プロローグ
1915年5月、大坂夏の陣。徳川軍と豊臣軍が激しく死闘を繰り広げた戦である。
その中で、時代の渦に巻き込まれた2人の女の戦いに名前などなかった。
人気のない高台で、2人の忍が刃を鳴らす。砂煙がもうもうと起こっている。そこには、黒髪を高く結った女と、解けてしまった茶色の髪をなびかせた、日本人らしかぬ顔立ちの女がいた。
茶髪の女は、砂煙を気にすることなく走り抜け、黒髪の女を蹴り飛ばした。左脇に当たった。もしかしたら肋を折ったかもしれない。が、その瞬間煙玉を投げかけた黒髪の女は、サッと的の背後に周りこむ。
「ちっ」
茶髪の女は、癖である舌打ちをすると、反射的に煙から遠ざかった。蹴りが甘かった。
黒髪の女は避けられてしまった自分の拳を守りの型に直し、二人は距離をとった。
羽菜は、先ほど蹴り込まれた左脇を抑え、息を荒げて敵をにらんだ。
水は余裕そうに、特徴的な茶色の髪を顔から振り払うと、高台から見える、炎に包まれた大坂城を見た。
「大坂城を見ろ。お前たちの勝ちだ。どうしたって」
水の声はとても澄んでいて、とても冷静な口調だった。高すぎない音が、羽菜の耳を通り抜ける。
羽菜は、水のことが昔から分からなかった。いつも自分より上にいる水が何を思い、考え、自分に対して、どうしようとしているのか。
今もそうだ。敵であるはずなのに殺気が感じられない。
「降参すれば…良い…」
羽菜は掠れた声を絞り出す。このままでは、きっと勝てないだろう。
「そうすれば、あなたは__」
徳川に買われ、死ぬことは避けることが出来る__
「はぁーーっ…」
水は大きく息を吐いた。羽菜に呆れたようだった。
「お前と私の戦いと、徳川と豊臣の戦いが、一体何の関係がある?」
羽菜は水の言葉が分からなかった。関係?そんなこと、理由が必要なのだろうか。戦えと言われているから、戦っている。水は以前、そう言ったはずだ。
水は、ギロリと羽菜を睨む。それは冷たく、そして悲しそうな瞳だった。
「お前…私に勝ちたいんじゃないのか?」
水のその言葉で、羽菜は昔を思い出す。
1915年5月、日本の歴史を揺るがす大きな戦、大坂夏の陣。
その中で刃を交わり合わせた羽菜と水の戦いに、名前など、なかった。