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ライフ・トレイン

作者: えみ
掲載日:2011/05/02

       

毎日、毎日、家と会社の往復で嫌になる。

毎朝起きるのが面倒くさい。顔を洗うのも面倒くさい。

休みの日の夜は、明日からの繰り返しの日々にうんざりする。

 寝る前にビールを飲まないと眠れない。

 自分が情けなくなる。

 だけど、そんな日々から抜け出せずにいる。


 会社までは普通電車で四十分。毎日、確実に座れるけど。疲れる。

 会社の駅に着くまで、考えるのもしんどいので、ボーッとしてる。

 人間が好きじゃないから、観察はしない。女じゃないから、化粧はしない。お腹は空かないから、何も食べない。本は揺れるから読まない。というか、まず内容が頭に入らない。 

 ただ座って、膝の上に鞄を置いて、ボーッとしている。

 前の座席に誰もいない時は、前を見たまま流れる風景を見てるけど、見てなくて、人が座ったら床を見てるようで、見ていない。

 ただ電車と一緒に揺れるだけ。ガッタンゴットン。

 

公の場では眠れないから、乗り過ごしたことはないけど、二日に一回くらい会社の前の駅で降りるのをためらう。

 最初は一か月に一回ためらって、次に一週間に一回、二日に一回ためらって、最後は毎日ためらう。それが大体、三か月周期で繰り返される。

だけど降りなかったことは、この五年間一度もない。


今日もまた地獄行きの列車に乗ってしまって、いつもと同じように、少し広く空いている席に座って膝を揃えて、その上に鞄を置く。そして、前を見て、床を見る。女じゃないから化粧はしない。

いつも同じで、全く良い事なしの僕だけど、今日は朝から必要以上にうんざりだった。

雨だし、ワイシャツ半乾きだし、眼鏡が変に曇っていて、拭いてもなかなか綺麗にならない。奇妙な寝癖が鬼のようについて、五十パーセントくらいしか改善されてないままだし。

こんな日は会社に行っても、ろくなことはない。


 何かもう限界だった。

 徹底的な事はないけど、毎日の積み重ねが、どこかの通信教育のように身になればいいのに、逆に体の奥の見えない部分に抜けることなく溜まって、この世に存在するどんな物や方法でも取り去ることができない気がした。

固まった油をスプーンで取る様子を想像してみた。なんか違う。そんなお手軽なもんじゃない。田植えの時の田んぼに入った足? それも違う。

 石油を積んだ船が座礁して、海に真っ黒な石油が流れ出てる感じなのかな、僕の心は。

 八十パーセントくらいまで追い付いた気がする。

 でもその石油をどう取り去ったらいいのかも分からないし、取り去ろうとする元気も全く湧いてこないんだ。船が座礁して、石油も全部流れ出て、十年くらいたった後の海って感じかな。

今のは百パーセントだ。


行きたくないな。

今まで日本の人口位は思った言葉。今日はまた一段と重たいよ。

誰も助けてくれなくていい、ただこのまま消えてなくなりたい。


電車が止まる。駅に着いた。僕は立ち上がる。

ここはオフィス街、ほとんどの乗客がこの駅で降りて、それぞれの会社へ向かう。僕も流されるように扉へ行き、開くのを待つ。

扉が開く。何か巨大な陰謀に操られるように、乗客が一斉に電車を降りていく。僕も。

ああ、今日もまた、あの日々が始まるのか・・・


電車から降りていく乗客の肩が、次々と僕の肩に当たっていく。その内の何人かは、迷惑そうな顔を僕に向けて降りて行った。

なぜだか足が動かない。どうしても。

まるで誰かが地面から手を出し、僕の両足をしっかり掴んでいるようだ。

だけど今日が始めてじゃない。こんなことは、今まで何度もあった。

朝起きるのをやめようか。蒲団から出るのをやめようか。スーツを着るのをやめようか。家から出るのをやめようか。

 でもいつも、そうしてしまった後の自分の立場が、リアルに頭に浮かんで怖くて出来なかった。

そう、僕は勇気もなく中途半端な人間なのだ。

結局、大きく今の現状を変えるのが怖いんだ。逃げてばかりなだけなんだ。


だけど今日はいつもと少しだけ違った。何かが違う。そんなリアルなことが全く浮かんで来ない。それどころか、あらゆるどんなことも頭の中に浮かんでこない。乗客はみんな降りてしまって、僕一人になっても僕は立ち続け、ホームを去り、会社へ向かう人々の背中をじっと見ていた。

やがて僕の目の前で扉が閉まる。

ここから先の駅は何もない田舎だ。乗ってくる人は僅かしかいない。

電車が動き出しても、僕はその場に立ち尽くしたまま。車内の少ない乗客はそんな僕になど全く興味がない。それぞれ本を読んだり、イヤホンで音楽を聴いたり、ゆっくり流れる景色を見ているのか、考え事をしているのか区別がつかない人ばかりだ。

ついにやってしまった。

僕は、初めてあの駅で降りなかった。

もちろん休日などは普通に通過してきたから、未開の地ってわけじゃないけど、スーツ姿で会社に行くのに通過したのはこれが初めてだった。


これから僕の中でたいしたことをしでかそうとしているのにも関わらず、僕は冷静で、僕の心はそんなことには無関心みたいな感じがした。不安も全くない。いや、まだ何も起こってないから、後からじわじわ来るのか。

今なら次の駅で降りて、反対方向の電車に乗れば、僕の「たいしたこと」は、悲しいくらいに何事もなかったように会社に出勤出来るが、その選択肢は僕の心の中には微塵もない。かといって、これからどうするかも浮かんでこない。

とりあえず座るか。

先ほどの賑わいが嘘のように閑散とした車内を軽くさりげなく見回し、一番人が少ない、奥の座席にゆっくりとさりげなく腰を下ろした。

今まではきちんと足を揃えて座っていたけど、今はだるい。酔っぱらったオヤジのように若干うなだれて座った。何だかひどく疲れていた。大きく深い溜息。

周りにどんな人が座っているかは分からない。とにかく人の目なんて気にする余裕もないくらい僕は疲れていた。このまま一生、この状態で電車に揺られてどこまでも行きたい気分だ。

ぼくはポケットから携帯電話を取り出すと、電源を切った。そして一度ポケットに閉まったけど、思い直したようにそれを取り出し、電池パックを抜き取り、鞄の中にそのまま適当に入れ込んだ。これで僕と会社をつなぐ接点は一応なくなった。まさか僕の福岡の実家に連絡が入ることはないだろう。とにかく今はそんなことは一切考えたくない。ただ、電車の流れに身をまかせ、電車色に染められたい。

朝から雨で、嫌な天気だったのに、いつの間にか雨は上がって車内に暖かな日差しが差し込んでいた。

少し離れて斜め前には、若くて優しそうなお母さんと小さな男の子。男の子は今朝見たアニメ番組の話しを一生懸命話しているのを、優しく頷きながら聞くお母さん。いいもんだな。

普通列車で閑散としていて、おまけに暖かな春の日差しが差し込んでいる。このシチュエーションは眠りを誘うシチュエーションベスト5に必ず食い込んでくる場面ではないだろうか。

眠たい。たとえ口を開けてよだれを垂らし、電車の揺れにまかせて車内を転げ回ったとしても、ものすごく眠たいのだ。今の僕に不安はない。一つだけ引っかかるのは空模様くらいだぜ。


 なりたい自分はあった。理想とする僕が確かにいた。

 だけどそんなこと思い返したって、今の僕には何の希望にも活力にもならないんだ。今の僕には、その理想が重くつらいよ。希望なんてどこ探しても見つからない時だってある。逃げ道ばかりが見つかる。人の嫌な部分が目につく。そういう自分に嫌気がさす。その繰り返しだった。

 家と会社の往復を繰り返すだけじゃなく、そんな感情も毎日、繰り返しているのか、僕は。



 ガタン。

 もの凄い電車の揺れで、僕は目を覚ました。僕は眠っていたのか。

 まだ完全に覚醒していない頭を起こし、深呼吸して息を整える。

 どれくらい眠っていたのだろう。

 窓の外を見ると、先ほどの日差しは消え、再び雲空が現れていた。もう少しすると雨が降り出すだろう。

 今、何時だ。

 僕は右手の腕時計を見る。時計をしていない。忘れている。

 仕方がないので、携帯電話の時計を確認しようとしたが、先ほど大げさに電池パックまで抜いて、鞄に放り込んだのを思い出した。携帯電話を取り出して、電池パックをはめ、電源を入れる。面倒くさすぎる。この際、時間はいいや。何かに追われる生活は捨てたのさ。


 さてと、これからどうするかな。

 とりあえず、このまま終点まで行くことにしよう。とにかく、今は何も考えずにのんびり揺られていたい。

 「?」

 僕は車内を見回した。誰もいない。

 どれくらい時間が経ったかは定かじゃないけど、多分まだ二駅過ぎたくらいだ。

 少し前まで座っていた親子も、いつの間にかいなくなっているし。っていうか、誰もいないじゃん。

 「!」


いや、いる。遥か向こうの席に、オバサ・・・女性が一人。直接見ると、失礼なような気がするので、首から上だけを少し女性が座っている右側へ向けた。

 普通のオバサンだ。

 別に口に出して言うわけじゃない。心の中の表現は自由だ。

 白いエプロンを身にまとい、少し小太りで頭はパーマ。エプロンの下には桃色だか小豆色だか分からないセーターに、青というより紺というべきであろうスカート? みたいなお召し物。短く白い靴下にやっぱり履物は定番の赤いゲタ! オバサンのすぐ横には寄り添うようにスーパーの袋が。その中から大根の葉が少しだけ、こんにちは。典型的な買い物帰りのオバサンだ。

 で、何をしているかというと、床につかない足をブラブラさせて、無心でみかんを食べている。あんまり見つめたら失礼だ。

 僕は視線を正面に戻すと、軽く深呼吸してから、もう一度彼女に目を向けてみた。

 「!?」

 こっち見てる。みかんを食べる手は止めないで、熱い視線を間違いなく、この僕に向けている。なんか、昼ドラでも見ている感じだ。僕はそのまま顔だけ戻し、その視線には気付いてないフリをして、さりげなさを装った。

 何故か僕の心がざわついている。胸騒ぎがする。同期息切れがする。あの視線は怖すぎる。ジェイソン並みだ。ある意味、目で殺すだな。関わらないが一番だ。

 

 「・・・」 

 やっぱり気になる。見たらダメと思うと見たくなる。今、どうなってんだろうなぁ。あのオバサン。まだ、みかん食べてんだろうなぁ。あの袋の中の大根を食ってたりして。いや、それは可笑しすぎだろ。

 あ〜気になる。なんでこんなに気になるんだろう。これはもしかして運命の出会いではあるまいか。

 ちらっと見てみるか。

 ちらっ。

 「!?」

 

 近くなっている。二人の距離が縮んでいる。

 さっきまでは、ずいぶ遠くに座っていたのに、今じゃ斜め右側の座席に移動してきている。いつの間に。

 しかもしれっと二個目のみかんを頬張っている。なんなんだ一体。向こうも僕に運命を感じているのではあるまいか。ジャマイカ。

 冗談じゃないぞ。そんな危険な恋はごめんだよ。

 「アンタ」

 「はい?」

 やばい。声が裏返った。だって急に彼女が話しかけてくるんだもん。ドキドキだよ。

 「アンタ、死んでるよ」

 「へ?」

 「嘘だよ」 

 オバサンは鼻で笑うと、またみかんを食べ始めた。

 今まで、それなりに平凡に生きてきて、平凡な社会人になって、それなりのトラブルや小さな日常の事件を解決してきたけど、今、僕が置かれている現状はそのどれにも当てはまらないし、かすってもない。何トラブルだ?

 どうしよう。

 悩むことはない。

 次の駅で降りよう。

 それまでは寝たふり、寝たふり。

 「ねぇ、ねぇ」

 オバサンが僕のすぐ横に座り、僕の肩を激しく揺さぶり、ついに本格的に声を掛けてきた。図に書いて説明するなら、僕、オバサン、スーパーの袋の大根の順だ。

 もう逃げられない。

 僕はわざとらしく目を覚まし、少し寝ぼけた顔でオバサンの方を見た。本当は心臓バクバクだ。何でしょうか。一体。

 「アンタ、なんでこの電車に乗ってんのか分かってんの」

 「会社に行くためですが」 

 なにか? 問題でも?

 「アンタ、呆れた」

 オバサンは本当に呆れた様子で、座席にの垂れかかった。

なんかすんごいムカつくんですけど。でも怖くて声が出ないのね。僕が一言でも反撃そようものなら、その数億倍の言葉の暴力が返ってくること間違いない。ここは下手に出るのが一番。

「・・・あの、一体何がおっしゃりたいのでしょうか」 

ミクロの反撃。

「アンタ、あたしが誰だか分かんないの?」

 僕はここへ来て、初めてオバサンの顔をまじまじと見た。いいやー。知らんなぁ。

 どこにでもいるオバサンじゃん。

 「・・・」

 僕はものすごく考えているふりをし、頭を少し傾げてみた。するとオバサンはまた鼻で笑うと、

 「だろうね」

 と一言吐き捨てた。

 抑えろ、抑えるんだ僕。

 平常心、平常心。

 「失礼ですが、どこかでお会いしましたでしょうか」

 恐る恐る問いかけてみる。オバサンは何も答えない。何か少しだけ怒っているようにも見える。怖いからオバサンの顔はなかなか直視できない。

「・・・」

 重たい沈黙。

 大好きな女の子と会議室で二人きりのなった時と、なんか似ている。そこには重たい沈黙という共通点しかないのだけれど。



「あー!」

 僕は思わず立ち上がった。

 電車が停まるはずの駅を思いっきり通過した。

 なんでだ。この電車は各駅停車のはずだろ。運転手さーん。忘れたんですか。

 「あんたのお母さんだよ」

 「はぁー?」

 オバサンが急に呟くように言うもんだから、とっさにチンピラのような切り返しをしてしまったじゃないか。

 

 は? お母さん?

 何言ってんだ、この人。

 もう何がなんだか分からない。とりあえず、僕は座って目を閉じた。

 とにかく次の駅で絶対に降りるぞ。早くここから逃げ出したい。

 「アンタのお母さんだよ」

 オバサンはさっきよりも、弱冠大きな声で言った。

 だーかーらー。

 「あなたが僕のお母さん?」

 「そう」

 どうせ、その後でまた、「嘘だよ」とか言って、みかん食いだすんだろ?

 「・・・」

 「・・・」

 「・・・!?」

 ねぇ、否定しないの? 

 ねぇ! 嘘だって言ってくれよ。

 僕の心は悲鳴を上げている。もう限界寸前だ。

 「僕に母はいません」

 「・・・」 

 「母は僕を生んだ時に亡くなっているんですよ」

 本当ですよ。

 「知ってるよ」 

 ならおかしいだろ。死んだ人間が僕の隣に座ってみかん食ってんのは。それにオバサンには悪いけど、僕の母さんはすごく美人だったんだ。

 オバサンとは全く別の人種なんだよ。

 もうなんか腹立たしい想いでいっぱいだ。何から整理していいのか分からない。

 「ヒロくんには信じてもらえないかもしれないけど」

 「どうして僕の名前を」 

 「お母さんだから」

 しおらしく話すオバサン。話しが見えない僕。


 まただ、また停車するはずの駅を通過した。やっぱり、この電車はおかしい。駅を通過し続けることも、乗客が僕たち二人しかいないことも。

 僕はオバサンを見た。下を向いてみかんの皮を包むように両手で持っている。

 本当にこの人が僕の母さんなんだろうか。

 でも母さんが死んだのは、今から二十七年も前で、当時、母さんは三十歳だった。外見からして明らかにおかしい。

 そりゃ、母さんが生きていて、元気に歳を取っていったのなら、そんな風になってしまうこともあるかもしれない。

 でも母さんは三十歳で亡くなっている。死人が歳なんて取るのだろうか。

 それか、もしかして実は母さんは、あの時、死んだんじゃなくて生きていて、僕と父さんを置いて出て行ってしまったのではないか。

 「ヒロくんに会いたくて、天国から遊びに来ちゃったの」

 バットで頭を殴られたような衝撃だ。

 もうこれ以上は無理だ。理解できる範囲を優に越えている。誰だってそうでしょ?

 「言ってる意味が全然、理解出来ません」 

 「ほら、私、ヒロくん生んですぐ死んじゃったじゃない?」

 オバサンは自分の顔を指差しながら、軽い感じで話し始めた。僕は相槌を打つ余裕もなく話しを聞く。

 「あの日から、ずっと天国からヒロくんの成長を見守ってきたの」

 「保育園のヒロくん、小学校のヒロくん、飛んで社会人になったヒロくん」

 「時には神様に土下座して、ヒロくんの姿をすぐ傍で見つめたこともあったのよ」

 ほう。

 「ゆみちゃんだったかしら、あの子、可愛かったわね。なんで別れちゃったの。もったいない」

 大学の時に初めて付き合った彼女の名前だ。

 「・・・本当に僕の母さんなんですか」

 母さんは、じっと僕の目を見つめ返した。

 さっきとは違う、重くない沈黙が流れる。でもやっぱり、何て言っていいのか分からない。

「ごめんね、急に」

「なんか・・・」

「こんな姿で」


「えっ?」

 そっち? この流れで、そこを謝るのか。

「それよりさ」

 僕には聞かなければいけないことが、たくさんある。どうして? と思うことばかりだ。

「それより、僕には今のこの状況が全く理解できないんだけど」

 母さんはそうね、という相槌。

 まずそこからだろ。容姿については、突っ込みどころ満載だが、この際そこは後回しだ。

 「今まではヒロくんのことを、姿のない母さんとして見守ってきたわ。一緒に笑って、時には一緒に泣いて、あなたの成長を見てきた」

 うん。

 「でもね、最近のあなたを見てると、どうしても空から見守るだけじゃ、我慢できなくて・・・」

 そうか。

 「だから、母さん神様にお願いしたの。どうしても、あの子に会って話しをしたいって」

 突然、母さんの顔が険しくなった。

 「もちろん、最初は断られたわ。死んだ人間がそんなことは出来ない、不可能だって」

 そりゃそうだろ。

 「でも母さん、一歩も引かなかった」

 神様を相手に?

 「もう、すごい意地の張り合いよ」

 興奮気味に話す母さん。

 ごめん、もう想像が追い付かない。 

 「そこで、母さんから攻撃を仕掛けたの」

 「・・・・」

 「鍋を作るわって」

 「は?」

 母さんは隣に座っていたスーパーの袋を持ち上げて僕に見せた。

 「ごめん。意味が分からないんだけど」

 もう、ずっと。

 母さんは、僕に顔を少し近づけると、嬉しそうに、

 「天使仲間が話してたの、母さん聞いちゃったのよ」

 ・・・。

 「神様は人間が食べてる物を、いつも興味津津で見てるんだよねぇーって」

 「特に冬場の鍋を囲んでいる家族を見つめるときの目には、鬼気迫るものがあったって」

 母さんは人差し指を立て、

 「しかも、味はキムチ」

 窓から飛び降りていいかな?

 「その話しを母さんが神様にしたら、イチコロだったわね。父さんを落とした時より簡単だったわね」

 へー。

 「即決でオッケイが出て、神様にキムチ鍋の材料費をもらって、あなたの元へやって来たってわけ」

 なんだか、僕の聞きたかったことの九十パーセントは返って来なかった気がするけれど、そこをあえて掘り下げて聞く気力が、僕にはもう残っていなかった。

 映画とかで観ると、こういう神秘的な奇跡のような出来事って、感動的で涙があふれ出しながら、語るイメージがあるんだけど。

 「でね」

 僕の複雑な想いとは裏腹に、母さんのマシンガントークは続く。

 「死んだ頃の母さんに戻って、ヒロくんに会いに行ったら、息子がホレちまうんじゃないかって、神さんが言うもんだから」

 神さん?

 「うふふ。だったら現在の年取った姿で会いに行こうっていことで、二人とも納得してね」

 母さん、楽しそうだなぁ。

 「それで、この格好で来ちゃった」

 できれば、あの頃のままの母さんに会いたかったよ、僕は。

 目の前にいる母さを完全に受け入れるまで、僕には長い時間が必要だ。

 「でも失敗だったわね」

 「どうして?」

 「だって、鍋の材料を先に買っちゃったら、材料が傷んじゃうじゃない」

 そりゃそうだ。

 「でも仕方ないわね」

 「何しに来たの?」

 僕は話しを大きく元に戻した。

 このまま母さんの話しを聞いていたら、天国に行って神様と鍋を囲むことになりそうだ。

 「僕は、生まれた時には、もう母さんがいなくて、写真の母さんしかしらない。しかも、母さんの写真はほとんど残っていないから、リビングに飾ってある、父さんと結婚した時の写真だけなんだ」

 「そうね、母さん写真に写るのが、あまり好きじゃなかったから」

 「僕は、ずっと母さんに会いたかった。学校の行事や、友達の家に遊びに行った帰り道」

 母さんの役割みたいなものは、今もよく分からないけど、

 「とにかく、今までたくさんあったんだ。なのに、なんで今頃になって現れたんだよ」

 しかも、そんな姿で。

 「そうね」

 母さんは独り言のように、何度も呟いていた。

 

 外は雨が降り出し、薄暗い。

 今、幾つ目の駅を通過したのだろうか。駅のホームで電車を待つ人々には、僕たちが乗っている電車は見えていないようだ。

 僕は、この電車を降りることが出来るのだろうか。

 「あの・・・」

 僕の声に母さんが顔を上げた。

 「なんで僕に会いに来ようと思ったんですか?」

 今まで見守り続けた母さんが、僕に会いに来るなんてよっぽどだ。

 何を伝えようとしているんだろうか。

 もしかして、父さんに何かあったんじゃ。

 僕の不安をよそに、母さんは笑顔で言った。

 「本当はいつでも、アンタに会いたかったんだけど、今回は傍にいてあげたくて」

 「?」

 母さんは優しく微笑み、

 「アンタ今、自分はなんでこの世に生れて来たんだろうって思ってるんでしょ」

 僕は何も答えない。

 「誰かに必要とされているわけじゃないし、誰も必要としていない。だったら何のためにって」

 僕は何も答えない。

 「自分の変わりは誰でも務まるし、僕が今いなくなっても、誰も困りはしないんだって」

 何も答えず、うつむく僕を母さんが優しく見ていてくれるのが伝わる。

 

 母さんは、まるで、僕の心と親友の中にあって、なんでも包み隠さず語り合ったかのように、僕の胸の内を分かっている。僕自身よりも。これも、神様に頼んで貰ったのか、死者だけに与えられる力なのだろうか。

 そして、改めて思う。僕はこんなにも自分のことを卑下して見ていたのかと。可哀そうなヤツだな。

 大体。自分のことをこんな風にしか思えないヤツを、誰が大事に思ってくれるだろうか。そんな暗いヤツの傍にいたいと思う人は相当の物好きぐらいだろう。興味を持った科学者が調べだすかもしれない。

 僕が一人で勝手にどん底に落ちて行ってるんだ。

 「ばかねぇ」

 震える僕の手を母さんが握った。

 「父さんと母さんにとって、あなたは特別なのよ。変わりなんていないわ。なのに、あなたが、そんな風に思ってるって分かって母さん、辛くて、辛くて」

 涙がこぼれたら、カッコ悪いから我慢した。

 「母さんがあなたを想う、この気持をどうしても直接あなたに会って、伝えたかったの」

 母さんの手は暖かい。

 顔は見れないけど、温もりを感じられる。

 母さんにとって、僕は特別。自分の人生まで捨てて、僕をこの世に生んでくれたのに、僕ときたら、感謝もせず、なんてひどいことをしてしまったんだろう。殴られたっていいくらいだ。自分の人生を返せって思ったかもしれない。

 なんにしたって、僕はかなりの親不孝者だ。

 母さんの気持に、何一つ応えていないのだから。

 それどころか、母さんを深く傷つけてしまっている。

 「ばかねぇ」

 と、母さん。

 「アンタ、少し考え過ぎなのよ。もっと気楽に生きなさい」

 母さんの温かい手の上に、僕の冷たい涙がこぼれた。

 ごめんね、母さん。

 「ごめん」

 「謝らなくていいのよ。それに、謝らなければいけないのは母さんのほうだわ」

 「えっ」 

 「傍に居てあげられなくて、ごめんね。母親がいないということで、父さんとあなたには辛い思いをさせてしまった」

 「いいよ。別に」

 照れくさくて、つい無愛想な物言いになってしまう。

 違うんだ、母さん。

 「ヒロくん、これだけは忘れないでね。あなたは私にとって、代わりのきかないとても大切な人。母さんはあなたを生んで、命を落としてしまったけれど、ちっとも後悔はしてないわ。だってあなたが、初めてお腹の中にいるって分かった時、私はすごく幸せで、幸せでたまらなかったの。あなたを生むと、私の命が危ないかもと分かった時も、絶対にあなたを生みたいって思った。ただ、あなたと離れると思うと、心が痛かった。出来る事なら、ずっとあなたの傍にいたかった」

 母さんが少しだけ強く、僕の手を握った。

 母さんも泣いている。 

 しばらく二人で手を握り合って泣いた。

 

 母親ってこういうものなんだな。

 父さんには悪いけど、やっぱり違うな。なんか違う。

 母さんがあの時、僕を生むと決断しなければ、僕はいなかった。

 そしたら、母さんは今も元気で生きているかもしれなかったんだ。

 僕は生きている。これからも生きなきゃいけない。

 「母さん」

 「なぁに?」

 「僕を生んでくれてありがとね」

 「いいえ、どういたしまして」 

 そう答えると同時に、母さんは勢いよく立ちあがった、

 そして、スーパーの袋を取ると、右手を上げて、

 「肉が傷むから帰るわ」

 と、あっさり言った。

 僕は拍子抜けして、口を開けたまま、母さんを見上げた。

 涙がぴたっと止まった。

 「じゃあ、がんばんなよっ!」

 バシッと僕の肩を叩いた。

 痛い・・・。

 

 ガタン。

 

 ものすごい揺れで僕は目を覚ました。

 「?」

 眠っていたのか。

 もしかして、今までの出来事は、全部夢だったのだろうか。

 僕は周囲を見た。いつもの電車内の風景だ。

 うん、間違いなく夢だろう。

 普通に考えてありえない体験だ。

 だけど、夢だろうが何だろうが、そんなことはどうでもいい。

 僕は母さんに会った。

 それだけで十分だ。

 

 アナウンスが流れ、僕がいつも会社へ行く時に降りる駅の名前が告げられた。

 さてと、仕事に行くか。


 電車が駅で停まる。

 僕は立ち上がると、電車を降りて、いつもの会社へ向かった。

 気楽に生きていくかな。



                                     

                                完


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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄く綺麗にまとまった物語ですね。 楽しませて頂きました。 [一言] 他の短編も読んでみます
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