町の噂
この時代、家とは神聖なものでその個人の聖域と言える。
城を守り城を攻める時代だからこその風習かもしれないが、屋敷に正式に所属する家人やその客は家の威信にかけて保護する風習にあった。
例えば殺人を侵した罪人が逃亡して武家に逃げ込んだ場合は、その武家の許可がなければ中に逃げた人間を捕まえることはできないし、処断することはできない、ら
拒否されたのならばその武家の主家にあたる家かさらに格の高い武家に依頼して引き渡させるしかなかった。
だから家に招くとはそれ相応の意味を持つ。
それが織田信行、末森城の城主ともなれば尚更で、招いた客が織田信友ともなればそれこそ一ヶ月以上は民草の間で噂される程度には重大なことだった。
信友は表面上は和解したとはいえ、その尾張一国に対する貪欲なまでの欲望は開け空いて見えているし、そこらの乞食ですら尾張に住むものなら誰もがそれを知っていた。
「末森の殿様が信友様を招いたって話!聞いたかい!?」
「おいおい、今はその話でもちきりだぜ?尾張っ子なら赤子でも知ってらあ」
そんな感じの会話が尾張の端から端まで町という町で行われていた。なにせ娯楽という娯楽のない時代だ。
どこそこの殿様が躓いて転んだ、なんて話が瞬時に隣町まで渡る程には民たちは暇にしていた。
民草の噂話は常に能動的である。
能動的であるから最新の世情は町で耳を傾けているだけで手に入ることだろう。
ここ那古野城下町では一人の青年が団子を頬張りながら耳を澄ませていた。
鋭い切れ長の目つき、面長の美青年。
人の見る目を引くに十分な顔立ちだ。
....もっとも目を引いている原因は別にあるのだが。
鮮やかな色合いの着物、腰縄、長い大小、ばさりと下ろした長い髪。
織田信長である。
「主人、もう一つ茶を貰おう」
「はい!ただいま!」
大変に緊張した表情の団子屋の店主とは対照的にいたくリラックスした雰囲気である。
「....ふむ。やはり信友の奴は動いたか」
思惑通り。
しいて言うならもう少し静かに行動しなかったのが意外だ。
(いや、そうでもないか。なんせ天下の大うつけ者が相手なのだからな)
ふと思い出してクツクツと笑う。
信友や、その取り巻きの顔を思い出したのだ。
自分をうつけ者と侮りきった表情。
安心感すらもっているのだろう。
信秀という虎の亡き後、欲するものを守るのはピヨピヨ鳴くばかりのヒヨコなのだ。
それこそ笑いの止まらぬ状態であろう。
だから信長には可笑しい。
きっとことが終わった後は眼を限界まで見開き、自分の頬を張ることだろう。夢か現かの確認のために。
(楽しみだ)
天性の性で信長は他人のあっと驚く顔を好む。
だから異風なうつけた格好も本心から好きなのだ。
根っからの傾奇者なのかもしれない。
「信長様、お待たせいたしました!」
「よい。だからそう怯えるな」
「ははぁっ!」
これは無理だな。
そう考えながら苦笑する。
昔はもう少し気安かった気がするのだが、日に日に団子屋の店主の態度は慇懃に緊張に満ちてくる。
信長は知らないがそれは怖れからくるもので、日に日に増す信長の雰囲気に圧倒していたのだ。
カリスマとも言えるものをこの若き青年はすでに並の将軍以上に持ち合わせていた。
「ところで店主。ここ最近何か変わったことはあるか?」
「は、変わったこと、ですか?」
「ああ」
店主は首を傾げる。
ここ最近、などと信長は言うがその『ここ最近』ずっと那古野城下に通う信長がなぜそれを聞くのか腑に落ちなかったのだ。
ましてや相手は織田家当主となった織田信長。一介の団子屋の店主に過ぎない自分よりは遥かに大きな聞く耳をもっているのではないのか?と思っていた。
「お前の耳に挟んだ面白い話を聞かせてくれ」
しかし信長にとってはこの一介の団子屋の主人に話を聞くことは大きな意味があった。
カネの動きに町民は敏感だ。
それは店子であろうが、農民であろうが変わらない。
なにせ彼らには命がかかっているのだ。
誰もが必死に情報を漁っている。
ということは町の噂とはすなわち経済の情報である。
そして内乱にしろ何にせよ何かざ起こるのならば経済には揺らぎができる。
カネの話を握るということはなにもかもを握ることに繋がった。
信長からすればそれこそカネの根本から握りたかったが、それは山積みのやるべきことを始末してしまってからの仕事だ。
今は尾張の毒をすべて出してしまわねばならない。
覇道の妨げになる毒を。
「へ、へい。お気に召すか分かりませんが鳴海の噂で」
「鳴海?....よい話せ」
「へい。あっちの方から来ました千葉某と言います商人が最近やけに羽振りが良いのです。あたしの店での飲み食いは勿論ですが茶屋でも節制なく物を買うものですから、商人を辞めてカネをばら撒く仕事にでもついた。なんて噂されるくらいです」
「....ほお....それは面白いな」
「へい。商人なのに溜め込まぬとは笑ってしまう話ですな」
商人とは決まってケチなものだ。
しかしその真逆を行く外から来た商人とやらに信長はいたく興味をそそられた。
「その者はまだ逗留しているのか?」
「いえ、数日前にはもう立ち去りました。なんでも美濃へ行くという話でしたが」
「美濃?」
「先祖代々の土地があるらしくそこで身を落ち着ける、と」
おかしな話ではない。
斎藤道三と婚姻が結ばれてからいくらかの人間が商売をしに尾張へと渡っているし、その逆もまた然りだ。
「....きな臭いな」
「は?」
「いや、感謝する。たしかに面白い話を聞けた。これは礼だ」
ジャラリと幾らかばかりの謝礼にカネを座っていた椅子へと置いた。
「これはこれは」
団子屋の店主は思いがけぬ収入に顔をほころばせると、
「それではな」
そう一言言って立ち去る信長に頭を下げるのだった。
信長は足取りも軽く那古野城に戻る。
その道中結構な人数の視線を受けながら思索にふけった。
その内容は羽振りが良く、帰国したという商人のこと。
(目的を達してなお余るカネ....出処は鳴海。城主は....山口教継、か)
頭の中ではぐるぐると今後どのように転ぶか。転ばせるか。
ただそれだけだった。
(俺の考えが正しければ....)
近々事が起こる。
(最悪の場合は....)
かけた網が丸っと今川に持っていかれる。
(なら俺のすべきことは)
事が起こる前に対処をする。
考えがまとまるころには城についていた。
信長は一息吸うと大声を出した。
「爺!平手の爺はいるか!」
―――爺にはまた負担をかけるな。
そう思った。
ここ最近平手政秀は度々苦言を弄し、諌めたあとは溜息をつきながら腹を擦り、信長の命令を実行する。
気心がしれていて優秀だから多用するが、内心では信長も政秀を心配していた。
(ことがすべて済めば隠居でも勧めるか)
もう政秀もいい年だ。
息子もいることだしゆっくりと休むときだろう。
そう思いながら、話し終えたら恐らく怒鳴るであろう政秀を信長は二の丸の中で待っていた。
信長は先程の考えを纏める。
鳴海城は三河のすぐそば。今川領のすぐ隣だ。
そこを治める城主山口教継は信秀に重宝された家臣で、信長には信秀存命の時から不満を持っていた人間だ。
そこで急なカネが動いた。
ならば答えは一つだった。
懸念は鳴海城のすぐそばにある織田家の城。
そこの城主が裏切りを働けば信長にとって大変不味いことになる。
その城の名前は守山城。
城主の名は、織田信行。
※ブクマ、コメントありがとうございます。活力にしてます。
※普通にサブタイ間違えてました。修正。