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星の鎖

 夕陽が沈み、雲の色が黄金色から桜色へと急速に変化した。気の早い星たちはちらほらと輝きを見せ始めている。

 楽しかった日曜日も、もうすぐ終わりだ。

 佐伯カズマと薬師ユイは、肩を並べて話をしながらデートからの帰り道を歩いていた。

 学校一の成績を誇る優等生のユイと、彼女に憧れてアプローチを続けるカズマ。ゆっくりと、でも着実に二人の距離は縮んでいた。


 今日のデートは珍しくユイから誘ってきたものだった。普段は無為な時間を過ごすことを厭う彼女なだけに、カズマも驚いた。けれどユイは最近遊園地にできた「バーチャルスペースシップ」を試してみたかったのだと聞いてカズマは納得した。

 学業におけるユイの得意分野は数多いが、中でも彼女が最も力を入れている分野が宇宙物理だった。

 何故と聞かれても彼女は答えないが、物心ついたころから星空に憧れていたのだという。

 遊園地のバーチャルスペースシップは長い時間待って乗っただけの価値のある、期待以上の出来だった。

 近未来的な内装に、最新のCGが駆使された宇宙の映像を映し出すスクリーン、そして加速・減速時にかかる重力が宇宙旅行の雰囲気を十分に味わわせてくれた。

「本当に宇宙旅行が出来るようになるまでにはどれくらい年月がかかるんだろうね」

 カズマがそんなことをつぶやく。

「そうね……。人類は歴史上、科学の発展に際して何度も遠回りをしてしまったわ。宇宙へ飛び出すことになれば、私たちは国籍や人種に係わらず『地球人』になるのよ。地球人同士、争ったり差別している間は、いつまでたっても前に進めないわ。『外に出るためには、まず内を固めよ』これはどんなことにも言えるわね」

「『地球人』か……。考えてみたらSFの世界でしか使われない言葉だな……。って、そう言えば薬師さんは宇宙人とかについてはどう思う?」

「悔しいけれど地球外生命体が存在するかは私にもわからないの。一つの惑星に生命が存在する確率を算出するにはあまりにも不確定要素が多すぎるから。でも、もし本当に宇宙の知的生命体の乗り物が存在するとしたら」

「そしたら?」

「科学探求の道はまだまだ先が長いということよ。現代の地球の科学ではあまりにも宇宙は広すぎて、気軽に星から星への移動なんてできないから。そういった問題を解決するために、私たち科学者は日々研究をしているのよ。かつて『科学万能』なんて言葉があったけれど、それを言い出した人はとても愚かで傲慢だわ。科学を万能にするためには、まだまだ人類は長く地道な努力をしなければならないの。私も……カズマ君もね」

「うん」

 ささいなことだが、ユイが自分のことだけでなくカズマのことにも言葉を割いてくれたことが彼には嬉しかった。

「……ところで薬師さん」

「何?」

「これ、プレゼント。今日、誘ってくれたお礼」

「あら、そんな気を使わなくていいのに」

 そう言いつつユイは嬉しそうに微笑んだ。カズマは包装紙に包まれた細長い箱をユイに手渡した。

「この包装紙は…バーチャルスペースシップの中で買ったのね。いつのまに」

「へへっ」

「この箱の形から言って時計かしら」

「正解」

 カズマは、ユイがアクセサリーなどの実用性のないものはあまり喜ばないことは知っていた。

 そこで腕時計を選んだのだが、そこはバーチャルスペースシップの店のこと、文字盤が日付と時刻に合わせた星図になる特別製だった。

「ありがとう。大切にするわ」

「うん」

 ユイが箱を胸の辺りに当てた仕草がとても可愛らしくてカズマ息を呑んだ。

「薬師さん! あのさ、僕は……」

 ユイが足を止めた。

「それじゃ、ここらへんでいいわ」

「えっ? えっ? 薬師さんの家までちゃんと送るよ」

「ううん。いいから。この辺で」

「……」

 ユイの口調は穏やかだったが、カズマの申し出をはっきりと断っているのは明白だった。

 そもそも、優しく拒絶するのは彼女らしからぬ行為であり、それゆえカズマは寂しかった。

「……分かった。それじゃまた明日」

「ええ、また明日」

 カズマは去っていくユイの背中をしばらく見つめていたが、やがて小さくため息をついた。

 まだまだ遠いなぁ、と。

 そして二、三度頭を横に振って再び歩き出した。


 一方、ユイの心は穏やかではいられなかった。

 カズマが自分に対しどんな感情を抱いているかは、もう知っている。それなのにあの態度では、自分がカズマを嫌っていると採られても仕方がないだろう。

 ユイは彼と恋愛関係になることは望んでいない。彼のことは決して嫌いではない。でも、カズマは大切な話友達だ。

 もしそれ以上の関係になったら。

 ユイはぎゅっと目を閉じる。感情が理性を上回って思わぬ行動をとってしまうことがあることは彼女自身よく知っていたからだ。

 その証拠に自分の家の一歩手前までくると自然と顔が上へと向いてしまう。

 慎也さん。

 見上げたユイの視線の先には隣家の2階の窓があった。

 閉ざされたカーテン。そこから電灯の光りが漏れている。

 見つめるユイの目に輝きは存在しなかった。何かをあきらめてしまったような色が濃く映っているだけだった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「おーい、ユイ。準備できたぞー」

 晴れ渡った夜空には無数の星が瞬いている。

 草むらに腰を落としてそれらを眺めていた小学3年生のユイはその声を聞くと、すっくと立ち上がった。

 慎也がユイを手招きしてる。

「わーい」

 彼女は期待に目をキラキラと輝かせながらながら慎也の方へ向かってトテトテと走ってきた。

 慎也が星の観測会をすると聞かされた時からユイは今夜をずっと楽しみにしていたのだ。

 慎也の指示どおり目を望遠鏡に当てる。

「あっ、土星だ!」

 図鑑で既に土星には輪があることは知っていた。けれども実際に望遠鏡で見るとまた新たな感動が湧き上がる。

 素直な反応に思わず慎也の顔が緩む。

「ユイ、こっちも見てごらん」

 慎也がもう一つの望遠鏡を指差す。

「そっちはなーに?」

「いいからいいから。見てからのお楽しみ」

「……? う、うわーっ、大きい!」

 目に入ったのはとんでもなく大きなお月様。もちろんクレーターまではっきり見える。

 ユイは肉眼と望遠鏡の両方で交互に月を見比べ、高鳴る胸の鼓動を抑えようともせず楽しんだ。

 ふたりきりの観測会。

 ユイはこの8つ年上の隣家の幼馴染が大好きだった。

 ユイと慎也が接近するきっかけになったのは、ユイがまだ幼稚園に通っていた頃。

 ユイは幼稚園の先生方が手を焼くほど活発な女の子だった。それでいてとても賢い女の子だった。

 男の子との喧嘩は日常茶飯事でどちらかが泣くまで決してやめようとしない乱暴者。

 けれども、例えば、おもらしをしてしまった子の面倒を最後までみてやるというしっかり者でもあった。

 さらに幼稚園の先生が教えなかった新たな遊びを見つけては他の園児たちを率いたりするという、彼女は一言で言えば幼稚園のリーダー的存在だったのだ。

 幼稚園の夏休みのとある日のこと。

 冒険心を起こしたユイはひとり、普段は行った事のない道へと足を向けた。けれども案の定迷子になり、日が沈んで辺りが闇に包まれるとユイは不安でしゃがみこんでしまう。そこに偶然通りかかった眼鏡の男子中学生こそが、薬師家の隣に住んでいた慎也だったのだ。

 見知った顔を見つけたとたん、堪えていたユイの涙は一気に溢れ出し、慎也の足にしがみついてわんわん声をあげて泣き出した。

 慎也はどうしてよいものやらオロオロしてしまったが、ふと何かを思いつくとユイを肩車して彼女に、空を見てごらん、と促す。

 涙で潤んだユイの瞳には余計に星々が美しく見えた。

 ねえ、ユイちゃん、あそこに3つの星が並んでいるのが見えるかな?

 うん?

 そのまわりに4つ星があるだろう? あれはオリオン座っていうんだ。

 少年は、学校の勉強こそよくできたが内向的な性格で、人と話をするのは苦手だった。

 けれども知り合いの小さな女の子が泣いているのを見て放っておけるほど冷たい性格でもない。

 今の自分にできることはなんだろう。そう考えた慎也は自分の得意な星の世界の話題で気をまぎらわせようと思った。

 幸いなことにユイは少年の話題に興味をもってくれたようだ。慎也はそんなことは初めての経験だったのでとても嬉しかった。

 慎也はユイを肩車したまま彼女の質問に答え、無事に彼女を家まで送り届けることができたのである。

 その日から、ユイは慎也の家にちょくちょく遊びに行くようになった。

 慎也の部屋はユイにとってまさに夢のような世界だった。高性能の天体望遠鏡に、壁の一面を覆う本棚いっぱいに並べられた百科事典。

 ユイは片っ端から百科事典を引っ張り出して、気になった絵や写真を見つけては慎也にあれこれと質問して内容を吸収していった。

 ユイの目には、どんな質問にも答えてくれる慎也は父親以上に頼もしい存在だった。



「ユイ。俺さ、小さい頃は宇宙飛行士になりたかったんだ」

 望遠鏡による天体観測を終えると慎也は草むらに仰向けに寝転がる。ユイは慎也の隣に寝転がり同じく星空を見上げた。

「慎也さん、宇宙飛行士になるの?」

「ああ、いや。無理なんだ。俺、ほら、眼鏡だから」

 そう言って慎也は自分の眼鏡に軽く触れた。

「宇宙飛行士になるためには健康で強い肉体が必要なんだ。俺みたいに視力も弱けりゃ体力も無いって奴は資格が無いんだ。ハハ」

「それじゃ、もし慎也さんの目が良くて、運動も得意だったら、宇宙飛行士になった?」

「……」

 慎也は一瞬目を見開いて、そして静かに目を閉じる。もし自分に資格があったら…?

「知ってるか? ユイ」

「?」

「今度、アメリカで宇宙開発者を養成するための大学が設立されるんだ。世界じゅうから宇宙を夢見る人たちが集まるんだ」

「世界じゅうから? 慎也さんもその大学に行くの!?」

「え、あ、いや……」

 慎也はぎくりとして目を開けた。もし自分が『資格ある者』だったら本気でそこに行こうとしただろうか?

「私はその大学に行ってみたい! 私も宇宙飛行士になりたいもん!」

「ユイが?」

「うん。私、体育得意だよ。目も両方2.0だし」

「ユイが宇宙飛行士……」

 子供はよく、人のやることを真似したがる。ユイでなければ軽く笑って頭を撫でただけだろう。

 けれども、自分と過ごしてどんどん知識を蓄えていく彼女を見ていると、慎也はこの子は本当の天才じゃないのだろうかと思うようになっていた。

 ユイなら、出来るかもしれない。

 ゾクッ、と背筋に冷たいものが走った。

 純粋に夢を語れるユイに嫉妬し、そして自分を恥じた。

 慎也はもう一度、国際宇宙開発大学「ISD」についての記事が載った雑誌を読み直そうと決意した。

 何も宇宙飛行士にこだわることはない。自分に出来る範囲内のことで宇宙開発に携われれば……。

 そう思うと慎也の心臓が激しく血液を流しだした。

「ユイ」

「ん?」

「ありがとう」

 慎也は手を伸ばし、ユイの髪を優しく撫でた。


 しかし、慎也の願いは適わなかった。その後まもなくして某国で紛争が起こり、アメリカがそれに参戦した影響でISDの設立は無期延期とされてしまったのだ。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 教室内のざわめきがいつもと違うことに気づいたユイは辺りを見回した。

 そう言えば今日の1時間目は授業をつぶして特別講演があるということを前に連絡されていた覚えがある。

 なんでも、受験シーズンを控えた学生たちへの励ましの意味を込めた講演らしいのだが、ユイは馬鹿馬鹿しいと興味を持たなかったのだ。

 だが、まもなくユイはその感想を覆すことになる。

 ユイがうっかり運命というものを信じてしまったのは実に久しぶりのことだった。


 その日の放課後。ダンダンダン……と大きな足音が廊下を走った。

 ユイはその耳障りな音と振動に不快感を表していたが、その音は理科室の前で止まった。

「薬師さん!」

 乱暴に教室の戸を開けて駆け込んできたのはカズマだった。

「カズマ君! どういうつもり? 理科室では実験をしているかもしれないんだから騒がしくしないでって言ったでしょ」

 立ち上がってカズマに非難の声を浴びせるユイだったが彼はそれを無視した。

「薬師さん! 進路を変えるって本当?」

 それを聞くと彼女は呆れたようにため息をついて腰を下ろした。

「ええ、そうよ。そんなことを確かめるためだけに走ってきたの?」

「どうして、そんな、そんなこと全然話したことないじゃないか」

「それはそうよ。今日決めたことだから」

「だからって、そんな。突然すぎるよ。今日って、どうして? 今日の講演だけで? 薬師さんはそんな一時の気分で進路を変えるような人じゃないと思っていたのに」

「……私にもいろいろ考えていたことがあるのよ。一時の気分なんかじゃないわ」

「でもアメリカへ行くだなんて!」

 今日の講演を行ったのは、国際宇宙開発大学の設立スタッフの一人だった。浦和高校の校長はこの人物と個人的な付き合いがあり今回の招致となったのである。

 別にこの大学への進学を勧めるつもりではなかった。

 世間にはさまざまな進路があるのだから、自分の適正にあった道を見つけて欲しいと諭すのがコンセプトだったのだが、ユイにとってはまさに天啓といってもよいものだった。

「そんなの……ないよ。どうして今更なんだよ」

「……? ねえ、カズマ君。何が気に入らないの? 何を怒っているのよ?」

「せっかく同じ大学に行けると思ったのに」

 ユイは、はぁ、と溜息をついた。

「何を子供みたいなことを言っているのよ。大学が同じでも学科が違えばそんなに顔を合わせることもないんだから、お互いやるべき努力をしようって言ったじゃない」

「でも、アメリカだなんて遠すぎるよ。会いたいと思っても簡単に会える距離じゃない!」

「カズマ君」

「僕は……僕はっ、薬師さんが好きなんだっ」

「!」

 カズマは顔を真っ赤にしていたが、ユイも同様だった。

 いつかは言われるだろうと思っていたが、面と向かって言われると体が硬直してしまう。

 そして心のどこかでカズマのその言葉を待っていた自分がいたことにも気づいた。

 けれど自分が『手を差し延べる王子様』を期待していたなんて絶対認めたくなかった。

 必死で、それこそ必死で、ユイは心の中に物理や化学の式を浮かべる。こうでもしないと感情に負けてしまう。

「僕が今の大学を目指した理由の何割かは、薬師さんと一緒にいたかったからなんだっ。こんなこと言うと薬師さんに怒られるかもしれないけれど、でもそうなんだ。アメリカだなんて……宇宙開発だなんて…、折角、模試でC判定が出るまでに漕ぎ着けたのに、もう、僕の努力でなんとかなる範囲じゃないよ。薬師さんがいなきゃ、僕は、これからどうしていいのか」

 その言葉は、ユイの心をカッ、と一瞬怒りにたぎらせた。そのおかげで次の瞬間にはユイは気持ちを落ち着かせことができた。

「それは、ただのあなたの都合でしょ」

 カズマはくっ、と唇を噛む。

「あなたにとって私が特別な存在なら、私にとっても『宇宙』は特別な存在なの。このチャンスを今逃すわけにはいかないのよ。夢のため、と言ったらおかしいかしら? 私にだって夢くらいあるのよ」

「……」

「冷静になってくれたかしら?」

「うん。ごめん。何か、僕、気が動転して自分ののことばっかり考えていた。……そうだった。薬師さんは前から宇宙の研究には力を注いでいたんだっけ。薬師さんはずっと、前を見てまっすぐ歩いてきたんだ。そんな薬師さんだから僕も、その……好きになったんだし」

 最後の方は、照れて横を向いてしまったため、カズマはユイの顔を見ることはできなかった。

 ユイは自嘲するように苦笑していた。

「でも薬師さん。僕は、やっぱり寂しいよ」

「もう……。向こうへ行ってもちゃんと連絡するから。我慢しなさい」

 子供を宥めるような調子でユイはそう言って右手で前髪をかきあげ、向き直ったカズマに優しく微笑んでみせた。

 普段の彼女からは想像もできないほど綺麗で優しい目だった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 不安で胸が押しつぶされそうになるのを懸命にこらえながら、ユイは慎也の家のチャイムを押した。

 慎也さん……!

 ユイは中学3年になっていた。ユイは夢を追いかけて努力を重ね、着々と才能を伸ばしていた。

 浦和東中学では、勉強にもスポーツにも秀でた二人の優等生『A組の伊部律子、B組の薬師ユイ』の名を知らぬものはなかった。

 ISD設立は延期されてしまったが、ユイはその時が来るのを気長に待ちつづけていた。

 また、慎也は大学をこの春卒業した。彼は大学院に進むか就職するかでしばらく迷ったすえ、後者を選んだ。しかし。

 慎也さん、どうしちゃったの?

 ユイの胸が痛む。

 数日前の夜、ユイが勉強の合間に1階にトイレに降りてくると居間から両親が会話している声が漏れ聞こえてきた。

 その内容がどうも慎也のことらしかったので彼女はつい聞き耳を立ててしまった。

「なあ、今日この辺に車まわしてきたとき、お隣の慎也くんを見たぞ」

 ユイの父親はタクシーの運転手である。

「あら、そう?」

「平日なのにぶらぶらして……。彼は大学は、卒業したんだよな」

「ええ、でも、就職活動が全然うまくいかなかったみたいで……、筆記試験はともかく面接で落とされるみたいよ」

「ああ、そんな感じだなぁ。おとなしすぎて挨拶がちゃんとできない子だし」

「それで、やっと会社が決まったんだけど、仕事が性格に合わなくて、この間大きな失敗をしてしまってから会社に行っていないみたいなの」

「かーっ、情けねえなあ。大卒がぁ。頭ばっかりじゃ世間はやっていけないぞ」

 ユイは唇を噛み締めその場を逃げ出した。

 有名大学卒業という学歴は諸刃の剣だ。

 誉めたたえる時にも貶すときにも有名大学のブランドは格好の材料になる。

 ユイの父は大学を中退してから職を転々として今の職業についたのだが、酒を飲むと必ずと言っていいほど自分の学歴と他人の学歴を話題にして騒ぐので、ユイはウンザリしていた。

 大学に行くことも、そこで何を勉強していたかというよりも、ただそこの学生であると言ううわべの看板しか見ていないようなのがユイにはどうしても許せなかった。

 お父さんなんか、慎也さんのこと何も知らないくせにぃっ!

 慎也の母親が玄関のドアを開け、ユイを2階へと上げてくれた。

 ユイは中学校に入ってからは、母親からあまり一人で慎也の部屋へ行くなと注意されていたのでそれは久しぶりのことだった。

「慎也さん」

 ユイは何気ない様子で部屋の中の慎也に声を掛けた。彼はユイの側に背を向けて座ってTVゲームをしていた。

「あぁ!?」

 振り向いたときの慎也の目つきが凶暴なものだったのでユイはたじろいだが、それは一瞬のことだった。

「ああ、なんだ、ユイか。どうした? 久しぶりだな。……母さんに頼まれて来たのか?」

「えっ? 違うわよ。慎也さんとしばらく会っていなかったから、どうしているかな、って顔を見たくなったのよ」

 ユイは後ろ手にドアを閉めると慎也の側に座った。

「……そうか、まあ俺は見ての通りダラダラしているよ」

「……」

「そんな顔するなよ。俺はもう駄目さ」

「駄目なんて言わないで。慎也さん、元気だして」

「いや……、もう、何もする気になれない。何かやったって人に迷惑掛けるだけだし」

「会社でお仕事失敗したこと気にしているの? 面白くない仕事だったのならしょうがないわ。一度くらいの失敗なんて、」

「…………」

「ねえ、もし、あのときISDが出来てたら、慎也さんは、」

「そんな問題じゃないんだよ、ユイ」

 慎也はユイの言葉を強引に打ち切った。

「どっちにしろ俺は駄目だったんだ。所詮俺は、何をやらせても何一つ満足に出来ない奴なんだよ」

「そんなことないわ! 私は何年も慎也さんを見てきたけど、そんなこと全然なかったもの」

「それは、相手がユイだったからさ」

「私、だから?」

「俺が安心して話せるのは家族以外じゃユイだけだよ。俺はまともに他人と話すことすらできない人間なんだ。ユイを相手に出来たのは、年下だから自分を馬鹿にすることはないだろうって思ったからだよ」

「そんな、慎也さん、慎也さんを馬鹿にしたりする人なんて」

「いるんだよ! 小さい頃からそうだった。みんなが俺の失敗するのを待ち構えているんだ。俺がテストで100点をとれなかったら、クラスの奴が俺の答案を覗き込んで『慎也が間違えた』って大声で言いふらしやがった。そしてクラスのみんながニヤニヤして俺のことを馬鹿にした目つきで見るんだ。そういうことが、小学校の頃から、ずっとさ」

「そんなの! 慎也さんは何も悪くない、ただその人が慎也さんの頭のいい事を妬んで言ってるだけよ。そんなバカな人のすることなんて無視して」

「口で言うのは簡単さ。でもな、人から馬鹿にされ続けていたら、自分で自分が馬鹿なんじゃないかと思えてくるようになったよ」

「…………」

「そうなんだ、俺は。どこへいっても駄目なんだ。今だってそうだろ? 俺は近所の人たち馬鹿にされている。人から馬鹿にされるのが嫌で逃げてきたのに、ここにも安らげる場所はなかったんだ。ユイ。ユイも俺の側にいると俺の悪い評判がユイにも移ってしまうぞ。もう、俺とは縁を切った方がいい」

「……やめてよ、そんなこと言うのは!」

 ユイの声が震えた。そして、身体をよりいっそう慎也の側へと寄せた。

「私は、私が慎也さんの側にいるのは、自分がそうしたいから! 他の人の声なんてどうでもいいじゃない! 私は、慎也さんが好き! あ……愛して、いるの」

 きゅっ、と慎也の腕にしがみついて。

 しかし慎也にはそのぬくもりが逆に恐怖だった。

「離せよ。俺はユイが好きだったわけじゃない。ただ単に、自分の得意分野だけをさらせる、優越感を味わうことのできる存在が欲しかっただけだ。こんな奴に、係わるな。離せ」

「嫌! 嫌よ。私はそれでもいいの。慎也さんの気持ちが済むなら、私は何でもするから、閉じこもらないで。お願い」

 しがみつく力はさらに強くなるが、

「もうユイは俺の汚い部分も見透かせるぐらい大きくなってしまったんだ。そうしたら、ユイも俺を馬鹿にした目で見るようになる。俺にはそれが耐えられない」

「私、そんなことしない!」

「誰だって、そう言って結局同じ事をするんだ。もう、勘弁してくれ、離してくれ!」

 慎也はやりきれない思いをユイにぶつけ、彼女を引きはがし、突き飛ばした。

「もう、出て行ってくれ!」

「きゃっ!!」

 ゴンッと、後ろ向きに倒れたユイが頭を本棚の角にぶつけた嫌な音がした。慎也の胸がギリッと痛んだ。

 けれども、これでユイも俺から離れていく、それでいいんだ、と愚かしくも自分に言い聞かせた。

 そして、愛想をつかしたユイが部屋から出て行くはずだった。しかし、いつまでたってもユイは倒れたまま起き上がらない。

「ユイ?」

 慎也は意固地になるのも忘れ、あせってユイに呼びかけた。

 ユイは気絶していた。

「ユイ、ユイ!」

 しかし返事はない。

「ああっ。あああーーっ」

 慎也は叫び、その場で頭を抱え込んでしまった。


 慎也の母親の手で、ユイは病院に運ばれることになったが、慎也がユイの見舞いに行くことはとうとうなかった。

 この出来事で慎也は鬱状態がひどくなり、家から出る回数もめっきり減ってしまうことになる。

 そして、その日を境にユイの右目の視力が急激に落ちていった。

 それにつれて彼女の運動のカンもにぶり「B組の薬師ユイ」は過去の人となっていく。

 周りでは受験を控えて、勉強に専念するからだろうと噂した。ユイもそう言われていたほうが都合がよかったのでそのまま黙っていた。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 何もかも失った、と思ったのに。

 あの事件から3年も経った今。

 ユイにとって一番大切な人は、まだ変わっていなかった。


 暴力を振るわれたことは恨んでいない。

 ただ、私を拒絶されたことがつらかった。

 あの人が私に甘えたり頼ったりしてくれなかったことが悔しかった。

 10年間積み上げてきたものを一度に崩されたみたいで。

 6年生のとき、おねだりして額にキスをしてもらったときは、あの人と結婚するんだと信じていた。それなのに。

 あの人は、私のことを好きではない、と言った。

 憎かった。

 殺意にも似た憎悪を抱いたこともある。

 でも、心の底からあの人を憎むには、あの人からもらった光はあまりにも大きすぎた。

 泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。

 そして、最後に残ったのは宇宙への憧れだけだということに気が付いた。

 それが私の原点であり、回帰すべき場所だということを悟ってからは、どんな辛い事でも乗り越えられるような気がした。

 慎也さん。

 私は自分の時を進めます。

 だから出来ることならば、かつて私があなたの背中を追いかけたように、あなたには私を追いかけて欲しい。追いかけなくてもいいから見ていて欲しい、です。

 あきらめないで勉強を続けたおかげで、私は自分の得意な分野を自覚することが出来ました。

 ISDに合格できたら――いいえ、絶対合格する――私はその方面へ進むつもりです。

 いつか、私がプロジェクトに参加したスペースシャトルが宇宙へ飛んだときには、星空を見上げてください。あなたが私の夢を潰したというのは誤解だと信じてもらえると思います。

 その時こそ、あなたが解放され、そして私も解放される時なのです。


 ユイはカーテンを少し開けると自分の部屋の窓から隣家を見た。

 ここからでは慎也の部屋の様子は判らない。

 けれどユイの目の奥には今でも二人で仲良く天体観測をしたときの鮮やかな星が焼きついているのだった。

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