――第1話――
バイトを終え、店を出たのは午前3時を少し回った頃だった。
空は未だに真っ暗な宇宙空間に閉ざされているが、あちこちに点在する星々は虚無的な闇夜を相殺しているかのように思われた。
人気のなくなった閑静な住宅街が立ち並ぶこの道路には明かりが全く与えられておらず夜の寂しさに拍車が掛かっているようだった。
当然、歩行者や自動車の姿は無いので自分はこの世に1人しかいないのだと錯覚してしまう。
しっかりしろ! お袋を守ってやれるのは俺だけなんだぞ。
ついつい弱気になってしまう自己を激励しながらも、本心では母親の死を望んでいた。
5年ほど前に、兄が上京した直後、母親は突然原因不明の病に倒れ、今も寝たきりなのだ。その5年間がどれほど長かったか、育ててもらった恩はあるもののさすがに精神も限界に近かった。
しかしその理由は母親の為にとどまらなかった。
「ヴ~……、ヴ~……」
ジーンズにわずかな振動を感じた。おそらく電話の着信かメールを受信したのだろう。
結果は、その通りで『本職絡み』の電話だった。
「もしもし」
気の抜けたような間抜けな声で電話に出る。
「あの先生、すいませんが時間がありませんので自宅の方に原稿をファックスしていただけないでしょうか」
切羽詰まった女性の声が胸に突き刺さる。
「あの……、さあ」
適当な言い訳をするために、わざとたっぷり時間をかけて言った。
「何です? 原稿を失くされましたか」
失くしたって言えば許してくれるのか。
「いや、失くしたって言うか、バイトした帰りなんで着いてから送ります」
本当は原稿など終わる余地もなく、途方にくれていたのだが。
「なるべく速めにね」
捨て台詞を残し、彼女は一方的に電話を切ってしまった。
しばらく終話音を聞きながら茫然と立ち尽くしていたが、ふっと我に返り、暗い夜道を歩きだした。
「ふ~っ」
溜息をつきながらも、歩を速めて進んだ。実は暗所恐怖症なのだ。
先程までは考え事をしていたから良かったが、正気に戻ってしまうとそうはいかない。
「~♪」
打開策が見つからなかったので、邦楽を口ずさみながら帰ることにした。
しかし、この日はとことん夜を満喫させようと思っているのだろう。再びケータイが振動を始めた。
もしお化けからの電話だったらどうしようなどと、くだらない事を考えながら液晶画面を確かめると兄貴の名前が映されていた。
「もしもし」
少しぶっきらぼうに言ったのだが相手は優しく「よう、帰ってきた」と大人っぽい口調で言った。
帰ってきた? 何しに来やがったこのクソやろう。
「とにかく速く家に来てくれないか」
兄貴は、何故か慌てているようだ。
「家って言っても、お前の家じゃないだろ」
少し強めに怒鳴ってしまった。
「オマッ、母さんの様態が突然、悪化し始めたんだ」
テメェは疫病神か。
「あん、わかった。そこでじっとしてろよ」
今日は、朝早くから大変だぜ。
考える暇もなく体は全力で走りだしていた。バカみたいに暗い道だが何年も前から歩いてきた場所なのだから、勝手はよく知っているつもりだ。町内地図が走馬灯と共に浮かんでくる。家まであと5分くらいで着きそうだった。
「く、ハアハア」
しかし30秒ほど走ったところで息切れしてしまった。夜といえど今は真夏、暑さに体力を奪われているのだ。本調子で走れるわけがない。そこに追い打ちをかけるかのようにジーンズをはいていたから尚更だった。だが、立ち止まるわけにいかない。親の死に際をみとれない、または親より先に死ぬ以外、親不幸なことは 無いからだ。心臓が針を刺されたかのようにチクリと痛むが気にしない。
次々と電柱を追い越していくうちに心臓の痛みも増していき、今度は握りつぶされるような痛みを覚えた。
「うっ、いってぇ」
呟きながらも、ペースを徐々に落とし結局足を止めてしまった。
すると今までずっと我慢していたかのように汗がどんどんと湧き出てきた。ジーンズも濡れてべったりと張り付いている。
「あ~!」
夜の静寂をぶち壊すかのような雄叫びをあげ、再び走り出す。
足は思ったように動いてくれず代わりにズキズキと痛みを発していた。
家に到着したのは10分ほど経過してからだった。それだけ運動不足だったというわけか。
ドアを開け放ち、すぐさま母親が寝込んでいる寝室へと向かった。木の板でできた廊下を走ると、ミシミシという音が鳴った。ゆっくりとふすまを開けると、母親は寝息を立てながら、ベッドの上で眠っているようだった。
どういうことだ。病状は至って安静ではないか。
「おい、兄貴。脅かすんじゃねーよバ~カ」
冗談っぽく笑いながら言ったが、当人は姿も声も出さない。
水でも飲んでいるのかな俺も飲もう、と後ろを向こうとしたその刹那。
背後から2本の手が伸びてきて、ハンカチを鼻に押し当ててきた。
「ん~」
声を出そうとしてもなかなか上手くいかない。
この野郎、握りつぶしてくれるといわんばかりの勢いで、犯人の手首を思いっきり握りしめた。これでも、中学時代の握力平均値は80を超えているのだ。力には自信があった。
「いって」
まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう。犯人はそう声を漏らした。
しかし、猛攻を仕掛けられたのもここまでで大きく息を吸った瞬間に甘酸っぱい匂いが脳内に充満していき気を失ってしまった。