1 和泉八重
夢学無岳様、成宮りん様、深森様から頂いた羽黒祐介の挿絵になります。※「名探偵 羽黒祐介の推理」「紫雲学園の殺人」「五色村の悲劇」より
作者本人が描いた夕紀百合菜のイメージイラストになります。
本文中の和泉八重の挿絵は、成宮りん様が描いてくださいました。
本作中の挿絵は、何の表記もない場合、成宮りん様が描いてくださったものになります。
紫雲学園の一年生、和泉八重は、二両編成の電車の中で揺られている。
春の暖かな日差しが窓から入り込んできて、車内はぼんやりと明るかった。周囲を見渡すと、八重の他にはおじいさんとおばあさんが二、三人座っているだけ。耳を傾けると、ゴトゴトというこもった走行音が響いている。正面の窓からは、なだらかな山々が悠然と連なる景色がゆるやかに流れてゆく様が見えていた。霞んだ空には煌々とした太陽が浮かんでいた。
(また、田舎に戻ってきた……)
八重はそう思いながら、鞄の中からペットボトルを一本取り出した。そしてキャップを外して中身を一口含んだ。冷たいオレンジの味わいが喉を潤した。
(また、平凡な日常が始まるのかな……)
八重はキャップをしめて、ペットボトルを鞄に戻しながらそんなことを思った。
八重はゴールデンウィークということで、休みの間は実家に帰郷していた。その実家は埼玉県のさいたま市にある。
紫雲学園は私立の中高一貫校なのだが、八重は高校からの入学だったので、まだ一ヶ月ばかりしか校舎に通っていない。
学園の生活に慣れていない八重にとって、このゴールデンウィークはつかの間の休息だった。
数日間の両親との団欒には心が癒やされた。
(それも、あっという間だった……)
今日はその休みの最終日なのだ。八重は今またローカル線の二両編成の電車にのって、紫雲学園のある群馬県の山奥の長月という町に向かっているところなのだった。
八重は首元にかかった黒髪が変な方に跳ねているのを気にして、それを指先でいじると、また深いため息を吐き、窓の外を眺めた。
その時、電車は短いトンネルに入った。暗闇に世界が閉ざされる。窓の中に自分の顔が浮かぶ。
(あっ……)
八重は自分の大きな瞳に、少しばかりの自信があった。その二つの瞳が暗闇の中に並んでいた。その開かれた瞳は、どこか栗鼠を想像させるような愛嬌があった。小さな唇や少し丸みのある鼻も可愛らしかった。その色白の顔を、肩までの長さの黒髪が包み込んでいるような印象だった。
美少女だろうか。八重の自信は、日によって左右されるので何とも言えない。かえって特徴のない、ありきたりな女子高生だという意識もあったし、日によっては抗いようのないコンプレックスに支配されることもあった。
電車がトンネルを抜けた。夏のような日差しだ。と、同時に駅の小さなホームが近付いてくる。山の中から抜け出したようでいて、古びた家並みの中へと飛び込んでゆくような感覚にとらわれた。
その駅の名前は、長月駅といった。
そして八重は短いホームに下り、駅の小さな改札口を出て、古びた商店街が続く駅前の広場に立った。古びたといっても、そこにあるのは寂れたシャッター街ではない。長月には賑わいがある。喫茶店やスーパーマーケット、デパート風なショッピングセンターまである。わりに便利で住みよい町なのだった。
今いっぱいに春の日差しを浴びて、歩道のアスファルトが輝いている。見上げれば、青い空に昇りたった白い雲が美しい。その町並みの向こうに小高い山が連なっていて、そこに白い建物が見えている。それが紫雲学園の三号館なのだ。
(また、あそこで授業の毎日が始まるのかな……)
そう思うと、八重は少しうんざりするような気持ちになった。
しかし同時に八重は、寮で知り合ったルームメイトのことを思い出した。まだ一月の付き合いだけど、友だちになった。その子のことを思うと、これから始まる生活もそんなに悪くないかな、と八重は思えるのだった。
紫雲学園に行くには、この駅前からまたバスに乗らなければならない。バスはあの小高い山の上まで登っていってくれるし、座れないことはほとんどないので、それほど不便なことはない。本当に外界から隔離された山野というわけではないのである。
それでも八重は一月前、「とんでもない山奥に来てしまった……」と思って、ホームシックのあまり、真夜中に自分の部屋で泣いてしまったことがあった。
なんとなく、今でも八重は心の中で、山奥に閉じ込めらるようなおそろしい閉塞感を感じないではいられないのだった。
そこで八重はまた我に返った。明日からまた授業だ、バスに乗って紫雲学園へ行こう、と八重は前向きに思った。