フクジュソウ
「ねぇ、知ってる?スプレー菊の花言葉って『私は貴方を愛する』なんだって。なんか可愛いよね」
ある晴れた日のこと、私の最愛の彼女はそう言って静かに笑った。あれはたしか、もう今から五年以上前のことでした。彼女がそう言った次の日曜日、私は近くの花屋でささやかなスプレー菊の花束を買いました。彼女を驚かせようと思っていたので、もちろんそのことを知っていたのは私だけでした。彼女に早く会いたいとはやる気持ちを抑えていつもの待ち合わせ場所に向かっているとき、その知らせは届いたのです。
「頭を強く打っていて意識不明の重体です。とにかく早く病院へ来てください」
一瞬何を言われているのかわかりませんでした。しかし、時間が経つごとにゆっくりと状況把握ができるようになりました。意識不明、重体……死にそう。誰が?………彼女が?気が付いたら走っていました。ぱらぱらと降り出した雨を頬に感じながら、走って、走って、走って……。気が付くと彼女が静かに横たわるベッドの前にいました。
「頭を強く打っています。長くは持たないでしょう」
医者は静かに告げると部屋から出ていき、その空間にいるのは私と彼女だけになった。頭に包帯を巻いて、様々な機械につながれている彼女の姿は非常に痛ましいものでした。
「先日貴女が言っていた花を持ってきましたよ。貴女のことだから、少し驚いた顔をした後に嬉しそうに受け取ってくれるのでしょう?お願いですから、目を開けてください」
頬を伝う涙をそのままに私は彼女の手に花束を握らせいつまでも彼女に語りかけていました。私の頬から落ちた涙が彼女の頬に落ちて、まるで彼女が泣いているようだと心の片隅で思いました。
そしてその日から三日後彼女は静かに息を引き取ったのです。まるで私の心を表すかのように激しく窓を打つ雨音がとてもうるさかったのを覚えています。
それから毎週私は彼女のもとへスプレー菊の花束を届け続けました。正確には彼女の墓前に供えていたのですが…。最初のうちは私のことを心配してくださる人もいたのですが、二年もたつとそんな人はいなくなりました。しかしさすがの私もこのままではいけないと心のどこかで思っていたので、ある日私はアツモリソウの花を買おうと思い立ちました。アツモリソウの花言葉は『君を忘れない』と『変わりやすい愛情』です。彼女を自分の中の思い出にしようと思ったのです。私は意を決して口を開きました。
「スプレー菊をください」
しかし、私の口から出た言葉はいつもと変わりなかったのです。私はまだ彼女のことを思い出にすることはできないのだと痛感しました。未練がましい自分にがっかりする反面、まだ彼女への想いが薄れていない自分にほっとしていたとき、今まで必要最低限のことしか口に出していなかった店員が不意に口を開いたのです。
「今日はいい天気ですね」
それは独り言かもしれないと思ってしまうくらい小さく呟かれたものでしたが、確かに私に向かって言われた言葉でした。外へ目をやると綺麗な青空が広がっていました。たしか彼女がこの花の話をした時もこれくらい晴れていました。久しぶりに気づいた青空に少し穏やかな気持ちになりました。
「そうですね」
そう言った私はきっと酷く情けない顔をしていたのでしょう。
それから店員と少し親しくなり、一年が過ぎた。私はいまだに彼女に花を届け続けていました。その日は鬱陶しいくらいの雨でした。丁度彼女が死んだ日もこんな雨が降っていたな、と思いながら傘をたたんで店に入ると、ぐっしょりと濡れた自分の服が目に入りました。
「今日はひどい雨ですね。傘をさしていたのにこんなに濡れてしまいました」
ついつい彼女のことを考えてしまう思考を断ち切ろうと店員に声をかけました。
「雨は嫌いですか?」
すると、思ってもみなかった問いかけをされてしまいました。雨は私にとって彼女との悲しい記憶を呼び覚ますものです。もちろん、そんなもの嫌いに決まっています。
「嫌い、というより苦手です」
ですが、私の口から出た言葉は違う言葉でした。
それからまた一年が経ちました。店員とはお互いのことも少し話すようになり、また少し親しくなった気がします。ある日いつも綺麗してある机の上に桃の花が置いてあるのを見つけました。
「桃の花ですか」
独り言のつもりで行ったのですが、どうやら店員に聴こえてしまっていたようです。
「可愛いでしょう?花言葉は、『チャーミング』とか、『私はあなたのとりこ』などがあるらしいですよ」
『ねぇ、知ってる?スプレー菊の花言葉って『私は貴方を愛する』なんだって。なんか可愛いよね』
不意に店員の言葉と彼女の言葉が重なって聞こえた。驚いてすぐに視線を巡らしましたが、そこにいたのは笑顔の彼女ではなく、どこかばつの悪そうな顔をした店員だけでした。
「確かに可愛らしいですが、桃の花には『天下無敵』という言葉もあります。見た目に反してなかなかにしたたかな花だと思いませんか?」
私はその時落胆する自分の気持ちを隠すようにおどけて笑いました。
それからの一年間は花について話すことが多くなりました。色々な花の話をして、そしてある日気が付きました。少しずつ心の奥にしまわれていく彼女との思い出と、店に行くのを心待ちにしている自分に。その日は珍しく仕事が入ってしまい、花屋に着いたのは閉店ギリギリの時間になってからだった。
「アツモリソウをください」
三年前に言えなかった言葉が、今日はすんなりと言うことが出来ました。
「いらっしゃいませ。スプレー菊………ではなく、アツモリソウですか?」
スプレー菊ではない花を頼んだ私に店員は少し驚きながらも手際よくいつもより豪華な花束を作ってくれた。
「このような感じでよろしいでしょうか?」
差し出された花束はとても綺麗で彼女のようだと思いました。これで彼女のことはきっちりと思い出にできる、と少しさみしく思いながらも私は確信しました。
「あの」
店を出ようと扉に手をかけた瞬間に店員に声をかけられました。その声はどこか震えているようでした。
「どうかしましたか?」
できるだけ優しく問いかけると、店員は震える手で小さな花束を差し出してきました。
「これ、よかったら貰ってください」
この花には見覚えがありました。
「ユキノシタの花ですか」
この花の花言葉は『切実な愛情』。ここまでされて相手の気持ちに気づかないほど私は愚かではありません。正直に言ってしまうととても嬉しかったです。ですが彼女のことでまだ完全にけじめをつけていない私にはその花を受け取る権利など無いような気がしてしまいました。
「いつも買っていただいているお礼です。お店の花じゃなくて申し訳ないのですが、綺麗に咲いていたので」
そんな理由で私が受け取れないでいると、店員は何かを察したのか私に受け取る理由をくれました。
「確かに綺麗に咲いていますね」
断る必要がなくなってしまった私は静かに花束を受け取って頭を下げた。
「ありがとうございます」
最後にあの花屋を訪れてから一年が経ちました。急な出張が入ってしまいユキノシタの花をいただいてから随分と時間が経ってしまいました。あの店員はまだ店にいるでしょうか。少しの不安と会えることに対する期待を抱えながら、私はアヤメの花を手に通いなれた懐かしい道を歩くのでした。
「早いものであれから七年か」
私がぽつりと呟くと、小さな瞳が不思議そうにこちらを見上げてきた。
「パパ、なにかいった?」
「いいえ、何も」
そう言うと、もうすぐ五歳になる娘は無邪気に笑った。
「パパ、このお花あげる。パパににてたからとってきたの」
そう言って差し出された花は福寿草だった。『悲しい思い出』という花言葉を持つこの花は確かに自分にふさわしいかもしれない。
「こら!パパのお仕事の邪魔をしないの」
「ママ!」
ふと花から目をそらすと、娘を抱き上げた妻の姿があった。幸せそうに笑う二人に自然と心が満たされていくのがわかった。
「あら、福寿草の花ですか」
私の手元にある花を見つけると妻は綺麗に笑った。
「花言葉はたしか『幸福』とか、『思い出』でしたっけ。貴方にぴったりの花ですね」
そういえば、そんな花言葉もあった。たしかにこの花は今の私にふさわしい花だった。