5 問題集とノート
八重は由依のかじっているスルメイカの匂いを嗅ぎながら、ベッドの片隅に腰掛けて、これから先どんなことが起こるだろう、もしかしたらなにか面白い毎日が始まるのかな、と思った。
それはこの紫雲学園に入学したその日に、八重が不安とも期待の入り混じったあのおそろしい感情に取り憑かれてから、今日まで変わらず抱き続けてきたひとつの幻想だった。
あの湖に浮かぶ弁天堂は、夕暮れの中に溶け込むと夢幻のようである。赤茶の色をした煉瓦造りのような二号館の古めかしい校舎は、夜中に見つめるとおどろおどろしくも思える。雨が降れば、湿った空気の中に校舎の建ち並ぶその景色は、どこか奥ゆかしげにも見えた。
それだというのに、今のところ八重の学生生活にはなんらの驚きもなかった。そこに日常が迫ってきていた。
ルームメイトの田所由依は、どこか風変わりな生徒だったが、一月のうちに馴染みの仲となり、やはり日常に没した。
心の底で教師たちの圧迫を感じつつも、反抗をせずにのらりくらりと生きていれば、日々はただ無機質のままに過ぎ去っていった。
ただそれは八重にとっては偽りの時間だった。日常に没するには、十六歳の八重はまだ若すぎた。多感なる心は、振り子のように揺れた。ただこのまま、退屈や平凡という檻に閉じ込められては生きてゆけない気がした。
これから何が始まるのだろう、そうだ、何かが始まらなきゃいけないんだ、と八重は思った。
しかしその八重がそのままある時には非日常をおそれてもいるのである。
田所由依は相変わらず、スルメイカをかじりながら、さも可笑しそうに笑いだした。
「どうしたの?」
八重は尋ねた。
「宿題しないと……」
「……いや、そう言いながら、漫画を読んでるじゃん」
由依はスルメイカを咥えながら、漫画を片手に持っていた。八重は漫画本がスルメイカ臭くなると思った。
「仕方ないよね」
「仕方なくないでしょ」
由依はあまり気にしていないといった様子で、可笑しそうにしながら漫画をめくるのだった。しばらくして漫画を下ろすと、
「八重……。宿題、移さして……」
由依は苦笑いを浮かべながらそう言って、また漫画のページをめくった。
八重はちょっと躊躇した。実を言うと自分も正解の自信がなかった。八重は真面目ではあるけれど、この学園に入ってからというもの、頭が良いという自信は失いかけていた。しかし由依を見殺しにして、教室で先生に怒られている由依の後ろ姿を見つめることになるのも、由依自身は気にしないだろうけど、なんとなく気が引けるので、八重は鞄から問題集とノートを出した。
「ありがと……」
由依は苦笑いを浮かべながら、ぺこりとお辞儀をした。
そして由依は、手に持った問題集をぺらぺらとめくって、
「ああ……、でも、もう無理そうだな……」
と苦笑いを浮かべつつ呟いた。
問題集は、由依の手に重たくのしかかっていた。