世紀末覇者ゴブリン
気が付いたら森の中に立っていた。
本人にはこんな所にやってきた記憶はまるでなかった。しかも手ブラである。
正直意味が分からないと困惑する頭を振り、気を落ち着かせようとしていた。
大丈夫、まだ焦る時間じゃない。
夢遊病になっていた覚えはないが、今の状況に心当たりが無いわけではないのだ。
何故なら彼は超能力を持っていたから。しかも所謂超能力といわれる能力は大なり小なり一通り使えたのだ。当然その中には有名な瞬間移動、テレポーテーションも含まれていた。
寝ぼけて瞬間移動でもしたのかと、頭を掻いた時、彼の顔は驚愕に染まった。
「なんじゃこりゃー!」
彼の手に触れていたのは、豊かな黒髪。
なんということでしょう。堅く短かった筈の髪が、サラサラのロングヘアーに。指を動かせば絡まることもなく、美しい光沢をたたえた黒髪が指の間を流れ、まるで虹のような煌めきを放っています。そしてそれが風に揺れると花のような優しい香りが辺りに漂います。
あまりの驚きに、なぜか劇的ビフォーアフターなナレーションが聞こえた気がした。
そして、慌てて全身を確かめ始めた途端、再び叫び声をあげた。
「な、な、な、なんじゃこりゃとてー!」
パニックになった彼はよく分からない言葉遣いで叫んでいた。
彼が触れていたのは豊かな双丘。柔らかなその膨らみは、これまた輝くような白さの美しい指に押し潰され、それでも指の間からその存在を主張していた。
わなわなと震えた手がゆっくりと自身の体をなぞり下っていく。
双丘の下には細くくびれた腰が、そしてヒップが女性の最大のセックスアピールだというブラジル人も溜め息が出そうな、ツンと上がったお尻。そこから繋がって彼の記憶よりも長い脚が、えもいわれぬ脚線美を誇っていた。
当然のように股間にあるべき膨らみは、えっ?なんのこと?ここには誰もいませんよとばかりに消失していた。
彼は彼ではなく彼女になっていた。
「やばい、これは焦るべき時間だ」
いくら超能力があるといっても、流石に性転換する能力など持っていなかったはずだ。今は彼女となった山中凛太郎は焦りながらも、男に戻れと念じてみた。
しかし何も起こらなかった。
「どうなってんだ、これ、そもそも俺なのか?山中凛太郎の夢でも見てた痛い人なのか?それとも転生とか憑依とかいうヤツなのか?」
とりあえず凛太郎は超能力が使えるか試してみることにした。超能力が使えれば、少なくとも凛太郎の夢を見ていたわけではないだろう。
周囲の確認をかねてレビテーションで上空に上がってみようと試みた。すると彼女の体がゆっくりと浮き上がったが、その高さは周囲の木を越えるものではなかった。
彼女が凛太郎であったときは、上空といえる程度の高さまでは上昇できていたはずだった。
「使えなくもないけど、なんか疲れるなぁ」
その時バキッと木が割れる音がしたため、そちらに目を向けると、緑色の子供のような生き物がこちらに弓を構えていた。
「うわっ!」
慌てて射線から逃れようと体を飛ばすが、凛太郎であったころのイメージとは程遠く、小走り程度の速度しか出ない。
飛んできた矢が髪をかすめ、冷や汗を吹き出しながら草叢に転がるように飛び込んだ。
草の間から覗き見ると、いわゆるゴブリンというヤツだった。
「ゴブリンって雑魚じゃないの?超怖いよ…」
ゴブリンは身長こそ120cm程度で子供のようだが、大きく裂けた口からは鋭く尖った牙が覗き、体は野生の肉食獣を思わせるしなやかな筋肉で厚く覆われていた。
小柄で筋肉の塊、まるで往年のマイクタイソンのようだった。
「ありゃ殴られただけでも死ぬな…」
それでも昔の超能力の強さであれば、余裕で撃退できたであろうが、今はどの程度の力が残っているか、そもそも全ての力が使えるかも疑問だった。
「サイコキネシスだけでも万全ならなぁ」
焦りながらもゴブリンの後方の小枝に意識を集中した。枝がへし折れ、その音にゴブリンが振り返った。
此方を狙っていた矢が、背後に向けられた隙に急いで逃げ出すためにテレポーテーションを発動した。
テレポーテーションといっても、認識できないところに跳ぶと岩に埋まって即死もあり得るので、超感覚による空間認識可能な範囲にしか転移できない。
そして空間認識範囲も激減している。せいぜい50mくらいだろうか。視界が開けていれば見える範囲ならもう少し跳べるかもしれない。ゴブリンは50mを何秒で走るのだろうか。
不安はあるが、今は森の中。木が多く転移すればすぐには発見できないだろう。彼女はなるべく遠くにと三連続テレポートした。
テレポーテーションで使われるエネルギーは精神力のイメージだが、実際は確かに精神的にも疲れるが、体力を消耗した。
ジョギングも慣れれば数キロ走ったところで消費される体力も大したことはなくなるが、ニートがいきなり数キロ走るのは無理があるのと一緒で、凛太郎時代はキロ単位でもテレポートできたし、体力も大して使わなかった。
しかし、彼女の体は違った。三連続、つまり約150mのテレポートで膝をつき、息を切らしていた。
同じ距離を無呼吸全力疾走したような状態だった。あまりゼイゼイ音を立てていればまた気付かれる怖れがあり、必死に息を整えた。
幸いゴブリンが追ってきている様子はない。落ち着いていれば、ゴブリンが空間認識範囲に入ったときに気付けるはずだった。
周囲を確認すべく超感覚に意識を集中すると、近くに沢があるのが分かった。冷静になるとかすかに川のせせらぎが聞こえた。
フラフラしながら沢にたどり着き喉の渇きを癒していると、超感覚が沢に向かってくる生き物を捉えた。
「またゴブリンかな、逃げ切るのは体力的に厳しいかも…」
近づく気配は複数あり、どうやら争っているようだった。なんとかやり過ごすため、レビテーションで体を浮かせ、大きな木に登った。
ほどなくして大きな音を立てて巨大な熊が転がり込んできた。熊は所々血を流し、どうやら追い詰められているようだった。
それを追ってきた三匹のゴブリンが、剣や槍を構えて取り囲んだ。
一匹のゴブリンが剣で陽光を反射し、熊の目にあてた。熊は苛立ちと共に立ち上がり、鋭い爪をふるった。ゴブリンは身をかわすが、近くにあったゴブリンよりも太い木が易々とへし折られた。
立ち上がった熊は3mほどもある巨体で、ゴブリンがまさしく小人のようだった。
正面のゴブリンに気を取られているすきに、横から突き出された槍が熊の脇腹に突き刺さった。
熊が怒りの咆哮を挙げ、槍を持ったゴブリンに爪をふるった。槍が抜けなかったのか、ゴブリンはその場で爪に吹き飛ばされるように回転した。
血飛沫が上がった。
しかしそれは、ゴブリンの物ではなく、攻撃したはずの熊の物だった。
吹き飛ばされたように見えたゴブリンは、素早く槍を手放し、後方に倒れ込みながら右から振るわれる爪に合わせて左にコマのように回転し、爪を避けるとともに腰に付けていた鉈を抜き放ち、回転力を乗せた斬撃で熊の左前足を切り飛ばしていたのだった。
「マジか、アクションスターかよ!」
そのとき、苦鳴を挙げていた熊の口から剣が飛び出した。
見ると背後から三匹目のゴブリンが、見事に延髄を一突きに貫いていた。
「ゴブリンって、初心者向けの雑魚モンスターじゃないの…」
隙を作る陽動から始まり止めまでの息を飲むような連携に、驚愕するとともに感嘆の溜め息をついた。
「一対三で勝てる相手じゃないよ…」
枝に隠れて震えていると、前足を切り飛ばしたゴブリンがこちらを見上げた。
目が合った気がした。
冷たい汗が流れる。
不意にゴブリンが口角を上げた。まるで、不敵に笑っているようだった。
熊の後頭部から剣を引き抜いたゴブリンが、ギャーギャーと鳴き声のような声をかけた。
こちらを見ていたゴブリンは振り返り、軽く首を振ると、熊の死体を指差した。
残り二匹は頷くと、熊の巨体を軽々と担ぎ上げた。
三匹が去ると辺りには静寂が訪れた。
「なに、今の。まるで、『そいつも殺るか?』『いや、今回は熊で充分だ。弱者は狩る価値もない』とか言ってそう」
さすがにカチンときたものの、ゴブリンの言葉が分かるわけではない。テレパシーなら分かったかもしれないが、下手に刺激して襲われたらしゃれにならない。
「なんにせよ、小さい世紀末覇者三兄弟みたいなヤバいのからは逃れられたみたい。捕まったら、犯されるのかなぁ、こわっ」
なんにせよゴブリンがヤバいのは分かった。一刻も早く森から脱出するべきだ。
木から降りると忘れていったのか、ほどこされたのか、熊の前脚が転がっていた。
「切羽詰まったらこれを食べようかな」
ゴブリンに憐れまれ、ほどこされたと考えるのは精神衛生上良くないので、忘れていったことにして、前脚を回収した。
とりあえず周囲に気を配りながら沢を下っていくことにした。
幸いそれ以降は身の危険を感じることはなく、やがて森を抜けることができた。
森を抜けると草原が広がっており、安堵でへたり込みそうになったが、草原の草の丈が高く、腰辺りまではあった。
ゴブリンくらいなら充分に隠れられそうだった。それに蛇もいるかもしれない。
前方に小高い丘が目に入った。
「あれを登れば街か街道が見えないかな」
見通しが良いということは、ゴブリンからも発見されやすいということだ。認識範囲外から矢を射られれば致命的だ。
周囲に気を配りながらなるべく身を屈めて足早に丘を目指した。