――第3話――
柴口幸治と加藤優香が売店へとおもむいた少し後に、警察署の刑事二人が、幸治を訪ねて病室へとやってきた。
一人は、四十歳を過ぎたくらいの山岸という捜査一課の警部で、白髪交じりの四角い顔をしている。
もう一人は、まだ新米の田沢という刑事で、威風堂々とした面構えに切れ長の目が特徴だった。
「柴口の寝ているベッドはここか?」
山岸警部が田沢に質問する。
「ええ、表札の通りなら間違いないと」
田沢はハッキリと言い返した。
病室の中には、ベッドが六つあり、左右に三つずつベッドが分配されている。そして幸治のベッドは入ってすぐ右側にあった。
山岸がゆっくりと水色のカーテンを開けると、もちろんそこには誰もいなかった。
「柴口のやつ、いませんね」
田沢が言うと、
「どこか売店にでも行ったんだろうよ、ベッドに座って待機してようぜ」
と、山岸警部はベッドの隅の方に腰をおろしてしまった。
「いいんですか? 業務中ですよ」
田沢が少しあきれた様子で言うと、
「業務中であろうと、なかろうと骨休めは必要なんだよ。気が狂ったみたいに走りまわるのはドラマだけ。それに今日は取り調べしかやらないんだ、張り切っていても疲れるだけだぞ」
山岸警部はお気楽に、そう返した。続けて、
「犯人は柴口幸治で決まっているんだ。物的証拠が見つかった今、取り調べなんて形だけだ」
と、言った。
「病食なんておいしくないからな、パンをたくさん買ったんだよ」
なにやらドアの前で話し声が聞こえてきた。
「そんなこと言っていると、退院どころか真犯人を捕まえる前にパクられちゃうよ」
「パン、食われちゃうよ。なんてな」
どうやら二名の男女らしい。今のはギャグのつもりだったのか特定できないが。
「警部、もしかしたら柴口かもしれませんよ」
田沢が横を向くと、山岸が必死で笑いをこらえているのが目に入ってきた。
「警部?」
田沢がもう一度名前を言うと、山岸は「すまん」と咳払いをしただけであった。
このおじさんは、本当に上司なのか? 少し不安になったが、病室の扉が開いたので場の緊張は一気に増した。
開いたカーテン越しに、山岸警部と、田沢刑事、柴口幸治と、加藤優香が向かい合った。
「失礼、男性の方は柴口幸治でよろしいかな?」
山岸警部はベッドから軽やかに飛び降りてから、訊いた。
「すみませんが、どちらさまで」
幸治が訊き返すと、山岸がスーツの胸ポケットから警察手帳を取り出し
「署の者です」
と、答えた。
「わかりました。ここで話すのはあれですので、大広間の方で」
「そうですね。移動しましょう」
こうして四人は大広間へと移動した。
「ここです」
幸治が指を向けると、刑事二人はなんだここかと洩らした。
しかしそれも無理はない、幸治の言った大広間とは、窓口の受付近くで、たくさん椅子が並んでいる場所だったのだから。
老人の姿がたくさんあり、どうにも落ち着かない。病院内なのにケータイで電話をしているおばさんもいた。近頃は若者よりも高齢者のマナー違反が多々見られるようになっていた。
「では、外に出てお話ししましょうか」
と、田沢刑事が言ったので
「え~、また移動するの」
と、不満げに優香が言った。
「あなたは別に来なくて結構です。我々は彼にお話があって伺ったので」
田沢の鋭い切り返しに、優香は少し狼狽した様子だったが
「そう、私も彼の無実を晴らさなきゃならないから、一応同行するね」
と、言った。
外に出ると、幸治は少し気が楽になったような気がした。狭苦しさが全くなく実に開放的だ。しかし、体にまとわりついてくるような暑さは真夏のご愛嬌ということだった。
「暑いから、手っ取り早く済ませてしまうよ」
山岸がそう言ったので、幸治は黙って頷いた。
「事件のあった当日、あなたはどこで何をしていたのかね」
機械のように抑揚のない声で山岸は訊く。
「それなんですけどね、刑事さん。聴いて下さいよ」
幸治は目の色を変えて必死に言った。
「あの事件には、別の犯人がいます」
「ほう、興味深いね」
山岸はバカにするような目で、幸治を見た。
「あれはバイトを終え、家に帰った時のことです」
「ちなみにどこの店かね」
山岸が口を挟む。
「ここの町には、一店舗しかない牛丼チェーン店です」
「で、バイトを終えたのは?」
「三時過ぎくらいだったと思います」
山岸は何度か、首を振って相槌を打っていたが、
「家に着いたのは何時頃だった?」
と、質問を変えた。
「え~っと、十五分くらい経ってからだったと思います。この日は急いでいたので確認する暇がなかったんです」
「急いでいた。それは何故?」
「兄から電話があったんです」
「ほう、それでなんとおっしゃられていたのですか?」
「母の様態が悪化した。すぐに来いと」
そこまで一息で言わせると、山岸はポケットからハンカチを取り出して汗をぬぐい始めた。
「なるほどね、それで?」
「一目散にベッドへ直行しました」
「そしたら?」
「母親は至って良好だったんです」
「で?」
「ちょっと信用してないんですか?」
まさか自分が質問されるとは思ってもいなかったのだろう。山岸は短く、えっ? と返した。
「だって、明らかに返事が省略されていたじゃないですか」
「返事?」
山岸は意味が解からず「と、いいますと何が言いたいのです」と訊いた。
「相槌に使う返事ですよ。最初はある程度、長い言葉で対処して下さっていましたが、最後の方になるとたったの一言しか発さなかったじゃないですか。どういうことなんです」
これではどちらが質問されているのかわからないな、と山岸は考えたが、
「失礼、暑いので頭がぼんやりして、返す言葉が短くなったのはすまない」
「謝罪で済めば警察は必要ありませんよ」
「その通りです」
応対しているうちに山岸は、過去に難事件の捜査をしていた時の事を思い出した。通り魔殺人の訊きこみをしていた時に彼と同じ苦情を言っていた女性がいたような、それも彼によく似た。あの女性が彼の母親だったのだろうか?
「ちょっと本当に聞いてます? 人の話。またボケーっとしてるけどさ」
幸治は山岸の顔を覗きこむようにして訊いた。
「すみません。ちょっと色々あって」
山岸警部は、またハンカチで額の汗をぬぐった。
「すみませんじゃ、済みませんよ」
すると、硬くなっていた山岸の表情は一変し、下品な笑い顔と化した。
幸治は一瞬ビクッとしたが、
「何がおかしいんです」
と、訊いた。
「今のギャグがですよ。気付かれてないかもしれませんが最高です」
「いい加減にしてください! 人をバカにしに来たのか、笑いに来たのかは知りませんが真面目に取り調べるつもりがないなら帰ってください。ハッキリ言って迷惑です」
幸治は、この辺でやめておこうと思ったが、気持ちが高ぶっていたせいもあり、
「顔も見たくありません、この世から物理的に消滅してください」
とまで、言ってしまった。
「すみません」
幸治はあやまったが、
「こちらこそ興奮させてしまって、すまなかったね。明日は、真面目に訊きこみに戻ってくるよ。今日はゆっくり休んでくれたまえ」
と、言い残して山岸警部と、田沢刑事は帰って行った。
優香は幸治に駆け寄り、
「あんなこと言って大丈夫なの」
と訊いた。
「あれくらい言っておかないと、あの手のタイプには効き目がないんだよ」
幸治は少し辛辣な言葉で、優香に言った。
一方の山岸警部と、田沢刑事はタクシーを停めると、警察手帳を見せ所轄の警察署まで走らせることにした。
「犯人を怒らせる作戦だったんですか、今日の取り調べは」
田沢刑事が、外の貧相な住宅街を見ながら山岸に訊いた。
「いや、そんなつもりもなかったんだが怒らせてしまったようだな」
山岸は笑いながら言った。
「そうですよ、なんてことしてくれたんですか」
田沢も責めるように言ったのではなく、笑いを含ませるようにして言った。
「でも、わかったことが一つある」
「えっ?」
何がわかったというのだろうか、まさか柴口幸治は犯人じゃない、とか言うのではないだろうか。
両者が顔を見合わせると同時に、山岸は言った。
「柴口幸治は犯人じゃない」と。
案の定か。田沢は、本当に山岸についていっても大丈夫なのかと少々不安になりつつもあったが一応「何でそう思うんですか」と訊いた。
しかし返ってきた言葉は、彼をより不安にさせた。
「理由なんかないよ、刑事の勘ってやつかな」
と、笑いながら山岸は言ったのだから。
そして、この日は意外にも道が込んでいたので、思ったような時間には警察署に着かなかったのである。