工藤源左衛門尉祐長
感状要らずの真の副将
工藤一族は、武田信虎の暴虐な振る舞いによって、宿老であった父工藤下総守虎豊が誅殺された時、生き残った一族は一時甲州から出奔して、近隣の北条家に出仕して難を逃れていた。
その後、暴君だった武田信虎が嫡男晴信を担いだ重臣達の造反によって、甲斐国から追放されて晴信が当主となった。
天文十五年、工藤一族は北条家に無役で仕えていたが、当主晴信から武田家への旧領復帰と共に帰参を請われて、北条家を致仕して再び甲州へ戻った。
甲州へ帰参した工藤一族は、信州から帰還して忙しかったはずの御屋形様が最初に面会したのが工藤一族であり、嫡男太郎様や奥方様への面会より優先して、我々に会ってくれた。
しかも御屋形様は、最初に父工藤下総守虎豊が理不尽な最期を迎えて、工藤一族がその後塗炭の苦しみを味わった事を謝罪され、旧領復帰と共に金子百枚を下された。
一族で帰参したが甲斐へ戻られた時、長男工藤憲七郎昌康は体調を崩して当主の役目に耐えられなかった為、工藤家当主は次男の工藤長門守昌祐が当主となった。
三男の工藤玄随斎喜盛は母が側室だった為、のちに別家を建てて工藤宗家を支える事となり、四男工藤藤九郎祐久は、甲州には戻らずそのまま北条家に仕えて、もしもの場合に備えた生存戦略をとった。
五男の工藤源左衛門尉祐長は、末子ですでに家を継いだ次男長門守昌祐がいた為、無役の状態だったが御屋形様よりお声がかかった。
御屋形様は、工藤源左衛門尉の才能を見抜き「明日より、其方を四郎付の作事奉行へ任ずる。そして父工藤虎豊の豊の一字を受け、明日より工藤源左衛門尉昌豊と名乗るが良い。」と御屋形様より四郎様の元で作事奉行として、差配して欲しいと伝えられた。
三男の工藤玄随斎喜盛も弟昌豊の補佐を御屋形様より承ったので、明日一緒に四郎様の元に出仕する事にした。
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工藤源左衛門尉と工藤玄随斎が四郎の元へ出仕したのは、来年に向けて傅役跡部攀桂斎と長坂釣閑斎と小笠原源与斎とで、この秋に干し椎茸の御蔭で父上から得た資金二百貫を今後どう使うか相談の最中だった。
今年、四郎から知識で椎茸栽培と稲作の革新とで、新しい財源に目途が立った為、長坂釣閑斎
は来年以降の見通しが明るいと言い、今年手を付けれなかった鉄鉱山の話を振っていた。
「四郎様、来年こそ諏訪郡蓼科中央高原の鉄を採掘したいですね。」
「攀桂斎、鍛冶職人と石工職人の確保は出来そうか?」
「伊那郡に広瀬郷左衛門殿の親族が鍛冶村を形成しており、十数件の鍛冶達が居りますので、彼等に声をかけてみましょう。石工職人の方は、今御屋形様が甲府に長延寺の普請行っており、来年には完成すると大工も石工も余りますので、失職させないように今から声をかけております。」
四郎はそれでもまだ足りないものがあると言う。
「今後足りない物は、鍛冶場、鉄鉱山、石工場、反射炉普請、煉瓦工房、ギヤマン工房等を設置し、それらを統括して監督出来る才能を持つ者だ。これらの統括出来る者は、一万の軍勢を采配出来るだけの才能を有するだろう。」
このような議論を交えてたら、近習の弦間八兵衛正吉が御屋形様からの紹介状で、四郎様に尋ねてきたと言う者達が訪問してきたと伝える。
四郎は訪ねてきた者の代表者の名を聞くと、作事奉行工藤源左衛門尉昌豊と庶兄工藤玄随斎喜盛を名乗ったと言うと、今一番求めていた人物が来たと言って、ここに二人を呼び、工藤家の従者達は別室で寛いでもらうようにと命じた。
工藤源左衛門尉と工藤玄隋斎が部屋に入るとまず二人を驚かせたのは、奥に赤子を抱いた女性が居り、両側には、乳母と思われる女性と三人の重臣が、赤子と議論を交わしてた事だった。
「失礼つかまつりまする。 皆様、今日より御屋形様から作事奉行を拝命した工藤源左衛門尉昌豊と補佐を命じられた我が庶兄工藤玄隋斎喜盛で御座る。今後は職に奉身しますのでよろしくございまする。」
二人は床に頭が付くほど下げて、自らの上司の命を待った。
「源左衛門尉、玄隋斎、二人とも面を上げてください、僕は貴方達の様な出来人と今日から一緒に御仕事が出来るようになるとは、夢にも思いませんでした。僕は本当に幸せ者だな」
二人は、まず上司の四郎様が赤子で喋りかけてきた事に一度目驚いて、二度目はまだ二十代前半の二人が異常に評価されて、褒められた事だった。余りの誉め言葉に二度目に驚いたが、全く悪意など感じなくとても心地が良かった。
そして二人共、恐縮してる時に三度目の今日最大の驚愕が起きた。
「し、四郎様、我々二人で武田の先進的な産業群を構築して、それ等を監督しろと!」
「うん、先程今年やってきた成果を二人に伝えたが、来年以降はそれらの職人や産業を監督して、鉄砲やらギヤマン茶碗や耐火煉瓦などを製造する工房を作って貰いたいんだよね」
武田家から出奔して、北条家に一時仕官する前までは、工藤一族は日ノ本を流浪しており、そこで見聴きした情報も持っていた為、四郎が言ってる事は畿内の大名でも大変難しい仕事である事は、肌で理解した。
玄隋斎は難しい顔をして、現実的ではないので計画の修正の再考を求めた。
「四郎様、某らは、四郎様が赤子で在りながら聡明で、本当に神童だと感じましたがこれらの計画を行うには、南蛮人や明人の知恵や道具が必要でございます。湊を持たない武田家では、南蛮人との交易が出来ません。」
すると四郎は、自信を持って答える。
「南蛮貿易が可能なら、それに越した事は無いが出来ないのが元々解ってるなら、職人達を学ばせて武田領内で作る。僕には、それらの手法を職人達へ伝える事が出来る」
「そして武田家が戦国の世に生き残る手段として、これらの普請を成功させないと畿内を統一した勢力に最悪滅ぼされる可能性がある事を知ってるんだ」
すると源左衛門尉は思案顔になり、ぼそりと言葉を発した。
「四郎様、おそらく我々が新たに計画に参加しても完成までには、時間がかかるし予算も沢山使うと思います。ならば計画全てを完成を目指すのではなく、一部他の者へ委託して、共同で計画を推進するのはどうでしょうか?」
「一体、どこと組む気なんだ?」
「我々、工藤一族は全国を流浪した際に、各地の大名、貴族、神仏宗派、商人などを目にしてます。その中で某が協力に値するのは、今川家、北条家辺りが地勢的にも政治的にも安定しておりますので、もし可能ならば連合で計画を推し進めるのが、武田家への経済負担も軽くなって、計画も早く進むと思います。」
今年、父上が今川と北条の和睦の仲介を行って、将来の甲相駿三国同盟の下地が出来たから、合理的な思考をする源左衛門尉の献策は流石だな。
しかし俺から出た知識を見返り無しで使われるのも嫌だし、この計画の先見性を理解して、計画の初期から今川家と北条家は投資してくれるのだろうか?
「さすが工藤の賢兄弟は、其方ら二人の事であるな。しかし残念ながら二人の意見は採用出来ない。理由は、僕から出した知識にちゃんと正当な価値を付けてくれるか不明な事と、これらの知識は他国と比べて国力が劣ってる甲州や信州の国力の底上げに計画した事なので、いつまでも隣国が味方とは限らない戦国の世で、他国の強化に繋がる事は避けたい。」
「無論、今川や北条を敵に回したいと思ってないので、あくまで可能性の話をしたまでだ。共同で計画を行う条件は、三国に共通する強大な敵国が現れた時だろうから、今川や北条への好を通じておく事は大切だろう。」
俺がこれ等の話を行うと、工藤兄弟は納得して今後の計画の議論に参加するのだった。
工藤源左衛門尉昌豊 1524年生まれ のちの内藤修理亮昌秀 長篠の戦いまで武田家の戦いにほぼ参加した記録が残り、武田典厩信繁死後、武田軍の副将格に収まる。合理的な性格であり、帰参直後から城普請や地侍への裁判や知行宛がいなどを実務をよく熟していた。
戦場人として幾度も大将首を上げ、味方を勝利に導く軍功は多数上げてるが、死ぬまで一通も感状を受け取らなった。
本人も「合戦は大将の差配に従って勝利を得るもの。個人の手柄に拘るのは小さき事よ。二君に仕えるつもりはないので、感状必要とせず」と言い、主君武田信玄も「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と周囲の者達に語り、修理亮も感状を与えられてない事を歯牙にもかけてなかった。
工藤玄隋斎喜盛 1521年生まれ 工藤源左衛門尉祐長の庶兄。庶子ながら別家を立てる事を御屋形様より御許しになられて、のちに箕輪工藤家初代として名を残す。
弦間八兵衛正吉 近習衆 青山角蔵と弓の腕前を張り合う程の腕前。




