不安
体は動かず、声を出すこともできない。
ただ私は目の前の雪景色を見る屍のようなものに成り果てていた。
私はこれが悪夢だと願いたかった。
体が不自由、声も出せない。
恐怖はなかったが不安はある。
きっと目を閉じれば、またいつも通りの日が来る。
けど、世界は残酷で。
そのいつも通りの日々の記憶すらも私は失っていた。
体は動かすことが出来ないままだが、状況が見えてきた。
一つ目は私が失ったのは発音能力と記憶だけだったということ。
どうやら知能と知識は生きているらしく、随分と状況整理に幸いした。
二つ目はこの世界が地球とは全く異質、つまりは異世界の可能性が高かった。
結論付ける証拠として、1日に何度も昼夜が繰り返されるのだ。
1回目の食事つまり朝食を取った後、夜になったり、逆に昼食は夜から朝になったりする。
1日中日が出ているということはあっても1日で夜と昼が交互に入れ替わるなんてことは地球と太陽の関係上どう説明しても無理な話なのである。
三つ目は私を養ってくれている彼女達のことだが。
どうやら彼女の母親に当たる人物は医者らしいということが下から聞こえる呻き声等で分かった。
[私のようなの]が下にいるのだろう。
彼女は随分と私に文字などの学識を教えてくれた。
お陰で彼女達が何を話していたか、何を思っていたかなんてことがいつの間にか分かるようになっていた。
彼女は・・・。
私が好きなのだろう。
いや、違う性癖が歪んでいるのだ。
唐突に何を言っているんだ、頭がおかしいのかなんていう意見はさておき、自分でも何がなんだか分からなかった。
「はい。口を開けてー♪」
はい、騒がない。
私は素直に口を開ける。
味としてはお粥に近いものだ。
何もない米の味。
一回、また一回と彼女は口にお粥を入れる。
唐突に彼女はキスをしてくる。
彼女の唾液とお粥が混ざる。
「おいしい?」
きもい。
1年後。
私は微弱ではあるが四肢を動かせるまでになっていた。
まだ歩く、と言ったことは出来ないものの近くにあるコップを取ることは簡単に出来るようになったが、連続して行うことは難しかった。
まだ唾粥を食べなければいけない日々は終わらないだろう。
3ヶ月後。
私は上半身を自由に動かせるようになった。
だが、それよりも私を驚かせたのは、彼女の母親が死んだということだった。
理由は罪人を匿い、国に処刑されたそうだ。
予想はしていたがやはりこの世界にも国という概念が存在するのだろう。
2ヶ月後。
私は障害の殆どを克復していた。
手も足も簡単に動かせることができた。
その足で始めて私の病室から出たが、狭いと思っていたここはかなり大きな病院だった。
どうやら新築らしい。
喋ることは出来なくとも言語は理解が出来た。
帰るべき場所がないので、彼女と働いている。
彼女達のことを知ることも容易かった。
死んだ彼女の母親は[マグノリア=リゼット]。
ここで医者をしていたようだ。
その助手の[クリム=テット]。
心優しい青年で将来は医者になって貧しい怪我人や病人を救いたいそうだ。彼はよく私に話かけてくれる。
看護師は8人、他の医者が6人いるがその中から特に親しかったのは看護師の[マヤ=ロザリア]だ。
彼女も私によく話かけてくる。
そして最後に彼女。
[アイラ=リゼット]。
私が倒れているのを偶然見かけたのは彼女だそうだ。
最も、私は記憶を失っているのだが。
ここが何処かなのか私はそれさえも知らない。
残念なことだが喋ることが出来ないのだ。声が出ない訳ではないが、ちゃんとした発音が不可能だった。
とはいえ、言葉が出せなくても他にコミュニケーションの取り方はいくらでもある。
私としてはこれに相当の不自由を感じた。
記憶と声を失い、この病院で養ってもらって3年。私はなんの不満もなく、この病院で働いていた。
この世界での医療技術は乏しいようで私が持ちうる医学知識は存分に活かされた。
声が出ない分、文章で伝えなければならないのでかなり苦労はしたが。
どうやら私は文を書くということがあまり得意ではなかったようだ。
とはいえ、何度も繰り返せば上達するのはありがたく、今において早書きの早さにおいては病院一位の座についていた。
そんなこんなで色んなハンデを持ちながらも私はアイラ達と仲良くなっていったのだった。
「ねぇねぇ聞いてよ院長。こないだの両足を骨折した男いたじゃんー。私さアイツからテルネアもらったのよー絶対私に惚れてるわねアイツ」
「へぇー。テルネアって確か宝石の1つだよね。良かったじゃん」
テルネアはあちらの世界でいうブルーダイヤモンドだ。
「アンタも私みたいな惚れられる女になりなさいよ」
「私はいいよ男なんて好きじゃないし」
「甘いわよ!院長!そんなことではこの世界、女一人で生きていけないわ!玉の輿に乗るのは女性の専門特許なのよ!」
ソバカス女はドヤ顔でそんなことをほざいている。
まだ処女のくせに。
しかも専門特許じゃなくて専売特許だろうが。
「ねぇ、ゼスティリカもそう思うでしょ!?」
ゼスティリカとは私のことだ。
この世界の言葉で幸運な娘という意味らしい。
実に私にふさわしい名前だ。
私はポケットに入っているメモ帳とペンを取りだし筆圧が濃くならないように丁寧に書き上げる。
[そうね。玉の輿に乗るのはこの世を生きる術だけどやっぱり自分と気の合う人の方がいいんじゃない?]
「ふん!これだから素人は!」
黙れ処女が。
「そう言えば薬そろそろ切れそうって先生言ってなかった?」
「また買い出しに行くのか・・・めんどくさいのよね・・・」
[私が行くわ]
「気をつけなさいよ。近頃、戦争が近いって噂になってるし・・・、アイラ、あんた付いて行ってやりなよ」
戦争が近いという話は恐らく本当のことだろう。
この異世界において、私が今いる国はバルツ王国と言われる。
豊かな緑、幾つもある水源、巨大な鉱山。あらゆる環境に恵まれたこの国は他国に介入せず、介入しない、いわゆる中立を保ってきた。
歴史から学ぶに、この国はもともと他国との交流も深かったそうだ。
だが20年前に起きた[パルメの戦い]でバルツ王国は鎖国態勢を先王亡き今も貫いている。
そんな時に鎖国態勢の撤回を求めた国があった。
植民地を最も多く保有する巨大国家、[夜がない国]と呼ばれるデルネキシア帝国だった。
当然、バルツ王国はそれを拒否した。
鎖国を撤回すれば何十万という飢えた異国民が豊かさを求めて、なだれ込んでくる。
天然資源を独占したいバルツ王国の貴族ひいては王族にとって国民がこれ以上増えるというのは避けたい事情だった。
だがデルネキシア帝国は強引に撤回を押し進める事をバルツ王国に叩きつけた。
それはバルツ王国に宣戦布告することを意味したのだ。
事実、私達が拠点とする聖ラ・ピエル病院からもほとんどの医者が軍医として徴収されていった。
「戦え、さもなくば死あるのみ、か」
バルツ王国の将軍、ラグレスの言葉だ。
ラグレスはかつてパルメの戦いにおいて、パルチザンと呼ばれる戦術を用いて陸上戦を制覇したと言われている。(私がいた世界におけるパルチザンではなく、この世界ではマスケット銃を用いた密集戦術である。)
その指揮は巧みだと豪語されているがはたして・・・。
少し寒気がする。
私は嫌な記憶を忘れようとするみたいに、仕事に没頭した振りをするために、馬車を走らせようとした。
その時、私はまだ安堵していたのだろう。
だから砲弾が落ちてくる音も聞くことは出来なかった。
ーーーーーー!!
馬車の隣で砲弾が落ちたのか、私もろとも馬も吹き飛ばされた。
耳鳴りが激しい。何がどうなったか。それすらも私は理解に苦しむことになった。
とりあえずアイラの安否を確かめなければ。
「動くな!」
背後から怒声が聞こえる。
後ろは振り向かない。
私のまわりには既に10人程の男に囲まれていた。
男達は皆ボルトアクション式だと思われるライフルを持っている。
この異世界では銃が存在していない訳はないと思ってはいたが、それでもマスケット程度の物だと思っていた。
「女か・・・おい!俺達はこの近くにある病院に行きたい!連れていけ!」
この近くの病院なんて聖ラ・ピエル病院以外ない。
ハッタリをかけることも無理だろう。
いや、むしろそんなことをすればかえってコイツらを刺激するだけだ。
ならば、行うべき行動は1つ。
私はペンとメモ帳を取り出す。
男は少し、驚いたがすぐに平静を取り戻した。
私が声を出せないのを理解する位には知能がありそうだ。
[分かった。案内しよう。その前にひとり助けさせてくれ]
「ダメだ。今すぐに案内しろ」
[一人くらい、いいじゃないか]
「黙れ、さっさと俺たちを連れていけ!殺されたいか!」
なんと融通の利かない男だ。こういう奴は女に嫌われるな。
というか言葉の片言が半端じゃない。ウザイ。
見た感じこの国の軍人ではないことは明らか、デルネキシアがここまで侵攻してきた、というのが正しい見解だろう。
やはりラグレスの防衛線を突破してきたか。
あまり戦闘慣れしていないのか、随分と興奮している。誰もが冷静になっていない。
少しでもふざければ撃ち殺されそうだ。
だが、それでも私はアイツの所に行かなければ。
性癖が物凄い変態女だが、それでも私を救ってくれた恩人で友達だ。
そこで、コイツらは邪魔な訳だが。
ーーー見たところ全員がボルトアクション式、サイドアームにハンドガンらしき物がある。
ここからは見えないがここ程の化学力を持っているなら手榴弾などの兵器も恐らく持ち合わせているだろう。
コイツらは私にそう思わせる程の武装なのだ。
なら、ここはスピードで一気に片付ける‼
私はペンを親指と人指し指、中指で持ち、肩を動かすことなく手首のスナップだけを利かせて男の顔面に投げた。
男の左目に突き刺さり男は身悶える。
その隙に私は拳銃を奪い、男を盾にして自分を守りつつ何故か小慣れた手つきで的確に銃口を敵に突きつける。
前の敵は狼狽えている。
当然だ。
戦闘慣れをしていない人間というのは予め戦う前にインプットした情報で判断をしようとする。
逆に言えばコイツらは予想外の事が起これば混乱するのだ。
今、リーダーが捕まって盾にされた!までは理解しているがその後[リーダーごと撃つか否か]で迷っているのだろう。
その迷いはほんの数秒程だが。
私はその[数秒]で全滅まで持っていける。
0.2秒で前の敵2人を、次に右の敵1人、後ろに回って盾にしながらその後敵2,3人全員に弾丸を頭に叩き込む。
そして盾の足を挫き、動けずしゃがんだ所で顔を360度回転させて、絶命させる。
動作、照準、発砲あわせて1秒にも満たないという神速といっても過言ではない俊敏さは結果的に敵を全滅にまで追いこんだのだ。
だが、そんなことはお構いなしに私はアイラを助ける為に転倒した馬車へと向かった。
「うぅぅ」
呻き声が微かに聞こえて私はすぐさま瓦礫を除ける。
すると、荷物に埋まって半ば気絶している様に見える変態看護婦が私の目に映った。
荷物から引きずり出して彼女に怪我はないか見てみる。
骨折といった重症にはなっていないが頭を打ったようでまだ意識が戻っていない。最悪、脳内出血を想定しなければならない。
私は治癒魔法を体得していない。すぐに病院に向かわなければ。
私は彼女をお姫様抱っこすると、こちらに迫ってくる青い焔を避けた。
「ギィィィィ!」
馬が青と白が織り成すその獄炎に包まれながら聞いたことのないような声で悲鳴をあげる。
私は焔が向かってきた方向に視線を当てる。
「へぇ~今のを避けるンだ~。」
辺りを燃やしながら歩み寄ってくるその女は[魔女]だと思えた。
肩まである銀髪で、不気味にまで思えるほどの白い肌。それを輝かせるようにさえさせる綺麗なオッドアイ。服装は正に魔女が着ていそうな古びたローブ。だが、最も特筆すべきなのはやはり、彼女を護る様にして彷徨するその蒼く煌めく焔だろう。
蒼焔はパチパチと木の幹を燃やしながら私とアイラ、そして魔女を取り囲む様にして盛る。
ここで確実に葬り去る気か、あるいは対談するために逃げないようにしたのか。なんにせよ、まだ攻撃を仕掛ける場合ではない。
「あら、あんたここにいた兵士全員殺っちゃったんだ。ま、アイツらは前線で戦おうとはしてなかった死んで当然だった連中だしね。仕方ないわ」
魔女は水を得た魚の様にこの状況を楽しんでいるように見えた。
「それでも、女の癖にそれほど出来るのだとしたら・・・あんた、ただ者じゃないわね」
魔女の声に殺気が纏う。
私は黙る、振りをする。
ここにまで来て、予想外の事態だ。この世界ではまだ魔術も発展途上の段階で軍事に利用できる程の攻撃力を持つ代物はない筈だが・・・。化学力が向上しているのなら当然、魔術も進歩していると想定しておけば良かった。
武器は・・・。
無い。
あるのは粉末薬だけで私の手元にはない。兵士のライフルを取ろうとする前に私自身が燃やされそうだ。
抱えているアイラも見た感じは持っていないだろう。
武器に頼れないなら肉弾戦は・・・。いや、ダメだ。その前に私が燃やされる。
私が思考の裏でそんな焦りを走らせる中、女は嗤いにも似た笑みを浮かべる。
「もしこれが私の思い過ごしだったら善いのだけれど、何か変なことを考えているのなら止めた方がいいわよ。少しでも貴女が動けば・・・このコを炙り殺しちゃうでしょうね」
私はなんの小細工も無しにまっすぐ、標的に突き刺さる様な勢いで迫る。普通の人間がもつ何倍もの力で地面を蹴る。
目の前からは蒼炎が向かい撃ってくる。私はそれを次々と避ける。
「な!?」
思った通りだ。やはりこの焔には[意志がない]。つまり奴はこの焔を目視で狙って撃っているのだ。そこに勝機はある。
熱気で蜃気楼が生み出され、視界が歪む中で、俊敏に動く私を狙うことなど出来るはずがないのだ。
私は後わずかの距離にまで詰める。
「クソ!ふざけるな!」
女が極大の焔を煌めかせようとすると同時に、私は持っていた粉末の薬を撒き散らす。
そこで女は一瞬青ざめた顔を顔をする。
粉塵爆発なんていう言葉を記憶していた私は実に救われ者のようだ。
そして私の拳は女に突き刺さろうとしていた。