歴史の暗雲
「....殿は武士でした」
「む?」
突然勝家はそう口にした。
ぼそりと呟いただけの一言だが、妙なまでに安堵と喜びに満ちた声だったので信行の耳に良く届いた。
「いや!武者にこの一言はまこと失礼な物言いでした」
たしかに主君を捕まえて言う言葉としては不敬と取られてもなにもおかしくない一言だ。
だが、信行はそれを問いただすことよりその言葉の意味を知りたがった。
「良い。続けろ」
「ハッ」
信行が先を促すと勝家は修練場の板の上に正座して頭を一つ下げた。
これは肩を並べる相手として信行を見ない、という所作であり、勝家なりの精一杯の敬意の表し方だった。
粗忽者で有名な勝家がそのような態度を示したことに信行は軽く驚いていた。
「恐れながら信行様は文にかまけるだけの軟弱者であると、その顔に違わぬ筆侍であるといった風評が城下を駆けております。拙者もその話に乗り、『筆侍は武士に非ず』などと思っておりました」
(言わねば良いものを.....)
信行は苦笑する。
さすがに城主であろうと、武士が武士を処断するにはそれなりの理由がいるが、今ならたとえ信行が勝家の首を斬り落としたところで許されるだろう。
名も無き豪族生まれである柴田勝家と織田家の人間で城を治める織田信行ではそれだけ身分が違う。
それでもこうまで信行に無礼を働くということは勝家の誠意で、それだけ粗忽だという証左だろう。
だから怒るに怒れなくて笑うしかなかった。
「しかし、しかし此度の立ち会いにて拙者は殿の中に武士の魂を見ました。刀を捨てぬ志を。お父上である信秀様には及ばぬ苛烈さなれど、戦国の武士のしぶとさを持っておられる」
信行はなんだか背中が痒くなる。
父には遥かに及ばないという自覚を持っているからか素直に喜べなかった。
「是非!是非拙者を家臣にしてくだされ!信行様の正式な臣となりとうございます!」
その一言に思わず目を開く。
現在の勝家の立ち位置は一応は信行の家臣である。
すでに家臣であるのにわざわざそれを物申すこと。それはつまり重臣に取り立てて欲しい、家老として家臣団の一員にして欲しいという頼みごとである。
家老とは通常分家の者などが着く職で、そうでない人間がなる場合はよほど忠義と能力が優れていなければならない、
逆に言えば頑固な人間などは能力があって主から頼まれたとしても固辞することもある職で、それだけ責任のある地位なのだ。
一瞬信行は勝家を疑った。
先程勝家が言っていたように、正直信行の魅力的な点は立ち振る舞いが立派であるというくらいで、能力にかける評価はあまり良いものでないからだ。
まだ戦を経験しておらず、一揆を鎮圧したなどの華々しい武功はない。
そんな信行を持ち上げる輩は信長討つべしと物騒なことを言う連中が神輿を担ぐためだけに言う空々しい言葉を言うだけだったのだ。
(勝家もその一派だ。....信じられるのか?)
信行はじっと勝家を見る。
―――身中の虫となるか
....頭をただ下げる勝家の真意は見えない。
「....考えさせてくれ」
出てきたのは煮え切らない言葉だった。
―――あるいはこれで呆れでもしてくれたら楽なんだが....
「ハッ!ご随意に!」
しかし帰ってきた勝家の声に漲る気迫は一分も変わらない。
思いがけず増えた難事に信行は内心で溜息をついた。
◆
「上手くやったな権六め」
信行の出ていった部屋に入れ替わるように入ってきた男は佇む勝家にそう声をかけた。
「....秀貞か」
入ってきた人間をちらりと見てから呟く。
「信行様の家老となれば信長一派より距離をおける。それだけお前も信長を好かんか」
「秀貞、拙者はお前のように常に策を考えている人間とは違う。拙者は馬鹿ゆえ信じる人間に着く。それだけだ」
「私はお前のその馬鹿なところが嫌いではないよ。なんだかんだ言え、お前は私と度々同じ考えに至るからな」
戦のときなど特にそうだ。
秀貞が良く練った軍略と勝家の練った軍略はピタリと整合するのだ。
性格はまったく違い歳もだいぶ離れているのに不思議と二人の仲が良いのもそれに起因するのかも知れないが、それは二人にも分からないことだった。
「だが今回は拙者とお前の意見が違ったな。拙者は本気で信行様を主君と仰ぎたくなったぞ」
「.....信秀様の面影か?」
「いいや。まったく似ても似つかぬよ」
「ならばなぜ?」
本気で秀貞には分からない。
勝家ほどの猛将が好むのは当然のように猛将で、信行にはそういった戦国の武士の荒々しさはまったく見えないのだ。
どちらかと言うとおっとりしていて、御母堂である土田御前似だ。
「ふむ....」
もっさりと良く繁茂した無精髭を撫ぜて考える。
信行にさっき言った理由は嘘ではない。
.....だが、何かが足りない気がした。
その何かが分からないのだ。
「分からぬのに惚れたのか」
少し小馬鹿にしたように、少し拍子抜けしたように秀貞は指摘する。
「仕方なかろう.....拙者は馬鹿ゆえ......」
不満そうに呟く。
その唇を突き出した表情は美少女がやれば映えただろうが、髭を生やした親父がやってもいまいちどころでなく不気味だ。
「ふっ。おそらく私でも分からん魅力だろうな。思いついたら言うと良い。参考にしよう」
「うむ。....お前は信長様と信行様どちらも評価しないのか」
「しようがあるまい?片方はうつけ。片方は凡庸だ」
あまりに無礼な物言いだが、それを指摘する人間は勝家含めていなかった。
「む?権六は主を愚弄する私を怒らないのか?」
もしこれが信秀の悪口であれば顔を真っ赤にして刀でも抜こう。勝家はそういう男だ。
しかし、主と見定めたと言っていた信行を馬鹿にされても何も反応しない。
そこを秀貞は不思議に思った。
「抜いて欲しいか?」
「お前に斬りかかられば確実に私は死ぬ。やめろ」
「....ならばなぜわざわざそんなことを言うのだ.....」
「私は嘘はつかぬゆえ」
ニヤリと笑うその表情に軽く殺意が湧いたが、けして刀を抜きはしなかった。
理由は
「....たしかに殿は凡庸だ」
こうだからだ。
「ふむ....凡庸な人間を尊敬するか。分からぬ」
「拙者もわからんよ」
そう言うと答えを探すように目を斜め上に向けて腕を組む。
しかしその口が先ほどまでのやり取りの際のへの字のままで、そのなんとも言えないひょうきんさに秀貞は忍び笑いをしたのだった。
◆
信行は部屋に戻り腕を組んでいた。
考える先は勝家の真意だ。
「....嘘とは思えんのだよな.....」
真面目、とはまた違うが一本調子の勝家に腹芸ができるとは思えない信行は答えが出ずにいた。
「何かお悩み事ですか?先程からうんうんと唸って」
不思議そうに小首を傾ける奈緒は可愛らしく、そのまま下の欲求に流されそうになる信行だが、間違いなくそうすれば不機嫌になるだろうことを思い我慢する。
「.....女に相談をする人間をお前は女々しいとおもうか?」
「いえ。女とは言え頭がついております。なら茶釜に相談することとはならないでしょう」
「.....その話はもうよしてくれ」
昔、奈緒に求婚すべきか否かを悩んだ信行が何を思ったのか手近にある茶釜に相談したという話がどういうわけか奈緒に伝わっていて、以来度々こうしてイジられる。
それに信行はやや辟易していた。
「ふふっ」
「....笑い事ではないのだがな」
まあこうしてイジったあとに見せる悪戯笑いが信行はたまらなく好きなので無理に止めることはないのだが。
「.....例えばの話だが」
この期に及んで、信行は『例えば』などという枕言葉を用いた。
『例えば〜』は古来より例えていないと相場が決まっている。
(友達の話だが〜や、勉強してないんだけど〜と同じくらい信用ならない言葉よね)
奈緒はそう思ったが、顔には何も出さずにふんふんと興味がありますと顔に出ているように熱心な聞きの態勢に入った。
信行はそれに気を良くして語りだす。
「うむ。例えばだがな」
奈緒はそんなチョロい信行が大好きだ。
「権六が俺の家老になどと申していたらどうすべきだと思う?」
「.....勝家様が?」
奈緒が少し緩んだ表情を顰める。
それを信行はいぶかしんだが、話を続けた。
「権六は俺を認めた、と考えて良いのか。それとも俺を駒にした将棋を始めたいと考えるべきか。....奈緒?」
楽しそうな表情だった奈緒はどこにもなく、険しい表情で何事が考えている。
「.....そう.....やはり.....」
口がかすかに動くが、信行には何と言ったのか分からなかった。
「.....私は、断るべきだと思います」
「何故だ?勝家は父の重臣であったし、足軽連中に慕われている。三河の要所たるこの地を治める俺の家老としてはうってつけの人選ではないか」
「.....そう、ですね.....」
何か歯に挟んだような物言いに信行はモヤモヤした。
が、それを問うより先に奈緒が口を開く。
「.....勝家様はどういったお人なのですか?」
「人柄は、悪く言えば馬鹿正直。良く言えば快活だな。思いやりがある人間だ」
「む.....良い御仁ですね」
「ああ。あれは武に優れ人柄も良い。出来るなら俺も疑いたくないのだがどうしても、な」
時期が時期だ。
たとえ神仏の類でも疑心を捨ててはならない。信行はそう思っていた。
「......裏切る、ということは?」
「権六が??ありえん」
絶対に。
あれは二物も抱えられる人間ではない。
「ならば、殿は何を思い悩んでいるのです?」
「.....兄上とのことよ。奈緒もどうせ分かっていよう?」
「打倒信長様、などと言っている輩ですか」
「そうだ。権六は裏切らねど兄上への不信は捨てまい。あれは頑固者だ。俺が根強く説得しても聞く耳持たぬであろう」
「家臣が暴走する可能性がある、と。そう考えているのですね」
「ああ。たとえ俺にその気がなくとも家臣団がそう決意してしまったのならば止められん。.....あるいは神輿にもならねばならんだろうな」
心の離れた家臣など木偶の役目も追わない。
兄上があの調子のままならいずれは家臣の連中の期待にも応えなければならないだろう。
それが主君の役目でもある。
「三河は、今川は攻めてきそうなのですか?」
「分からん。今川義元の奴は実に巧妙に情報を隠しているからな。何が起こるかその時にならねば分からんだろう」
父は、手広く喧嘩を売りすぎた。
美濃が婚約破棄をしないことが唯一の救いか。
「....ならば」
「ああ。頭の整理がついた。勝家を家老に加えよう」
「.....はい」
「そう心配するな。俺には兄上に喧嘩を売る理由もその気もないのだからな。最後に決定を下すのは俺だ。絶対に兄上とは争わんよ」
そう言うと信行は微笑した。
晴れやかなその笑顔を見ても奈緒の心は静まらなかった。
―――奈緒はこのとき感じていたのだ。
轟々と流れる歴史の濁流を。
その結末を。
天文20年。信秀が死んだこの年。
程なくして柴田勝家は織田信行に家老として仕えた。
それがどう転じるのか。
それは未来の人間か神でもない限り知らぬことで、知る由もないことだ。
ブクマ登録本当にありがとうございます。
少しコメディー色を入れたほうがキャラの特色出るかなー、なんて思ったんですけどどうでしょう。許容範囲ですかね。
※投稿後、少しだけ加筆