手である。
海野次郎信親 晴信次男。幼少期より失明と伝わってるが、1556年(弘治2年)に晴信は信親15歳の時に信願文写をを奉納しており、元服前後の失明とも考えられる。1546年(天文15年)に武田家は小県郡を制圧しているので、そののち婚姻政策で海野幸義の娘を娶り、海野氏の名跡を継いだ。(海野幸義は信親が誕生した1541年に死去してるので、娘じゃなくて親族の娘の可能性有。)ちなみに海野氏分家が戦国の綺羅星真田氏。海野幸義の妹が真田幸綱の母で、真田昌幸の祖母である。信親も四郎と仲良しなので、何らかの救済を行いたい。
西保三郎 晴信三男。幼少期から、武田一族西保氏への名跡継承し1553年(天文22年)頃に夭折したとされる。一説には同族の上総真里谷武田家から嫡養子として求められて、のちの豊信だと伝承もある。
黄梅院梅姫 晴信長女。武田家・今川家・北条家が結んだ甲駿相三国同盟成立の為に1554年(天文23年)に12歳で北条氏康嫡子氏政に嫁いだ。氏政とは仲睦まじく、夫婦の間には次期嫡子氏直始め男女合わせて4人生まれた。しかし永禄11年(1568年)三国同盟が破綻し、黄梅院は甲斐に戻された。その後、氏政と離縁した心痛が元で病にかかり翌年27歳で死去した。
見性院見姫 晴信次女。武田親族衆筆頭穴山信友の嫡子信君に嫁ぐ。信君との間に勝千代。穴山家は、武田家と幾重にも婚姻を重ねて、晴信姉、南松院も穴山信友の正室として嫁いでおり、信君と見性院の関係も従兄妹同士の婚姻である。1582年武田家滅亡後穴山信君も横死した為、徳川家康庇護下の元、勝千代が武田家当主となったが勝千代も早世したため武田家本流は断絶する。その後、江戸時代に入り2代将軍徳川秀忠の庶子幸松(保科正之)の養育を任された。