――第9話――
時刻は午後2時を少し回ったところだった 。
柴口幸治は、優香が別の作家の原稿を取りに行き、ゲラ刷り(出版物を作る際、本刷りとゲラ刷りというものの両方が行われる。ゲラ刷りというのは、試しに刷る作業であり、それによって誤字脱字がないかを確認する)をしてくるというので、近くの書店から買ってきた推理小説『江戸川乱歩全集1巻』をベッドの上で読んでいた。
これがなかなか面白く、正午を過ぎていることにも気付かないほどだった。
しかし病室に誰かが入ってきて、しかも自分と外界をシャットアウトする薄い水色のカーテンを開けられたら、どんな人間であれ、顔を上げることだろう。
「優香さん。ゲラのチェックは終わりましたか?」
加藤優香は厳しい顔をしながら、ベッドの横に腰を下ろした。
「ええ、でもこの事件はまだ終わってない。あなたを陥れようとしている人が逮捕されるまで気は抜けないよ」
言いながら優香は、幸治の手元に注目し、
「江戸川乱歩? 面白いよね」
と言って、話題をそらした。事件はフィクションで起こるから面白いのであって、現実であったら面白くもなんともない。知らず知らずのうちにこの現実から逃避しようとしているのだろう。
「ですよね」
幸治は気のない返事をして、
「休憩コーナーに行きませんか?」
と、言った。
せっかく自分の世界(正確には乱歩の世界)に入ったのに、横から水を差すようなマネをされたので少なくともいい気分ではなかった。
「うん、わかった」
優香も同意してくれたので、2人はさっそく休憩コーナーに行くことにした。この行為自体にあまり意味はないのだが、気分転換くらいにはなるのでないか、と考えたのだ。
2分くらい歩いたところで、休憩室はあらわれた。透明な横滑りのガラス戸の中から自動販売機2台が堂々と覗いていた。
それほどの言葉を交わすでもなく、室内に入る。
そこにはドアから真向かいのところに黒い長椅子があり、自販機も入ってすぐくらいのところにあった。その自販機の向かいには、マンガの週刊誌や、芸能関係の週刊誌などが詰まった書棚が用意されていた。
2人はその中から適当に1冊ずつ週刊誌を手にし、長椅子に座った。
そしてパラパラとページをめくりながら言葉を交わし始めた。
「優香さん」
最初に口を開いたのは幸治だった。
「俺、事件のあった日に電話をかけてきた人が兄貴だとは何となく思えなくなってきました」
「なんで」
唐突すぎるこの言葉に、優香は驚きを隠せないようだ。
「だって兄貴が俺に電話をかける時なんていったら、年に1回あるかないかくらいですよ。仲もそれほど良くないし」
「そう?」
優香はそんなバカな、じゃあいったい誰がやったの? とでも言いたげな顔をこちらに向ける。
「はい。ケータイがないから確かめられないけど、何かおかしいです」
そうだ。兄貴から電話がかかってきた時から、ずっと引っ掛かっていたのだ。まさか、これにもウラがあるとか? それとも単に考え過ぎているだけなのか。
「そういえば、その人って、わたしも会ったことがあるよね」
「そうでしたね」
どんな状況で鉢合わせたのかまでは覚えていないが、その事象が起きたことは確かだ。
「良い人だったよね?」
「そうでもないですよ。自分の出世だけを目標に、上京して行ったような男ですから」
「自分のため? それは違うんじゃないかな?」
優香は幸治の目を見て、ハッキリと言った。
「違う、ですか?」
「ええ、作家なのに1つの視野でしか物事を捉えられないなんてダメね」
彼女は、今度は微笑みながら言った。
「自分の為だけじゃなくて、家族のためよ。長男なんて特にそう。家族を養っていく責任があるもの」
なるほど、見方を変えればそうも考えられるわけか。
「では、話しを元に戻しましょう。問題は、犯人がどんな手を使って家を燃やしたのか」
そう言うと、室内に静寂が戻ってきた。良くも悪くも、ここには2人しかいない。そうなるのは必然的であった。
その頃、山岸は東京に来たついでに警視庁にも立ち寄っていた。
もちろん、お目当ては資料室に行くことであるが、こう見えても元警視庁直属の刑事である。一応、お世話になった上司に、あいさつをしておかなくてはなるまい。と、普通ならそうなるが、その人はもう退職してしまったのでここにはいないのである。
というわけで、今は資料庫に来ていた。
そこには数々の事件簿や、現・旧刑事の人名ファイルなど、そういった書類が山のように並べられていて、全てを読破するのに最低一カ月以上はかかるだろうと思案されるほどであった。
山岸はケータイを使って、アラームを午後3時にセットし探索を始めた。
彼がここまでケータイを使いこなせるようになったのは、おそらく刑事という職に就いたからであろう。
物事に集中して取り組んでいると、時間はアッという間に過ぎていくもので時刻は早くも午後5時になっていた。
山岸と田沢は、きちんとその時間までに合流し、これから署長に、事件捜査の進展を報告するところだった。
「署長」
と、口を開いたのは山岸。続けて、
「柴口幸治……ホシのお兄さんと今日、会ってきたのですが」
ここまで言ってから、彼の胸は一気に高まった。しかし口が乾いてしまう前に、こう言い切った。
「そのお兄さんは、犯人のトリックがわかったそうです。これから暇をつぶして、彼の会社にある最寄り駅に行けば、その答えを教えてくださるそうなんです。もう少しで真犯人の糸口がつかめるかもしれません」
話し終わった後に、深呼吸を入れた。なにしろ喋っている間、ずっと息を吸わなかったので 軽い酸欠になったのだ。これを酸欠と呼んでいいのかは知れないが。
「そうか、順調のようだな。この調子なら明日か、あさってには真相がわかるかもしれないな」
「そうですね」
言葉を返し、山岸と田沢は警察署を後にした。
柴口幸治は病室の中に戻ってきていた。
水色のカーテンで周囲がしきられているので余計なことは頭に入って来ず、優香もいないので事件について深く考えることができていた。
『このトリックは想像以上に簡単なのではないだろうか』
ぼんやりと考えていた不透明な推理にも、だんだんと自信が持てるようになってきた。
「わかったぞ! 家を燃やしたトリックと、兄貴からの謎の電話の意味が」
思わず、声に出てしまったが大きな声ではなかった。
一方、山岸は19時になるまで夜の東京を見物していたが、指定の時刻になったので駅へと向かった。
東京の夜は明るかった。当然だが、どこの店も商売を続けているので街は電気で埋もれているかのようだった。
田舎では午後6時くらいになると店じまいをし、明日に備えるというが、やはり場所が違えば人も違ってくる。もう午後7時過ぎだというのに、まだ学生や、サラリーマンで街はにぎわっていた。
そして不思議なことに駅に近づくにつれて人の数が多くなっていた。何か事件でもあったのだろうか。
山岸は警察手帳をちらつかせて前に出ることにした。報道関係者のカメラも数台、目に飛び込んできた。
所轄の刑事にも止められそうになったが、事情を話すと、すんなり通してくれた。ついに人垣の最先端にたどり着くと、人が1人倒れているのがわかった。
すぐに確認してみる……息はない。どうやら死んでいるようだ。
そして顔を覗き込んでみた。夜だがこの明るさなら余裕で見える。
その人物は柴口純平だった。