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ぜんぶ夏のせい  作者: 湊人


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夏のはじまり

コーヒーの匂いや海の匂い、

夜の空気や、ふとした音に触れたとき、

あの夏だけが少し遅れて戻ってくる。


きっと誰にでも、

説明できないまま心に残る季節がある。


これは、そんな一つの夏の話だ。


九月の終わりの海は、もう誰のものでもなかった。


観光客も少なくなって、波の音だけが季節外れに大きく聞こえる。


なぜかこの季節になると、あの夏のことを思い出す。


あの夏、俺――颯太は江ノ島のカフェで働き始めた。

涼真と一緒に入った、ただの夏休みのバイトだった。


それなのに、仕事のことはあまり覚えていない。


最初に覚えているのは、渚のことだった。


俺より少しだけ年上で、よく笑う人。


今思えば、好きになった理由なんてひとつもない。

たぶん、ぜんぶ夏のせいだった。




店の扉を開けた瞬間、コーヒーの匂いと一緒に潮風が入ってきた。


「おはようございます! 今日からです!」


少し大きすぎる声が店内に響いて、自分でも恥ずかしくなる。


隣で涼真が小さく頭を下げた。


「……お願いします」


カウンターの奥から、笑い声が聞こえた。


「元気だね、新人くん」


振り向くと、エプロン姿の女の人が立っていた。


「そんな緊張しなくて大丈夫だよ。ここ、ゆるいから」


そう言って笑ったのが、渚だった。


店長にエプロンを渡されて、俺と涼真は並んで立った。


「とりあえず今日は、できそうなことからね」


そう言って渚が近づいてきた。


「颯太くんだっけ?」


「はい。覚えやすい名前なんで助かります」


「自分で言うんだ、それ」


笑いながら、渚は製氷機を開けて、アイススコップを差し出した。


「じゃあ最初これお願い。氷入れる係」


「重要ポジションじゃないですか!」


「一番失敗しないからね」


言われた通りグラスに氷を入れると、思ったより勢いよく跳ねた。


「うわ、逃げた」


「氷って意外と暴れるんだよ」


笑いながら氷を拾う横顔を、なぜか少し長く見てしまった。



ふと横を見ると、涼真も同じ作業をしていた。


渚は俺に説明していたのと同じはずなのに、涼真には何も言わなかった。


ただ手元をちらっと見て、


「……うん、大丈夫そう」


とだけ言った。


涼真は小さくうなずいた。


それだけだったけど、そのやり取りが妙に自然に見えた。


昼前になると店が少し忙しくなった。


俺は注文を聞き間違えて、アイスラテを二つ作るはずが三つ作ってしまった。


「やっちゃったなあ」


「飲めばいいよ、休憩で」


渚は笑って、余ったグラスをカウンターの端に置いた。


「新人あるあるだから」


「優しい世界ですねここ」


「でしょ?」


そう言って笑う顔が、やけに楽しそうだった。


そのとき、店の外で風鈴が鳴った。


海からの風でドアが少し揺れる。


渚は一瞬だけ外を見た。


ほんの短い間だったけど、さっきまでの笑顔が少しだけ静かになった気がした。


どうしてそう見えたのか、そのときは分からなかった。


「……今日、風強いね」


その言葉は、なぜか俺じゃなくて、涼真の方に向けられていた。


涼真は「そうですね」とだけ答えた。


渚は小さくうなずいて、また外を見た。


俺は、空になったグラスを意味もなく持ち直していた。


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