九月の海
九月の海は、もう夏の音をしていなかった。
砂浜を歩く人も少なくて、
波は、ただ同じ形を繰り返していた。
夏のあいだ賑やかだった場所が、今は静かに呼吸している。
バイト帰り、一人で海まで歩いた。
三人で通った道を、今は自然に一人で歩いている。
寂しいわけじゃない。
隣に誰もいないことに慣れただけだ。
波が寄せて、返っていく。
暗い海は境界をなくして、夜の中に溶けていた。
あの夏のことを思い出す。
コーヒーの匂い。
閉店後の帰り道。
どうでもいい会話。
夜の風。
笑い声。
どれも特別じゃなかったはずなのに、
なぜか全部、夏の光の中に置かれたままみたいだった。
もし、季節が違ったなら、
きっと始まらなかった気がする。
立ち止まって、海を見る。
もう戻りたいとは思わなかった。
あの時間が確かにあったことだけが、
静かに残っていた。
ポケットの中で携帯が震えた。
店のグループLINEだった。
【明日もよろしくー】
短いメッセージに、スタンプが続く。
渚と涼真の名前も並んでいた。
少しだけ笑って、画面を閉じる。
振り返ると、街の灯りが遠くに並んでいる。
きっとこれからも、
この季節になるたび思い出すんだろう。
理由なんてなくて、
ただ風の匂いとか、夜の空気とか、
そんな小さなきっかけで。
ふと、思った。
あの恋に、理由なんてひとつもなかった。
ただ、季節が少しだけ優しすぎただけで。
きっと、ぜんぶ夏のせいだった。




