空に落ちる
白き蓮の花のような少女だった。陶磁器のような滑らかな肌の頬には淡い桃色が差している。長く伸ばされた髪には黒桐のような深みある色合いがあった。嫋やかな髪は太陽から降りそそぐ光の粒子を反射させて輝く。薄められた空気の透き通るような風が矩形の窓より吹き込んだ。大きくはためいたカーテンはまるで花嫁のベールのように少女を包み込む。彼女は窓を背にしてその銀色の枠に寄りかかるようにしていた。僕と彼女の間には数個の机と椅子がある。整然と並べられたそれらの意味するところ――ここは教室だった。彼女は僕を見据えると、おもむろにその薄い唇を開いた。
「寺山修司は言った。僕らは不完全な死体として生まれ、何十年かかって、完全な死体になるのである――と。そう……私たちの生というのはさしずめ、そういった死の揺らぎの中にあるものでしかないんだ」
鈴の鳴るような綺麗な声だった。そして彼女は微笑する。それと同時に僕は彼女の背後に……つまりは窓の外に、人が上から落ちてくるのを見い出した。ほんの一瞬の出来事だったが、しかしそれは確かに人の形をしていたのだ。それは服を一切つけていない生身の体のようで病的なまでに白かった。まるで生気という生気を取り除かれた様は、言うならば、この目の前にいる美しい彼女から血という血を一滴残らず搾り取った後のそれにひどく似るように思えた。この超自然的な状況下に反して、僕の思考は驚くほどに正常だった。白い光。黒い瞳。桃色の少女。青い空気。緑の微笑。黄金の血。
そして――死体は空から降ってきた。
* * *
死体が空から降ってくるなんて、タチの悪い冗談でしかないだろう。しかし現実として、そのどうしようもない事実は僕の前に立ちはだかっていた。そして僕は、いつしかこんな世界のほうが狂っているのだと思い始めた。けれど、空から何度も降ってくるそれを見ては僕の生に対する感覚は摩耗していったのだった。やがてそれを見ても僕の心が動かなくなったとき、僕もまた狂い始めているのだと気が付いた。
窓から見えるのは真っ白な校庭だった。地面というよりかはもっと無機的なナニかで出来ているようだ。今日もまた窓辺の席に座って、死体が空から落ちてくるのを眺めていた。超高高度からの物質落下。柔らかい肉の体は地面との衝突で四方に弾け飛ぶ。残されたのはぐちゃぐちゃになった肉の塊と、それを中心に咲いた紅い花だけだった。脳漿はピンク色。それの落下したところは、赤黒い中心から外側にかけて色が薄くなっていき、星形の綺麗なグラデーションを描く。白い校庭は、この場所だけを現実の境にしてどこまで果てしなく広がっていた。その風景はある意味で幻想的で、しかし寂しかった。その歪んだ肉細工はやがて地面に飲み込まれるように沈んで跡形もなく消える。染みついた血の紅も吸い込まれて、元の真っ白な状態に戻るのであった。死体は途切れることなくあの青い空から次々と降り注いでいた。あるモノは僕の目の前を通過して落ち、またあるモノははるか遠方に小さな花を咲かせる。まるでそうであることが極めて自然であると思わせるかのように、赤い水玉模様が時々に柄を変えて僕の目の前に広がっていた。僕にとっての現実というのは、この狂った風景と、このありふれた教室のみだった。
彼女――はっきりと思い出せないが確かに居た――は、僕と同じ空間で同じ時間を過ごした人だった。僕らはこの閉鎖された環境の中で、まるで檻に閉じこめられた鳥のように有り余る暇を弄んだ。彼女はどうしようもない話をするのが好きだった。それはいわゆる哲学とも呼べるようなよく分からなくて答えの出ないものが多かった。とりわけ彼女は運命論をよく口にした。すべてが予測演算可能な世界ならばこれからずっと先の未来まで見通すことが出来るのだと、彼女は子供さながらの無邪気さで語っていた。
そんな彼女はまたロマンチストでもあった。それは過去、誰もがみな歌人だった頃のことをも引き合いだして滔々と話し出すのだ。
「前世からの宿命で私たちは結ばれている。だからこれは生涯でたった一度の確かな恋なんだって」
彼女の言葉が思い出される。有り体に言えば、ありとあらゆる出逢いは定められているのだと彼女は言う。運命だなんてそんな――と、僕は彼女の言葉を半ば冗談めいた気持ちで軽くいなすのだったが、彼女はそんな風に言う僕を窘めもせずにただ微笑むのであった。
懐かしい。それが僕がいまここに居て感じる一番のことだった。郷愁に似た感情が胸を締め付ける。毎日のようにこうして窓の外を眺めるしか他にすることの無い僕は、かつての輝かしい彼女との記憶に糸を張ってそれを手繰り寄せるぐらいしかなかったのだった。糸の色はなんでもあった。黄色。銀色。紺色。茶色。草色。水色。エトセトラ。一切は彼女に繋がり、様々な形をした想い出というやつが針に食いついた魚のようにすっかりと引っかかっている。その中はまるで宝石の海のように、煌々と金色に輝く魚が悠々と泳いでいるのであった。適当に掴んだ糸を一本引き上げてみると、そいつの体には『サムゼロ理論』と書かれている。
「幸せと不幸の総和はゼロになる。君が幸せになれば誰かが不幸になっていて、君が不幸になれば誰かが幸福になっている。そう考えると面白くない? あるいは、『昨日の不幸は今日の幸せ、今日の不幸は明日の幸せ』ってね」
幸せの量は限られていると彼女は言った。そして幸福と不幸は等価だとも言った。でも僕は世界には不幸の方がよっぽど多く見えると反駁した。しかし彼女は、幸せは不幸ほどに目に見えないから少なく感じるだけだよと言い返した。彼女は次にある小説の冒頭を持ち出した。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸である」
幸福はその根っこを大概に同じくするが、不幸の形は千差万別だということらしい。そして彼女はさらに補強するように、人の感情を表す言葉を箇条書きでもする勢いで述べ始めた。
「楽しい嬉しい愛しい優しい喜ばしい。苦しい悲しい寂しい悔しい妬ましい。感情を表す言葉は様々あるけれど、これらの心の動態を思い起こしてもらえれば私の言ってることも分かるはずだよ」
彼女の話の根底には、いつだって『わかるはずだ』という概念があった。それは分かるであり判るであり解るであった。彼女は常に完璧なコミュニケーションを求めていた。しかし一方で、コミュニケーションに技術が求められる時代ってなんなんだろうねとも言っていた。この国は極めて冷静に狂っているから、と――コミュニケーション障害なんてものは本当はないと言うのだった。彼女はそれを、病名を付けたがために病気と扱われるようになってしまったことに似ていると悲しんでいた。彼女が暗に示す『わかるはずだ』という考え方は、ともすれば『わかりあえるはずだ』に言い換えることが出来るのではないかとふと思った。彼女はそういった美しい理想とやるせない現実の狭間で苦しんでいるように見えた。
彼女の幸福と不幸の話を聞いて、簡略してしまえばトレードオフのことじゃないかと僕は言った。彼女はそれに対して、あながち間違いではないけれどなんだか味気ないと返した。
「トレードオフはただの現象でしかないんだよ。一方を立たせれば他方が折れるっていうだけのね。そこに幸福と不幸のような繋がりはあってないようなものなんだよ。廻るってとこが大事なの」
そう言って彼女は指で宙にグルグルと円を描いた。それからトレードオフを紙飛行機に、幸福と不幸のスパイラルをブーメランに喩えて説明した。どっちも飛ぶという点では共通しているけれど、投げたっきりか戻ってくるかで全然違うのだと言う。君に理解してもらいたいのは循環であり、一つの球だとも言った。僕は正直なところ、彼女が伝えようとするところの半分程度にしか理解及ばない。故にわかったふりをしながら、しかし彼女の話を熱心に聞いていた。時に彼女の博識さや、その考え方の突拍子のつかない着眼点に驚かされる。その度に僕は舌を巻いて、驚きながらも新鮮な気持ちで楽しい時を過ごした。
『昨日の不幸は今日の幸福、今日の不幸は明日の幸福』と巡り巡って幸福が自分の袂に必ず戻ってくると信じて止まない彼女を困らせたくて、僕の悪戯心がにわかに鎌首をもたげた。まるで彼女の聡明さに啓発されるかのようにして、ならば彼女とは逆の方向で考えてみてはどうかと考えたのだ。いわば自分の為すところの幸福と不幸が他者に対してどう働くのかを考えたのだ。思い出の箱の中から今度はどどめ色の糸を手繰り寄せると、魚の体には『間接的殺害者』と書かれている。
「僕らが幸せであるぶん誰かが不幸になるって言ってたよね?」
それは僕が手始めととして彼女に取った確認であった。彼女は何の躊躇いもなく、そうだよと頷いた。その時の僕はまるで狡猾な釣り人であった。彼女の予想通りの答えに羽振りをきかした僕は追い打ちを掛けるように続けた。
「だったら僕らは生きることで誰かを殺すことになるね。生きるってのはその揺らぎの状態の継続、言い換えれば消費の連続だから、代償としての死は積み重ねられなければならない。いわば僕らは本人の意志に関係なく、動物であれ植物であれ、数多の命を土台に生き続けるんだ。そんな生を果たして無上の素晴らしいものとして享受出来るかと言えば、僕には到底――……」
そこで僕の言葉は一度途切れた。再度言い直そうとして、若干戸惑った。そして思い直して明確な否定の言葉を口にすることを止めた。
「ひとつの幸福のためにいくつの不幸が犠牲になればいいんだ? 幸せと不幸の量は一緒じゃない。不幸を食い物にして幸福は成り上がっているんじゃないのか?」
それはいわゆる弱者の視点だった。虐げられる民と居丈高な王政。搾取する側とされる側。本来それらは両義的な側面を持つために、単純に二元論では語ることは出来ないことだろうが彼女の幸福と不幸の対比にあてつけるにはそれで充分だった。これは時に残酷な問いかけだ。算出不可能な不定形の、存在も曖昧なものの量とその質を求めているようなものだから。しかし彼女は目を閉じて静かに首を横に振るだけだった。
「犠牲じゃ、ないんだよ」
独特な言い方だった。その短い言葉に彼女の強い想いを感じるようだった。
「幸福を追い求めることが罪だなんて言わないで。生きることが悲しいだなんて思わないで。世界はね、もっと優しくて美しいものだから」
そういって彼女は背を向けると窓の外を見やった。茫洋と広がる白き大地を臨み彼女は何を思うのだから。今も死体は降っている。青い空からちぎれた雲のような白い点が、あるいは雹のように降っている。雹は氷。氷は透明。透明でない氷は空気を孕んでいる白く濁る。変幻自在に形を変える水は固まって、その中に取り残された空気は光を乱反射させることで自己の存在を主張する。ならば本来、白という色は透明に換言出来るようでもあった。その白は光だからだ。そして今ここに見えるあらゆる景色の内、視界の大部分を占めるのは白であり透明であった。
彼女が僕の問いかけに答えたのはそれだけのことだった。いつもは饒舌な彼女も、この時ばかりはどうしてか不思議に口をつぐんでしまったのだ。ただその物寂しげな背中は小さくも凛とした美しさがあった。この一瞬を写真で切り取れたら、それはどんなに素晴らしいことだろうかと思う。たった二人きりの教室には薄められた空気が漂っていた。空気は光の粒子を反射させて鈍く光るようであった。びょうと吹き込んだ風にカーテンが大きくたなびく。
僕は窓辺に座っていた。立て肘をついて、そこに顎を乗せながらぼんやりと想像してみた。彼女はそこに立っていて、外を見て、あの時何を思ったのだろうかと。僕はそうして今は亡き彼女の面影を追った。
* * *
「問題。人間は根源的に時間的な存在であると言ったのは誰でしょうか?」
不意に声が聞こえた。それは右から聞こえてようで背後からも聞こえたようだった。驚いて振り向くと、教室後方のドアのところになんと彼女が居た。そして再度驚いた。どんなテコを使っても開きそうになかったドアがすっかりと開かれていたのだ。彼女は見せたことのないようなニヒルな笑みを浮かべて、そのドア枠にもたれ掛かっていた。
「忘れちゃった? ハイデッガーだよ」
あまりの事態に呆けていた僕に彼女はつかつかと歩み寄ってきた。
「罰。デコピンの刑」
彼女は右手の中指にぐぐぐと力を入れると僕の額に勢いよく放った。ツンとした痛みが額に走った。彼女はそのまま僕の座っているところの机に腰を軽く掛けた。生き写しだ。まるで本当に彼女が甦ったかのようにそこに居た。額に残るわずかな痛みが、これを夢でも虚構でもないことを裏打ちしてくれているようだった。
「どうしてって顔してるね」
僕の気持ちを察したかのように彼女は言った。彼女は軽く微笑むと――この微笑は何度も見たことがある――ピンと人差し指を立てた。
「確かに彼女はここに存在するけど、ここには居ないんだよ」
存在するけど居ないとは一体どういう意味なのだろうか。今僕の目の前にいる少女は確かにあの彼女なのだ。不確定なことを確かめる最も有効な手段は、その現象が目の前にあり、事実見えるということではないか? ならば僕の眼前にいるこの少女の存在は確約されていると言ってもいいはずだ。もし僕の認識に絶対的な誤りがあり、これが僕の目が見せる幻覚でない限りにおいて間違いなくそこに彼女は居るのだ。哲学的ゾンビを引き合いに出すまでもなく、彼女はそこに居るはずなのだ。
「違うよ。本質的に違うの。彼女は彼女であって私は私に過ぎない。本質的に、違うの」
彼女は本質を強調するように重ねて二度言った。
「私は――いや、その前に」
彼女は何かを言いかけようとしてハタと言葉を切った。
「名前、わかる?」
ピンと張っていた人差し指は、今度は彼女自身に向けられた。そして僕は反射的に口を開こうとして、しかし次に出てくるであろうはずの言葉が出せなかった。
「わからない……」
僕はこんなにも長い間彼女と同じ空間と時を過ごしながらにして名前をすっかり知らなかったのだ。
「違うよ。知らなかったんじゃなくて、忘れてしまっただけ。名は体を表すってよく言うけどその逆もまた然り。つまり名は体がなければ存在価値を失うってことなんだよね。あ、ちなみに私は七架って言うの」
自身を七架と呼んだ少女はそう言うと、机から腰を浮かして離れていった。状況は全く違えど、その小柄な背中は僕の記憶の内にあるそれとひどく似ていた。『名は体がなければ存在価値を失う』とこの少女は言った。つまり今僕が彼女のことを思い出せなかったのは、ここに彼女の存在がないからか? しかしそれは違うように思えた。本質的に違うと言った七架は、彼女はここに存在するが居ないということを論とするものだったからだ。つまり……、
「存在は物質的な有るで、居る居ないは精神的な有るってことか?」
にわかには信じられないが、七架の言葉を真に受けて符号させるとそういうことになるのではないだろうか。
「まぁそんなとこかなー」
七架は気のない返事で答えた。
「私だって便宜的に名前がついているだけだからさ、この名が本当に私を表しているものなのかは甚だ疑問なんだよね。ただ名前ってのは、言っちゃえば記号でしかない訳だし、そもそもそんなに大事な意味はないのかなって思うんだ。大事なのはその記号の意味するところと、その意味がわかる人にだけわかればいいってこと」
その話は僕の思うところの記憶の糸と魚に似ていた。思い出と等しく、また名前も共有することでしか意味を持てないということだろう。しかしそこでふと疑問が沸いた。どうして彼女の名前は思い出せなかったくせに、寺山修司やハイデッガーの名前が出てくるのかということだった。
「それはあれだよ君、現象としてもう成り立っているからね。個別の存在自体は既に存在していないけれど彼らはここは確かにここに居るんだ。それは私たちの頭の中、すなわち記憶という情報の積層としてね。君はあれだったかい? 神様を信じる人?」
「何を出し抜けに……神だって?」
唐突に出てきたその言葉は会話の流れにあまりにそぐわず、そして陳腐な言葉だった。
「イエスイエス。神。言わずもがなゴッドだね。それで君の答えをまだ聞いていないのだけれど?」
「僕はオカルトの類はあんま信じない方なんだけど――」
そこで七架がプッと吹き出した。
「あ、ごめんごめん。続けて」
勧められて話し始めた言葉を遮られて、かつ笑われるというのはあまりいい気分じゃなかった。その不満をそれとなく七架に伝わるように、僕は眉をひそめて言葉の続きを述べた。
「……――神は居るって思うよ」
「ほう」
先ほどのおちゃらけた雰囲気からは一変して、七架は実に真面目に頷いた。
「どして?」
「どうしてって……なんとなくとしか言いようがないな。僕は無宗教だしね」
「ふぅん。つまり特に信じる理由も否定する理由もないから、居ると? なんか論理が破綻してない?」
七架は初めて来たときと同じように、ピッと人差し指を立てた。そしてその切っ先を僕の方に向けた。
「神は君」
そして今度は自分に向けて、
「神は私」
最後にその指は窓の外を差した。赤い水玉模様が広がった校庭を差している。いや違う……もう少し上だ。目線をわずかに上方修正する。
「そしてあの人たちが神なの」
それは空から降り続けている幾多の白い死体たちだった。七架は腕を下すとこちらに向き直った。
「神ってのはさ、言っちゃえば集合的無意識のことなんだよ。それは君であり私であり、その他多くの人々と同義なんだ。だから単一としての神は居ないんだよね。そこにあるのは人の概念だけ。それがまぁ宗教ってことになるんだろうけど」
彼女の話はあまりに突飛すぎて理解できない。
「僕が神だって? そんな馬鹿な」
「これが真面目なんだなぁ」
諦めなよとでも言うような口ぶりだった。
「私が言いたいのはつまりね、意識が神を創り、そして記憶という情報が世界を象っているってことなんだよ。君は存在の概念に疑問を感じていたようだから補足したつもりだったんだけど……かえってややこしくしちゃったかな?」
僕は頭から疑問符が浮かび上がりそうほど険しい表情で七架を見ていたのだと思う。なぜなら僕の顔を見た七架は、指の腹を口に当てて深く考え込んでしまったからだ。少しして、あっ、と七架が短い声を漏らした。何か重大な見落としに気付いたような具合だった。
「もしかして君……自分が死んでるってことを知らない?」
そんな衝撃的な言葉が、キョトンと首を傾げた七架の口から飛び出してきた。
* * *
魂は引き合う。それはバラバラにされた細胞が、ほかの細胞と混じり合わずに同種同士で再び集まりあうような実験に似ている。しかし起点としては、魂が引き合うからそれが現世に反映しているそうだ。名残だと、七架は言った。
「あるいは本質なのかもね。ほら、よく言うでしょ。類は友を呼ぶってね。でもあまりにも離れ離れじゃ近づけないから、私みたいな送還者がいるの」
「ちょっと待ってくれ。送還者ってなんだ? それに僕はそんなのになっていた覚えはないぞ」
「送還者って言ってるけど……そだね、天使って言った方がわかりやすいかな。輪廻から外れた人間はみんな天使になるの。君もかつてはそうだった。そして君が送ったのが、君が私に見る彼女の姿の中身、つまり彼女自身であったということ。君はそのことにまるで気づいていなかったようだけど、知らず君はこの世とあの世を渡す橋がけになっていたんだよ」
そうだ――。僕は七架から話を聞いたことによって情報が補完されるように、その時のことを少しだけ思い出すことが出来た。そして僕は彼女と別れた時のおぼろげな記憶を手繰り寄せた。あの日は、なぜか今日と同じようにドアが開かれていて『二人で空を見に行こう』として屋上に向かったんだ。あの日は、風が強く吹いていて『空ってこんなに近かったんだね』と彼女は言っていた。そして彼女はその空に吸い込まれるようにして――……そして僕は網格子を乗り越えて屋上の縁に――……記憶は途切れている。コマ送りのフィルムのような断続的な映像がチラチラと頭に浮かぶだけだった。
七架―――自身を天使と称する少女――は軽やかに笑って、
「記憶が曖昧なのかな?」
まるで僕の考えを察したかのようにそう言った。
「すごいな。わかるのか?」
「まぁ、なんとなくね。ここには上の世界みたいな個別の生命を定義するような境界はないからね」
すべては繋がっているんだよ、と七架は言った。だから情報としての記憶をそれとなく共有することも出来るというのだ。
「曖昧なのはきっと、君が戻されちゃったからだろうね。それで記憶もまたパァしちゃった訳だ」
「戻されたって、何がだ?」
「君がだよ。せっかく解脱したのに輪廻の中に逆戻りしちゃったってこと。難儀なことするねぇ。ん? でも彼女のためを思ってのことなら義理堅いとも言えるのかな?」
「もう少し噛み砕いて言ってくれ」
えー、と七架は苦虫を噛み潰したような形容しがたい面倒くさそうな顔をした。
「これでもだいぶ丁寧にしてるんだけどなぁ。何も知らせずに彼女を送った君と比べれば、私はだいぶ優秀な天使だな、うん」
七架はしょうがないなぁと言った風に軽く頭を搔いた。
「君は本来、生き返る必要はなかったんだ。あ、ここで言う生き返るってのは魂の再生の意味でね。天使――つまり解脱出来た魂はね、未来永劫この天国で過ごせる権利が得られるんだ。まぁこういったちょっとした仕事はあるにしても、基本的には極楽ってわけ。その権利を君はむざむざ放棄して、いまここに生まれ変わった。それはひとえに君が、彼女の魂に魅せられたからだと勝手に憶測させてもらうけど、つまり君は彼女の魂に引かれてしまったんだ。あるいは惹かれたって言ってもいいかもね」
言葉遊びだね、と七架はそこで一息ついた。
「死には五つの段階があるって言うけど、生と死をもっと大きな視点で分けるとね、それは四つのセクションに分類されるんだ。それは肉体的なものと精神的なもので四つ。上の世界では殊更に肉体的なものが支配的だけど、コッチでは当然精神的なものに趨勢がある。君は空から降ってくるアレの正体が一体なんなのだか気にならなかったのかい?」
七架の言うアレとはすなわち白い死体のことだ。今までの会話の流れを汲んで、もしかして、と僕は思考を巡らせた。
「アレは……魂の原型か?」
「惜しいね。魂そのものだよ」
七架は言う。アッチから帰ってきた魂は汚れすぎているから一度綺麗にする必要がある、と。だから超高高度から魂を地面にぶつけることで粉々にする。そして綺麗な魂は大気中に飛散し、その抜け殻であり澱である残り滓は地面に飲み込まれてさっぱり浄化される。その後バラバラになった魂は、細胞実験の喩えのように同種同士で集まり再構成され、生き返る。この一貫の過程が魂の生と死なのだそうだ。
「だから君は本来の理からは外れて生まれてきちゃったってわけ。かといって別に何か罰があるとは思えないけど……まぁ帳尻合わせのほうは勝手に悪魔にやってくれるよ」
七架はこの世に存在していい魂の数は定められているのだと言った。それはなんて幸福と不幸の話に似ていることだろうか。ありとあらゆるものが巡り巡っている。その循環は、まるで一つの円だった。円は幾重にも折り重なり、一つの球体を為した。そして僕は、いつしか彼女が言っていたことをようやく理解出来たように思えた。
「で、その生まれ変わりの際に君の記憶もまたバラバラに弾けちゃったんだよね。元が元なだけに、だいぶ変な感じに記憶が繋がってるんじゃないかな? 例えば、その彼女との出来事は鮮明に思い出せるのに、それがどの順序で起こったのかは判らないって具合にさ」
僕はハッと気付かされた。確かに僕はありとあらゆる思い出に糸を張ってそれを引き上げることは出来たけど、思い出は等しく並列で、それがどの順序であったかなんて全くわからないのだ。
「そもそもここは時間の概念自体が曖昧だからねぇ。『人間は根源的に時間的存在である』のは上の世界でのことで、ここはもっと緩やかなんだよ。時が存在を定義するんじゃなくて記憶が存在を定義するんだもの。ならばこそ、君は同種の魂が同種の記憶によってかろうじて紡がれた存在と言えるね。喩えるならさしずめ、ジャック・イン・ザ・ボックス――びっくり箱だ」
その称号が天使を辞めた君への罰とするならばそれはそれで面白いと七架は言った。ジャック・ザ・ボックスには箱詰めの悪魔という意味もあるそうだ。
「ほかに何か私に聞きたいことはあるかい?」
ひとしきり喋り終えた七架は僕にそう聞いた。僕は首を横に振る。僕の中にあったものは綺麗さっぱり整理された。それらには確かに僕が疑問に感じていたことも、七架に言われるまで気付かなかったことも含まれていた。七架はその答えに充分に満足したようだった。そして七架は僕に向かって手を差し伸べた。
「さぁ行こうか。彼女が、待ってる」
僕は七架の白い手を取った。彼女に連れ立たれ僕は行く。教室を出る間際に振り替えると、空気がわずかに光っているように見えた。もしかしたらこの燐光は、七架の言うところの弾けた魂たちがまだ凝集する前に光ってるのかもしれないと思った。『私たちはここに居る』と、彼らは主張しているのだ。白は透明だった。透明は空気だった。空気は光だった。光は魂だった。そして僕ら向かう。遥かに遠くて限りなく近い空のもとへと――。
* * *
「ありがとう七架。君のおかげで色々とわかった気がするんだ」
僕らは屋上にたどり着いた。その屋上の中央で、あるいは空の真ん中で僕らは向き合っていた。ゆるやかな風に七架の髪がたなびいた。
「いいよ別に。ま、君が今知ったことは、これからアッチに向かう途中でまた弾けて、今度こそ完全なまっさらになるんだけどねぇ」
七架はおどけたように肩をすくめた。
「それでもいいさ。たとえそこに虚無が存在するようになっても、確かにそこにあったんだ。言うならば存在の履歴は積み重なるんだよ」
「存在の履歴、か……。いいねそれ。別れ際にしちゃナイスな台詞だよ」
七架はグッと親指を立てると、僕の方に近づけてみせた。七架の意図を汲んで僕も七架と同じようにすると、互いの拳でそのままトントンと二回小突き合わせた。まるで男友達がそうするように、爽やかな別れの挨拶だった。サヨナラは言わない。
そして僕の体はその重力を失ったかのように徐々に浮き始めた。足が地面から離れてゆっくりと上昇していく。七架はそれを見上げるような形で見上げていた。僕らは互いに笑い合う。七架――その柔和な笑みを浮かべる少女は、晴れやかな空の下で光を浴びて輝いた。そこには僕が思い描くところの理想の天使像――そう、白銀の翼をゆったりとはためかせる天使のような美しさがあった。
世界はこんなにも優しくて、美しい――。
そして僕は空に吸い込まれていく。薄い空気を切り裂くように空へ空へと昇っていく。厚い雲を通り抜けると、真っ赤な夕日が目を覆った。その強い光は刺さるようも僕を照らし出したようであった。この燃えるような真紅の光に僕は命の色を見た。吹き出す鮮血を想起させる色の空だ。そして僕は遥か上方に連なる山並みを見出した。いや違う。僕が上だと思っていたのは、実は下であったのだ。そう、僕は空から落ちていた。空に落ちていたのだった。凄まじいスピードで落ちていく。回りながら落下していく。そして夕日が僕の背中に来たとき、僕は逆さまの大きな虹を見た。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫――空と地上を繋ぐ七色の橋――七架――。それが今も天国にいるであろう彼女の名前の意味に違いなかった。わかる人にだけわかればいい――彼女の言っていたその意味がようやくわかった気がした。やがて僕の体は透明になり、手の先脚の先から、幾つもの小さな輝く粒となって崩壊していく。僕は薄れゆく意識の中で、再びまっさらな状態に戻ることをこの上なく望んだ。不安や恐れの感情は皆無だった。それは無に至る軌跡でありひとつの循環に過ぎないことがわかっていたからだ。そして――僕は光になった。
* * *
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
それはとある病院の分娩室であった。助産師が抱え上げた赤子は元気よく泣いていた。母親は差し出された赤ん坊を抱え込んだ。母親はその小さな赤子の大きな重みを感じていた。肌の薄い赤子の肌は血の色で赤く、まぶたもまだ開かない。まるで何も見えない赤子に代わるように母親は我が子を愛おしい目で見つめたのであった。
「がんばったねぇ」
そう言って彼女は赤子のまだ湿った柔らかい髪の毛の上から優しく頭を撫でた。そして彼女の手が赤子の手に触れたとき、赤子はキュッと母親の指をその小さな手で掴んだ。離さないで――まるで赤子はそう言っているようであった。彼女はそんな赤子の手に軽く指を重ねた。離さないよ――赤子に求められたことを敏感に察知したかのように、彼女もまたそれに応えた。白い肌をした彼女の顔中には玉のような汗が幾つも滴っていた。その様はまるで、雨露に濡れた白き蓮の花のようであった。