証明写真
証明写真
三月のある土曜日、あなたは駅前の商業ビルの前で人を待っている。彼はあなたの幼なじみで、この春東京の大学に進学することになっている。今日、あなたは彼のために二人きりの送別会を企画した。といっても、気負ったようなものでなく、いつも通り食べ歩いたり、好きでもない芸能人の噂話をして時間を潰すだけだ。ごく自然体でいればいいだけ。
時刻は午後二時。季節は啓蟄を過ぎ、ついこの間まで肌を削るようだった寒風がどこか丸く、優しくなっている。街の人々の服装も開放的になっていて、今目の前を通り過ぎた十代の女の子は、丈の短いスカートを嬉しそうに弾ませて、少し先を歩いていた彼氏の腕を取った。
そこであなたは、ベストの下に着ているシャツをアウトにしていることをふと思い出して、少し後悔した。何日か前から考えたスタイルだったが、自分には似合わないのではないかと不安になった。この陽気なのに厚着しすぎたなと思いながら、あなたは裾を指で挟んで持ち上げた。
そこであなたはとんとん、と後ろから肩を叩かれた。
振り返ると、彼が息を弾ませて立っている。あなたはいじっていた裾をぱっと手放して「遅い!」と怒ってみせた。それはもちろんフリで、本当は自分の服装がどう思われるかという不安の裏返しだった。何も知らない彼はすまん、と素直に手を合わせて、
「段ボール詰め始めちゃってたら止まんなくて」
と頭を下げた。
「荷物まとめるのは月曜日からだったよね。手伝ってって頼んで来たのは誰だったっけ?」
「いやぁ、そのはずだったんだけどさ。なんかうずうずしちゃって」
彼はあなたの服装については何も言わない。自分自身が半袖ビーチサンダルの軽装なのだから、文句をつけるはずもない。いつものことだった。
彼はばつが悪そうに笑うが、浮き立った内心を隠しきれない様子だ。その笑みに毒気を抜かれたあなたは、どこか安心したような、少し寂しいような気持ちになりながら、「いいよ、、もう」と許してしまう。
これも、いつものことだ。
いつまで続くかわからない、「いつも」のこと。
「やっぱり東京、楽しみ?」
商店街を歩き出して数分、あなたは露店で買った洋菓子を半分に割りながら話を切り出した。ごく自然な口調を意識したら、手にしたお菓子は不格好な形に割れてしまった。あなたは大きい方を彼に差し出す。
「まあなぁ。不安の方が大きいけど」
「いつでも帰ってきなよ。こっちはずっと変わらないから多分」
「変わらない、か。ならいいんだけどな」
彼は菓子を一口で飲み込んで、後ろを振り返った。
商店街はあなたたちが幼かったときに比べて、明らかに人気が少なくなっている。昔二人で通った本屋は何年も前につぶれて、今は錆の目立つシャッターが下りている。その向かいどなりの揚げ物店も、先日店主が引退したばかりだ。あなたと彼が放課後、先生の目を盗んで食べた八〇円のコロッケは、もう二度と味わうことができない。
そこからしばらくして、あなたと彼は示し合わせたように同じ場所で自然と歩調を緩めた。
「このゲーセン、まだあったんだ」
あなたがぽつりと言った。目の前には個人商店を居抜きにしたようなごく小さなゲームセンターがあった。店の入り口は開き戸で、窓ガラスに何年も前に撤去されたアーケードゲームのポスターが貼られている。色褪せて文字を読みとるのも困難だったが、脳裏にはその筐体で遊んだ記憶がしっかりと蘇ってくる。
「なっつい」
彼が目を細めて言った。あなたはその横顔を見て、こう提案する。
「入ってみようか」
中には地元の中学生が数人たむろしていたが、幸運にもあなたたちの顔見知りはいなかった。というより、もうゲームセンターに通う年齢でもないのかもしれない。
昔のめり込んでいたレースゲームの筐体を彼が懐かしげに撫でた時、あなたは店の奥にあるものを見つけた。
「プリクラ?」
あなたの視線に気づいたのだろうか。彼が言った。
「もう誰もこんなの撮らないよね、スマホあるしさ」
あなたの声は不自然に裏返った。ベストの下でこもった体温が、ぐんぐんと顔までせりあっがってくる。やっぱり厚着しすぎたなとあなたは頭の片隅で思った。
「やってみね? 面白そうじゃん」
なぜか彼は積極的になって、あなたの腕をとる。
「いやいや、だめでしょ。何言ってんの。意味わかんないし」
あなたは火照った顔のまま、プリクラの筐体に貼り付けられた紙を指さす。そこにはいくつかの注意書きがあり、目の悪い彼はぐいと近寄ってそれを読み込んだ。しばらくして「うーん、厳しいな」と彼は唸りながら振り返った。
「俺たちじゃだめかな。誰も見てないでしょ」
「いいよ、トラブルになるの面倒だし」
「記念になるだろ。自撮りじゃ味気ない」
今生の別れでもあるまいし、と皮肉めかして言おうとするが、結局あなたは口を噤む。この瞬間も、この場所も、この会話も、全てが過去になるとあなたは重々わかっていた。彼は考え込んでいたが、ふいに顔をあげた。
「そうだ。駅前にさ、アレあったよな」
彼は、あなたが大好きな悪戯っぽい笑顔を浮かべて、あなたの手を引いた。アレが何を指す言葉かまるで想像もつかなかったが、彼の浮き足だった気持ちが掌から伝播してきたようで、すっと胸の中が軽くなった。
あなたは彼の手を握り返した。
※※※
それでは、画面の真ん中の十字に視線を合わせてください。1、2、3.....。写真の中からお好きなものを選び、タップしてください。印刷しています。しばらくおまちください。
ものの数分だった。
筐体の吐き出し口から写真を取り出すと、彼は嬉しそうにじっくりそれを見つめていた。
「二人で証明写真撮った奴、多分この地域で俺たちだけだぜ」
「というか日本中で、じゃない」
「そうだなぁ。これ作ってる会社とかも絶対想定してないと思う」
そう言いながら、彼は手で折り目をつけて、証明写真を切り取った。六枚の写真のうち、半分があなたの手に収まった。
「これ、フェイスブックとかツイッターとかあげるの禁止ね」
あなたは念押しするように強めに言った。
まじめくさった表情で並んだあなたと彼の顔は、それぞれ半分でとぎれている。元々一人用の証明写真なのだから当たり前かもしれない。
「えー、何で」
「恥ずかしいから。何を証明してる写真だよこれ」
あなたが照れ隠しで言うと、彼はふと真面目な表情になった。
「今日俺たちがここで一緒にいたって、証明」
じゃあ帰ろうぜ、と彼はあなたの言葉を待たずに歩き出す。あなたはその背中に声をかけようと言葉を探すが、ふさわしい言葉が見つからない。名前を呼ぼうとしても掠れて声が出ない。頬を伝って、熱いものが流れていく。
男性のみの利用を禁ず、と書かれたプリクラの注意書き項目を思い出してあなたの呼吸は乱れ始める。手にした証明写真には、まだあどけなさの残る二人の少年が写っている。
待ってよ。あなたは口の中で言葉を転がすことしかできない。彼の背中はぐんぐん遠のいていってしまう。昔一緒にやったレースゲームを思い出す。彼は止まらない。あなたが周回遅れでゴールしたとき、彼の姿はない。
彼は来週末、東京に旅立つ。