はじまりのはじまり
わぁわぁと沢山の人々の歓声が押し寄せる。
これは快哉だろうか。それとも、怒号だろうか。やかましく吹き鳴らされる指笛に混じって、憤怒にまみれた罵声や怒鳴り声が聞こえてくる。
みんな、なにに喜んで怒っているんだろう。
疑念に衝き動かされて瞼を押し上げると、視界一杯に群衆の顔が広がる。まったく状況が把握できずに周囲を見渡そうとするが、胴体に巻き付く鎖がそれを封じる。
肉に食い込む鎖の感触に顔を顰めて、シェスカはすべてを悟る。
――あぁ、あのときと同じか、と。
「この悪魔めが! やっぱり、魔女の子だったんだ! 勇者様たちを裏切りやがって!」
「文字通り、悪魔の末裔よ! 赤く染めた髪もどうしてくれるの!」
若い男の憤怒が、若い女の狂乱がシェスカにぶつけられる。
「よくもゆうしゃさまを! さっさとしんじゃえよ!」
「さいって! しんじられない!」
幼い男児と女児のつたない罵倒が飛んでくる。
「あぁ、魔女が二度も生まれるとは、神よ!」
「勇者様まで犠牲になってしまった……。我々はどうすればよいのですか」
年老いた老父と老婆が嘆き、滂沱の涙を流して崩れ落ちている。
老若男女問わず、負の感情のすべてがシェスカに集約している。肌を炙る激情の奔流に、身じろぎするシェスカの前に、フリーゲン王が立ちはだかる。
「こやつはシェスカ・フランシスカ! 魔女狩りのため魔女教に潜入し、見事に貢献を果たした大英雄であったが、すべてはまやかし! 誑かされ、自らが魔女に堕ちてしまった哀れなる悪魔だ! 我らが正義を示す勇者クリフ・アイルノーツも犠牲となってしまった。その無念を晴らすときだ!」
高らかに告げられるフリーゲン王の言葉に、民衆は雄叫びをもって賛同する。
多くの人々が自分を殺すことを正しいと信じ、殺意を向けている。義憤に駆られ、無知であることすら弁えずに喚く多数の民衆。あまりの愚かさに憎悪を抱くが、猿轡が施されては恨み言をぶちまけることも叶わない。
シェスカが縛られる十字架の基礎を築く薪に火が放たれる。紅蓮の業火が逆巻き、その身を焼かれんとするなかで、シェスカは運命を呪い、激しい痛みに蹂躙されながら呪文を唱えると同時に、
「なに突っ立ってんだよ、どけよ!」
という、がなり声がして押しのけられる。
「……いたっ」
予期しない痛みに呻き、尻餅をつくシェスカ。その衝撃によって呼吸することを思い出したシェスカは急いで酸素を吸い込み、目を開ける。
「ここは……?」
周辺に建ち並んでいたのは、煉瓦によって建築された家々であり、同じく煉瓦によって舗装された大通りに、シェスカは座り込んでいた。
無論、大通りゆえに往来する人々も多い。道の真ん中で座るシェスカに好奇の視線が浴びせられ、苛立たしそうな舌打ちまで寄越される。
ひとまず、ここから離れよう。
遅まきながらにそう判断したシェスカが中腰になった瞬間に、からんと何かが落ちる。みやると、それはマーゴット夫妻が贈った懐中時計であり、咄嗟に拾い上げようとしたシェスカは絶句する。
なぜなら、壊れて動かなかったはずの懐中時計が新品同様に戻り、秒針が進んでいたからだ。更に、妙な点はそこだけには収まらない。懐中時計に表示される日時は――
「……十五年前になってる?」
理解がまるで及ばない。
誰かこの事態に説明をつけてくれる存在はいないのかと、探すように視線を巡らせるシェスカが見つけたものは、こちらをじっと見詰めてくる野良猫だった。
「あ、ま……まって!」
目が合うや否や、足早に去っていく野良猫。訳もわからず、何処にいるかも判然としない場所に放置されるシェスカは、その心細さから野良猫を追いかける。
煉瓦造りの家の間を通り抜け、陽射しの差さない路地裏に降り立つ。散乱するゴミを踏み越え、ぬかるんだ泥に転びそうになりながらも、野良猫のあとを辿る。
しかし、捕まえることはできない。それどころか、姿すら見失ってしまい、見知らぬ路地裏にシェスカが迷い込んでしまったときだった。
「お、なか……。おなか、へった」
か細く、消え入りそうな声とともにみっともなく鳴く腹の虫に振り返ると、シェスカは息を呑む。
そこには、少女が地べたを這いずっていた。小柄で細い体躯を懸命に動かして、土埃に汚れた白銀の髪を引きずって。ぺたぺたと至るところに手を伸ばし、腐りかけたクダの実を食べる。
そして、その不味さに歪む顔には――瞳が、なかった。
「あ、あぁ……あぁあ!?」
言葉にならない悲鳴が込み上げる。
すぐに駆け寄ろうとするが、段差に躓いて転倒してしまう。顎をしたたかにぶつけ、鈍痛が脳味噌を揺さぶるが、構うことはない。少女と同じように這って、近づく。
「あなた……アルテイシアさま、よね? アルテイシア・ガゼル」
「? そうだ、けど。どーして、あたしのことを知ってるの?」
「……そっか、そっか」
自分が何処にいるのか、シェスカはようやくわかった。
勇者を討ち、戦闘の疲労から気絶してしまったシェスカは身柄を捕縛された。そのまま魔女として火刑に処されようとするなか、憎悪を胸に呪文を唱えた。
アルテイシアから授かった魔術は凍結したものを操作する能力を有していて、それは氷雪に限らず概念をも含むという。現に、アルテイシアは壊れた懐中時計に刻まれた記憶を読み取るといった芸当をしてみせた。
ならば、凍り付いた時間をも溶かし、超越したって不思議ではないのかもしれない。つまり、自分がいるのは――過去だ。
「魔術というのは、とんでもない代物ね」
「まじゅつ?」
「いえ、気にしないで。私はシェスカ・フランシスカ。訳あって、あなたを助けにきたの」
「あたしを……たすけに?」
「えぇ。正確には、あなただけじゃない。あなたみたいな人や、世界そのものを助けにきたの」
「世界を、たすけに? それってもしかして、勇者様ってこと!?」
曇りきっていた少女の表情が一転して明るくなる。本来なら瞳を収める眼窩は、眼球がくり抜かれてしまっているために黒い闇に満ちているが、それでも星々のような光が散らばっている気がして。
シェスカは微笑んで、かぶりを振る。
「そうよね……この世界にはまだ、勇者はいないんだもんね」
「まだいない? じゃあおねーさんは、だれなの?」
「私は何者でもない。シェスカ・フランシスカでしかない。けれど、世界を救うなら勇者でもなんでもなってみせる」
少女――幼き頃のアルテイシアの瘦せこけた頬を撫でる。
瞳を奪われ、流れた血によって刻まれる赤い汚れを拭き取って、シェスカはアルテイシアの眼前に掌をかざす。
目元に感じる仄かな体温に首を傾げるアルテイシアに、シェスカは誓う。
「いまから、あなたの光を戻す。アルテイシア……これからあなたが視る世界は、どんな経歴や特徴、個性がある人であっても楽しく笑い、幸せに暮らすような……オーロラみたいな世界。私が絶対にそのオーロラを、創ってみせるから」
息を吸う。瞼を下ろし、魔力を練る。身体の内側で荒れ狂う熱を高め、シェスカは呪文――ではなく、祈りを口にする。
「いたいのいたいの、とんでゆけ」




