三井さん家の家庭の事情
外伝的なこの話はフィクションで、気分転換で作った話です。
三井家に意外な猛将有りと言った感じ。
甲州三井家は、甲州では背丈が大きい偉丈夫を輩出する事で有名な家である。
甲斐国内では、三井家と言えば皆大柄で、男子に産まれれば六尺を越え、女子でも五尺五寸も背丈があると言う。
甲斐国の守護大名武田氏は、背丈が大きくて力強い者達を旗本に入れる事を好んでいて、特に先代当主武田信虎は、気性が激しいので有名で人の好き嫌いも激しかった。
信虎は、旗本達を選ぶ時、身体が大きくて素早く動ける者達ばかり選び、甲斐国内から八百人からなる旗本衆を大変可愛がり、その中で三井家からは、嫡男市兵衛と次男源助の二人が選ばれて、二人も旗本衆に選ばれた事に父親は大変喜んでいた。
三井市兵衛と源助の兄弟は、信虎が率いた旗本衆で度々手柄を立て、天文四年(1535年)の万沢口の戦いでは、負け戦になった武田勢の殿となり、追撃する今川勢を撃退する手柄を立てた。
三井兄弟は、殿を務め上げた手柄により武田信虎から、虎の一文字を与えられて、三井市兵衛虎武と三井源助虎高と名付けられる。
しかし三井兄弟の様に信虎と嫡男晴信から同時に才能を愛されてる兄弟は稀であり、山縣虎清、馬場虎貞、内藤虎資、工藤虎豊ら宿老達は、万沢口の戦いの翌年に信虎から勘気をこうむり誅殺されてしまった。
さらに親族衆で譜代家老の前島氏虎も自害に追い込んだ為、多くの奉行衆達が出奔してしまう。
このように暴虐だった信虎の恐怖支配は、譜代家臣達が信虎追放計画を立てて、信虎と性格が異なる嫡男晴信を旗頭にして、信虎が駿河国の娘の見舞いに行った隙に国境封鎖して、信虎追放を成功させた。
一方、信虎から優遇されてた者達は、信虎を追って国外に出奔する者もおり、三井兄弟も近江国の鯰江家に妹が嫁いでた為、出奔しようとしたが当主になった晴信は過去信虎を信奉する者も全て赦免すると通達してたので、出奔を思い留まる。
すると晴信は、偉丈夫だった三井兄弟を父信虎同様、自らの近習衆へ加えた。特に三井源助を殊の外気に入って、侍大将に任ずる直前にまでになってたが、天文15年に晴信が同じくお気に入りの春日源助虎綱が嫉妬に燃えて、春日源助が晴信を責めた為、春日源助宛に謝罪の誓詞を出している。(おそらく自分と同じ源助で意識が強かったと思われる。)
一方、三井源助の方は、兄と相談して以前妹が嫁いだ鯰江家を頼る事にして、兄と家を分つ事にした。
武田家を出奔した三井源助は、途中駿河国駿府にて昔の旧知で武田家へ帰参する工藤一族に出会う。そして、お互いの壮健を祈り酒を一夜酌み交わしたが翌日其々の道に歩んだ。
その後、三井源助は、鯰江氏に食客として暫し滞在したが、鯰江氏の親族衆の藤堂家の当主忠高が合戦で戦死した為、偉丈夫で武田家での武功もあった三井源助に藤堂忠高の残した一人娘を娶り、藤堂家を継がないかと言う話が舞い込む。
天文十六年、戦死した藤堂忠高の婿養子になると、翌年長女が誕生、天文十八年に嫡男高則が誕生し、忠高の代で、犬上郡数村を支配する程度に没落していた藤堂家を槍働きで活躍して、京極氏、浅井氏と被官先を変えてる。
後年に高遠四郎勝頼が上洛した折に、嫡男高則の命を救ってもらうという恩義を再び武田家から受けた為、次男藤堂与右衛門高虎を高遠四郎の元に出仕させた。
藤堂与右衛門は、父源助同様偉丈夫で美男子、身長六尺三寸余りの巨漢に十貫の重さの鎧を着込みながら戦場を疾走する為、体中傷だらけで右手の薬指と小指は銃弾で吹き飛ばされ、左手の中指も短く爪は無く、さらに左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体ながら背中に傷を負ってなかった。
四郎に仕えた藤堂与右衛門は、戦働きだけでなく城の縄張も得意で、山本勘助晴幸から築城術を学んだ早川三左衛門幸豊から、築城術を学ぶ。
のちに武田義信から、駿府城、甲府城、岩村城、松本城、新府城などの縄張を任せられ、また籠城戦の達人として、秋山虎繁の籠った岩村城に一緒に籠り、織田軍六万を山縣勢六千と共に内外から攻撃し、織田信長をあと一歩のところまで追い込んでいる。
一方、甲斐に残った三井市兵衛虎武は、山縣三郎兵衛尉昌景の赤備えに属し、元亀二年に嫡男弥彦、次男勝三郎と共に戦死した為、三男三井弥一郎昌武が、十三歳にて家督を継いだ。
三井弥一郎は、家督を継いだ時に山縣昌景から、「そなたの父や兄達はわしのために働いて死んだ。そちの祖父も曽祖父も武田家のために死んだ。そなたも父祖の名を辱めることの無いように励め」と述べられる。
また当主となった武田義信が昌景に対して、ある家臣の一人が敵に内通しているため、これを討てと命令を下した。
昌景は家中の腕利きを集めてその抹殺を命じたが、弥一郎はまださすがに少年だったから対象外であったのだが、ところがその直後、三井弥一郎は飼っていた鶏を抱き抱えて、その家臣の屋敷の前に待っていた。
そこにその家臣の男が現れて、訝しく思っていると、弥一郎は帯が解けたから、鶏を持って欲しいと家臣に頼んだので、その家臣は鶏を持ったしまい両手が使えなくなった。
すると弥一郎は隠し持っていた短刀を取り出して、男に突き刺したという。これを聞いた昌景は大いに賞賛している。
三井源助虎高 1516年生まれ 武田信虎から気に入られ虎の一文字を賜る。晴信家督継承後も晴信の近習を務めてたが、身体が六尺もあり美男子だった源助は晴信から気に入られた事で同僚の春日虎綱からの嫉妬を買い、武田家を致仕して故郷の甲斐から離れて、近江国にいる親族鯰江氏を頼った。
尚、武田晴信が春日虎綱へ送った謝罪状は、現代まで残り有名である。
その後、三井源助は、近江の小豪族で男子のいない藤堂家に婿養子として入り、藤堂家の名跡を継いだ。
ちなみに源助の次男が七回主君を変えた、あの藤堂高虎である。




