信行と勝家
朝城内で飼っている鶏の鳴く声と共に目覚め、日が沈むと同時に就寝する。
この生活リズムは夜闇を照らす術が燭台に灯るロウソクや、油灯籠に頼ったものになるため農民も武士も変わらないものだ。
農民に手に入らない高価な灯りを手に入れられる分、幾分か夜更かしする武士や豪商もいるがそれも一部の物好きか、よほど学問に熱心な人間に限られた。
信行が城主を務める末森城もその例にもれず、また城主である信行もまた早起き早寝の習慣にあった。
その日、信秀の葬儀が終了し日常の元に戻った時もそれは変わらずコケコッコーの音と共に目を覚ました。
隣には昨日から寝所を共にした奈緒が寝ていた。
「......」
寝ている奈緒を見ると途端に信行はおかしな気分になる。
とはいえ性的な意味での雄々しい気持ちではなく、もっと女々しい、例えるならまさに母に甘える幼子のような気持ちだ。
しかしそれをぐっと信行は抑えた。
というのも当の奈緒がそういった女々しい性格を嫌っていたからで、だから信行もぐっと我慢の子である。
そもそも信行の母は信行に甘く、父はあまり信行に構わなかった。
だからか、信行は一回り回ったのか女の愛を強く受けることに慣れて、それを求める性があった。
奈緒と出会ったのもそんな折であったのだから、女好きの性格を信行はことさら嫌っていなかったがそれを奈緒にまで押し付ける気はさらさらなく、夫婦の営みも奈緒の求めるときのみに抑えるよう努力しているのだから信行の生真面目さは相当なものだと分かる。
そんな生真面目な信行はきちんと朝の稽古を済ませてから朝餉を取ることにしている。
もっとも、母の腹の中にいたときに信長にすべて盗られてしまったかのような武の才能の無さなのだが。
「はぁ....」
カタン.....
稽古用の木刀を担ぐと思わず溜息がつく。
原因は家中の者達の馬鹿騒ぎだ。
―――信長討つべし。
それがほぼ統一の見解だ。
才気に溢れた元重臣の林秀貞と織田家の武に優れた武将の代表格のような柴田勝家が同調しているせいでここ最近の馬鹿騒ぎはただの騒ぎに収まらぬ衆目と化している。
信行とて兄にその器なしと見れば反旗を翻すだけの織田家の一員としての覚悟がある。
しかし、とても兄がただのうつけには見えない。
一向衆の討伐を自分の引き連れる農家の荒くれ者で成し遂げた兄には自分の分からぬ大きな力があるのではないのだろうか、そういった考えが止まらないのである。
また、奈緒のこともある。
奈緒は特に兄の才気を評価しているようで、その盲目なまでのべた褒めっぷりには信行が嫉妬するまでだ。
しかしその信長評がなるほど、と思わせるばかりの筋の通ったものなのだから一層兄が優秀に見えてならないのだ。
しかし、兄のうつけものの振る舞いはここ最近は特に眉をひそめるほどだ。
荒縄を腰に巻き、傾いた長い大小を下げて瓢箪を片手に町中を練り歩く様はとても主君のあるべき姿ではない。
もし奈緒に出会わなければ家臣たちの言い分に一理ありと考えてしまっていただろう。
兄があのようになる過程を間近に見ていた信行は信長に主君の器非ずと奮起していたであろう未来がありありと見える。
兄がうつけになった理由。
それは間違いなく母の愛に飢えてだと信行には断言できる。
奈緒はそれは違う、だとか、世間を欺くため、だとか言っているが少なくとも初めは母へのあてつけだったと信行には確信がある。
武門のしきたりにて長男は他の兄弟と離れて暮らし、育つ。
それはいずれ国主となった際、他の兄弟に余計な情けがかからないための施策なのだが、兄はこれを不服とした。
なにせ人一倍情が深く、人一倍変わり者の兄なのだ。
納得がいかなかったのも分からないでもない。
那古野城に移ってから傾き始めた兄は、母と再開するたびにその度を増していった。
信行は兄と年が近いからか昔は好かれていて、母にも好かれていたからかよく相談を持ちかけられた。
―――なぜ母は俺を愛さぬのか。
そう口を尖らせて聞く兄を覚えているからこそうつけものの姿が悲しく見えた。
いや、見えていた、か。
ある時を境に兄の奇行はただの子供のわがままに見えなくなった。
南蛮人が尾張に来た時。
そう、その時から兄の目は遠く信行に見えないところを見るようになった。
兄を推し量れないようになったのはその時からだ。
弱い信長と強い信長を見ている信行だから一層分からないのだ。
ただのうつけにも見えるし、何か途方もない策を考えているようにも見える。
(.....む)
思いの外長いこと物思いにふけりながら木刀を振っていたようで汗が滂沱のごとく出ていた。
「ハァハァ.....ふぅ....。.....弟の特権、か.....」
それを手ぬぐいで拭きながらつぶやく。
なんだかどうしようもなく可笑しい気分になってきていた。
「信行様、見事な太刀筋ですな」
込み上げてくる笑いを引っ込めると声のした方を振り向く。
そこには信行の頭を悩ませてやまない柴田勝家がいた。
「....権六か」
「ええ。勝家にございます」
「何をしにここに?」
「刀を振る以外に修練場にようはありますまい」
「む。....たしかにそうだな」
あまりにタイミングの良い勝家の登場に自分を狙ってやってきたのではないかと思ったが、もっともな反論に信行は顔を赤らめた。
しっかりと手ぬぐいを肩にかけて木刀を片手に下げているのだから本当に他意無く剣を振りに来たとわかる。
「一手つけていただいても?」
「俺が学ぶ側になるが、それでも良いのならば是非」
「ハハッ!拙者などまだまだにございますよ」
よく言う。
武功で今の地位まで上った勝家には自分の腕前に絶対の自信があった。
「それでは」
「はい。よろしくお願いします」
互いに間合いのやや外に位置取ると一礼をし合う。
そして両者共に中段に構えると信行のほうから斬りかかった。
そもそも力量の差は初めから見えているのだ。
ならばと先手を打ったのだ。
しかし、やはりと言うべきか信行渾身の一撃は難なく受け止められる。
バシッバシッ。と乾いた木と木がぶつかり合う音がしばらく響き合う。
その気になれば信行ごとき勝家は一撃で伸す事ができるだろう。
しかしそうはしなかった。
それは目上の人間への配慮か、はたまた実力が格下の人間への侮りか。
判断がつかないが、武の下では嘘をつかない勝家は真面目で、それに対する信行もまた真面目だった。
半刻ほどそうして打ち合うと信行の額には汗がびっしりと浮き、勝家もまた息を乱していた。
「ハァっ!」
「オウッ!」
信行が荒れた息を絞り出して放った一撃を勝家は巧みに巻き上げて上に飛ばした。
(.....やはり侮りや配慮抜きで純粋に稽古をつけてくれたのか)
信行は飛ばされる自分の木刀をぼんやりと見送るとそう思った。
(気持ちのいい奴だ)
無骨な頑固者。それが勝家の本質なのだろう。
そう考えると信行は先ほどまでは自分を利用しようとする輩だと思っていた勝家を小さく見直した。
尊敬する父もそうであったので信行はそういった性質が好みだったのだ。
....実を言うとこのとき勝家もまた信行を見直していた。
ただ礼節のみを身につけた上方かぶれではなく、無き殿のように武を納めようとする心意気を感じたのだ。
それが勝家にとって実に尊敬すべきことで、仕える主として何よりのことだと思った。
「ここまでですな。殿」
「....ああそうだな権六」
晴れやかに笑い合う二人の姿は尊敬しあう家臣と主の正しい在り方のように見えた。
死ぬ前の信行目線で見ると畜生にしか見えない勝家さんですが、きっと素晴らしい武者だったことでしょう。
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