電車の窓に映る自分の顔
次の日の朝になっても、昨日の光景が頭から離れなかった。
別に、何かがあったわけじゃない。
そう思おうとするほど、心のどこかが、わずかにざわついた。
気づけば、いつもより少し早く店に向かっていた。
八月に入ってから、店の慌ただしさが当たり前になっていた。
開店からずっと注文が途切れなくて、気づけば夕方になっている。
渚と涼真は、いつも通りだった。
昨日のことなんて、最初から無かったみたいに働いている。
うまく気持ちを戻せないままなのは、俺だけだった。
閉店時間を少し過ぎて、ようやく店内が静かになった。
涼真はゴミ出しに出ていて、店内には俺と渚だけが残っていた。
「はー、今日やばかったね」
渚が伸びをする。
「夏本番って感じだね」
グラスを洗いながら返事をすると、水の音だけが店に残った。
少しだけ、言葉が途切れた。
けれど、気まずさはなかった。
「颯太、それ終わった?」
不意に話しかけられて顔を上げる。
「もうちょい」
答えながらグラスを拭くと、渚がカウンター越しに身を乗り出した。
「今日さ」
少し声を落として言う。
「このあと時間ある?」
思わず手が止まった。
「え、あるけど」
「よかった」
渚はほっとしたように笑った。
「ちょっと付き合ってほしいとこあって」
呼吸のリズムが、少しだけ乱れた気がした。
「どこ行くの?」
「内緒」
そう言って笑う。
そのとき、店のドアが開いた。
「戻りましたー」
涼真が入ってくる。
渚は振り向いて、いつも通りの声で言った。
「涼真、今日さ、終わったらみんなでごはん行かない?」
さっきまでの空気が、何もなかったみたいに戻る。
俺は、なぜか少し安心していた。
自分が先に誘われたことだけが、頭に残っていた。
ごはんを食べ終わったその帰り道、渚と二人になった。
涼真は用事があると言って先に帰っていた。
並んで歩く夜の道は、少しだけ静かだった。
「ねえ」
渚が言う。
「颯太ってさ、やっぱ最初から変わんないよね」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
笑いながら続ける。
「颯太とは、なんか普通に話せるんだよね」
心臓が一拍遅れて鳴った。
どう返せばいいのか分からない。
「……そうか?」
「うん。なんか気使わなくていいし」
そう言って、すぐそばの海へ視線を向けた。
胸の奥が、ゆっくり温かくなる。
取り留めのない話をしながら、同じ速さで歩いていた。
その時間が終わってほしくないと思った。
帰りの電車、渚の言葉だけが離れなかった。
窓に映る自分の顔が、少しだけ違って見えた。
しばらく、そのまま窓を眺めていた。




