失踪した婚約者が、別の姿になって現れました
12000字くらいの短編です!
私の婚約者が、忽然と姿を消した。
三日前までは顔を合わせていたし、行方不明になるようなそぶりも前兆もなかった。
当然だ。私の婚約者は我が国の王太子、ライオネル殿下である。
彼が行方不明になることは、すなわち国の危機。
箝口令が敷かれているため、彼が姿を消したことはごくごく近い者にしか知らされていない。
心当たりのある場所は全て探したが見つからず、五歳の頃からライオネル殿下と婚約している私――エレナ・ノイバウアーに白羽の矢が立った。彼の行方について何か知っていることはないかと確認するため、ライオネル殿下の側近のウェスリーから呼び出されたのだ。
「私がライオネル殿下に最後にお会いしたのは、三日前の夕方です。その後のことは存じ上げません」
「外出の予定や、出かけるそぶりなどはありませんでしたか?」
「ええ。ライオネル殿下が私に個人的なお話をなさることはありませんわ。殿下と私が犬猿の仲であることは、ウェスリー様もよくご存じのはずですが」
「しかし……」
私は知っている。ライオネル殿下と側近のウェスリーが、私のことをよく思っていないことを。
巷では氷の令嬢と呼ばれるほど、冷たくて愛想がない私。長所と言えば学問が得意なところくらいで、ライオネル殿下にとって私は、面白味も何もない、ただのお飾りのような女だ。
いや、もはや女としてすら見られていないかもしれない。
「週明けには正式に殿下と私の結婚式の日取りが決まりますでしょう? 殿下はそれが嫌で逃げ出したのではないですか?」
「……そんな訳がないでしょう! ライオネル殿下はエレナ嬢とのご結婚を楽しみになさってました」
「見え透いた嘘は面白くありませんわよ。とにかく、私からこれ以上お伝えできることはございませんので。私との婚約解消をなさりたいなら、正式に我がノイバウアー侯爵家に申し入れてくだされば結構よ」
何も言えずに立ち尽くしているウェスリーを置いて、私は部屋を出た。
王城裏の庭園には、まさか王太子失踪事件が現在進行中だとは思えないほど、うららかな春の日差しがふりそそいでいる。
(どうせ、すぐに出てくるわよ)
ライオネル王太子殿下は優秀で常識的な人間だ。「結婚が嫌で逃げ出したのではないか」なんてウェスリーに嫌味は言ったが、殿下がご自分の感情に任せて無責任に逃げ出すような方ではないことは、私が一番よく知っている。
ただ、彼には少々自由奔放な面もあるから、時々こうして周囲の想定を飛び越えた行動を起こすことがある。今回だってそんなに心配しなくても、放っておけばそのうちフラッと戻ってくるだろう。
(振り回されるのも馬鹿らしいわ。私は私のできることを、いつも通りやるだけ)
私はいつものように、王城の庭園を抜け、裏手にある図書館にやってきた。
人気のない図書館の一番奥の部屋に籠り、未来の王太子妃として恥ずかしくないように勉強するのが私の日課だ。
「さて、今日も始めますか」
書棚の奥に隠していた袋を出してきて、ドスンと机の上に載せる。
その中から私が取り出したのは、眼鏡、前髪を止めておくための極太ヘアバンド、そして耳栓。
私のガリ勉三点セットだ。
まずヘアバンドをつけて前髪が顔にかからないようにしっかりと留め、度数の高い瓶底メガネを装着。そして最後に両耳に耳栓。
誰も見ていないのをいいことに、椅子の上に胡坐をかいて、ガリガリとペンを走らせた。
◆
物心ついた頃には、既に私はライオネル王太子殿下と婚約していた。
金髪に青い瞳、いつも優しそうに微笑む一つ年上のライオネル殿下は、幼い私にとっての憧れの人。まるで童話に出てくる王子様のように思えて、いつもライオネル殿下に付きまとっていたものだ。
しかし、そんな良い時期は長く続かなかった。
乗馬にダンス、外国語やマナーの勉強。
未来の王太子妃として学ぶべきことはたくさんあって、王城に通って妃教育を受ける日々が始まった。
器用になんでも上手くこなすライオネル殿下とは違い、私は何をやっても落ちこぼれ。殿下に遅れを取るまいと頑張ったが、差は開いていくばかりだった。
精神的に追い詰められて、大好きだったライオネル殿下は遠い存在となり、どうしようもなくなった頃。私は一度だけ、その日のレッスンから逃げ出した。
城の裏にある門からこっそりと抜け出し、森の中に逃げ込んだのだ。途中で見つけた大木の下でうずくまり、めそめそと泣いていた私が出会ったのは、一人の見知らぬ若い青年だった。
「エレナ。君はまだ子供なんだから、そんなに気負わなくていい、婚約者のことを大切に思っているなら、その気持ちだけで大丈夫だと思うよ」
「そうなの? 私はライオネル殿下のことが大好きだったけど、殿下は馬鹿で不器用な私のことが好きじゃないみたい」
「そんなことは気にしなくていい。あ、そうだ! 乗馬もダンスも外国語も、全て完璧にできなくたっていいじゃないか。何か一つだけ頑張ってみるっていうのはどうかな?」
「一つだけ?」
「そうだ。何か一つでも得意なことができれば、それが君の自信になる。そうすれば、他のことだって頑張れるようになるかもしれないよ」
「……うん。じゃあ私、お勉強頑張ってみる」
その青年に付き添われて城の門の前まで戻った頃には、もう夜もとっぷりと更けていた。
いなくなった私のことを捜そうとしてくれていたのか、ライオネル殿下の方も私と同じく行方不明になっていたらしい。
「ライオネル殿下、逃げ出して申し訳ありませんでした」
「……ふんっ、もう逃げるなよ!」
殿下が私に怒って背中を向けたのを、今でも鮮明に覚えている。
それからも殿下と私の距離は離れていくばかりで、ついには犬猿の仲と言われるまでになってしまった。
森の中で出会った見知らぬ青年から言われたことを信じて、私はあの頃から毎日のように、こうして図書館に籠って勉強するようになった。
この時間だけは、ライオネル殿下のことは考えないと決めている。
私は私の好きな勉強をする。それだけだ。
毎日図書館に籠って勉強し、新しい知識を身に付けたことで、私は少しずつ自信を取り戻していった。
瓶底メガネ姿で、前髪をヘアバンドでオールバックにし、胡坐をかいて座る姿は、王太子妃としてはあるまじき下品な格好だ。
でもこの場所は、私が誰の目も気にせず、私でいられる大切な場所。
中から鍵をかければ誰も入って来られない。吹き抜けになった二階からは見えてしまうが、二階は王族以外立ち入り禁止の場所になっているから、余程のことがないと人は入らない。
つまり、この場所はほぼ密室のようなもの。
王太子妃らしからぬ格好でいたって、誰からも咎められないのだ。
「……い」
「……」
「……おい!」
「……ん? 今、何か聞こえた? この図書館に誰かがいるはずないのに」
「おい!! ここだ! 何度もお前に話しかけている!」
「は!? なんですか!? 誰なの!?」
「声がっ……!! デカい!!」
甲高い子供のような声に反応して返事をすると、「声がデカい」と叱られてしまった。
そう言えば、今私は耳栓をしているのだった。自分の声まで聞こえづらくて、つい大声で返事をしてしまったことに気が付き、私は慌てて耳栓を取り外す。
「失礼しました。どなたですか? 私はエレナ・ノイバウアーと申します」
「エレ……ナ……だと?」
声の主は、どうやら吹き抜けの二階にいるらしい。人影だけがゆらゆらと動いているのが見えた。
(おかしいわ。二階は王族じゃないと入れないはずよ)
しばらく上を見上げていると、手すりの影からちょこんと可愛らしい子供の顔がこちらを覗き込んできた。
「お前は、エレナなのか?」
「……はい、エレナ・ノイバウアーですが。貴方様は? どうやって二階に昇られたんです?」
「知らん! 気が付いたらここにいたのだ!」
流れるように悪態をつくのは、年端もいかぬ幼い少年。
金髪に青い瞳が、ライオネル殿下によく似ている。
(いえ、似ているというよりもむしろ……)
まるでその少年は、幼い頃のライオネル殿下そのものだった。服装だって見覚えがある。殿下が気に入ってよくお召しになっていたブルーの服だ。
◆
「……で? 貴方様はライオネル王太子殿下ご本人だと。そう仰るのですね」
「そうだ!」
「なぜそんなお姿に? どこからどう見ても子供に見えますが」
「お前こそおかしいだろう! エレナはまだ五歳のはずだ。そんな大人になって、しかもその瓶底メガネと前髪はどうした!」
「……はっ!!」
ああ、油断していた。
この図書館ではいつも誰にも見られないのをいいことに、瓶底メガネと前髪オールバックで過ごしていたのだった。慌てて眼鏡とヘアバンドを外したが、前髪には既に癖がついていて、そのまま空高くそびえ立っている。
「……どうやら俺は、時を越えて未来にやって来てしまったようだな」
「そんなことありますか? もしかして貴方様はライオネル殿下ご本人ではなく、殿下の隠し子なのでは……っ!」
「隠し子とは失礼な! 私はライオネル本人だ。母から聞いたことがある。王城裏の森に住む魔女は、時を超える魔法を使えるのだという」
「森に住む魔女……?」
目の前にいるチビ殿下の言うことも、あながち嘘ではなさそうだ。
見た目は子供の頃のライオネル殿下そっくりであるし、どうやらこの子は十九歳になった私のことを初めて見たようである。
森に住むという魔女が本当に実在するのなら、チビ殿下がその魔女の力を使って、未来の世界に飛んできたということもあり得るのではないだろうか。
犬猿の仲であるライオネル殿下とは最近ほとんど会話らしい会話もなかったのだが、このチビ殿下と喋っていると昔の殿下と喋っているような、懐かしさを感じる。
「殿下。とりあえず、森の魔女のところに行ってみますか?」
「そうだな。早く元の世界に戻らねばならない。急ぎ、森に案内しろ」
「……小さな子供のくせに、随分と上から目線ですね」
「前髪がそびえたっている者に言われたくはない!」
「ヘアバンドを取ったばかりですから、この前髪はすぐに落ち着きます」
どうでもいい会話をしながら、私とチビ殿下は二人並んで森に向かった。
……はずが、森に入ったところでふと気が付くと、ライオネル殿下の姿がない。
「あら、殿下? どこに行かれたのです?」
すると、遠く後ろの方から、殿下の甲高い声が響いてきた。
「エレナ! 歩くのが速すぎる!」
「あら、失礼致しました。ライオネル殿下の足が、私の想像以上に短かったようですわ」
「ふざけるな! 大人になったら、お前に俺の長い足を見せつけてやるからな」
「ええ、それでは楽しみにお待ちしています。今は急いでおりますので、殿下を抱っこして差し上げますわね」
「抱っこか……まあ、許す」
しょうもない口論の末、素直に私の抱っこを受け入れた殿下と共に、私たちは森の奥まで進む。しばらく歩いたところに、殿下の言う通り古い小屋があって、中には明かりが灯っていた。
「ライオネル殿下、魔女の家に着きましたわよ」
「……」
返事がないので顔を覗いてみると、殿下はすっかり私の腕の中で眠りこけてしまっている。
(眠くて機嫌が悪かったのね。やっぱり子供だわ)
先ほどのふてぶてしい態度とは真逆の可愛い寝顔に、私の口からはクスっと笑いが漏れた。
◆
「失礼いたします。どなたかいらっしゃいますか?」
チビ殿下を抱えたまま足で扉を開け、小屋の中に向かって呼びかけた。
足で扉を開けるなど、未来の王太子妃としては言語道断の行為である。でも、今周囲にはチビ殿下しかいないし、殿下を抱っこしているせいで両手が塞がっているのだから仕方がない。
「はーい、どなたですか?」
私の声を聞いて小屋の奥から出て来たのは、若い女性だった。黒一色のケープを肩から掛けているが、その服装を除けば魔女らしさはあまり感じられない。
「私はエレナ・ノイバウアーと申します。こちらに魔女が住んでいると聞いたのですが」
「あっ、すみません! いつもの魔女は非番なので、今日は私が」
「魔女に非番とかあるんですの?」
どこからどう見ても頼りなさそうな少女だが、仕方がない。そろそろライオネル殿下の重さで腕にも限界がきそうだ。
私は代理魔女が準備してくれた椅子に腰かけ、眠っているライオネル殿下を膝の上で抱き直した。
「エレナ様は、ライオネル王太子殿下の婚約者の方ですよね? ライオネル様からご依頼のあった時の魔法の件は、ちゃんと非番の魔女から引継ぎを受けております!」
「……! では、やはり殿下が魔女に頼んで時を操ったということですのね?」
「はい、そうです! ややこしいのですが、二十歳のライオネル殿下が、六歳のライオネル殿下と、入れ替わったような感じになっております!」
「そんな簡単に言うけれど……もう少し詳しく説明してくれるかしら?」
魔女によると、今回の事の顛末はこうだった。
二十歳のライオネル殿下が三日前の夜にこの小屋を訪れ、魔女に時の魔法を使うように頼んだ。殿下は十四年前――殿下がまだ六歳の頃の世界に戻ることを希望した。
しかし時の魔法では、同じ世界に同じ人物が存在することは許されない。
「だから、六歳のライオネル殿下と入れ替わったんですよ」
「つまり、二十歳のライオネル殿下が十四年前に戻るのと引き換えに、その世界に生きていた六歳の殿下が、代わりにこちらの世界にやってきたと? では、殿下はこのままずっと子供のままなのですか?」
それは色々と困る。
王城では今も側近たちが血眼になって二十歳の殿下を捜しているし、こんな六歳の子が王太子とあっては、今進めている王太子としての公務も立ち行かなくなるだろう。
(それに、私との婚約も解消されるわよね)
いくらなんでも、六歳の王太子殿下の婚約者が十九歳の自分では、全く釣り合わない。
先ほどは殿下の側近のウェスリーに対して「婚約解消したいならノイバウアー侯爵家に申し入れをしてくれ」なんて伝えてしまったが、私の本当の気持ちはそうじゃない。
落ちこぼれ婚約者ではあったが、勉強だけは誰にも負けないようにと努力してきた。前年度にアカデミーの首席で卒業したライオネル殿下と同じように、私も首席で卒業を迎えることができたのは、ライオネル殿下の隣に立った時に、少しでも恥ずかしくない相手でありたかったからだ。
「エレナ様、落ち着いてください。何もライオネル殿下もずっと入れ替わっているおつもりではないですよ。そもそも時の魔法はそんなに長く持ちません」
「では、殿下はこちらに戻られるのね?」
「はい! 引継ぎ書にも、ちゃんとそう書いてありました。だから落ち着いてゆっくり待ちましょう。お茶でも淹れますね!」
明るい若い代理魔女のおかげで、少し気が紛れた気がする。
彼女が出て行って静まり返った部屋の中には、六歳のチビ殿下の寝息がすうすうと響いた。
(こうしてみると、本当に無邪気で可愛らしいのね)
口を開けてうっすらヨダレを垂らしている殿下の顔を見ていると、つい顔がほころぶ。
「六歳の殿下と出会って、久しぶりに笑った気がするわ」
子供の頃は、私も殿下ももう少し素直で言いたいことを言い合えていたはずなのに、いつからすれ違うようになってしまったのだろうか。
氷の令嬢と呼ばれるほどに、笑顔を忘れてしまったのはいつからだろうか。
二十歳の殿下と最後に会った、三日前の夜もそうだった。
長い婚約期間を経て、いよいよ来週には私たちの正式な結婚の日取りが決まる。ライオネル殿下と共に、その手続きや段取りの説明を聞き終わり、私が帰路に着こうとした時。
ライオネル殿下は私を馬車まで見送って、最後に言った。
『私と結婚したくないなら、婚約解消のチャンスは数日しかないぞ――』と。
(そんな酷い言葉を聞いても涙の一つも出ないくらい、強くて可愛くない女に育ってしまったけどね)
殿下の言葉に顔色一つ変えず、私も彼に冷たくお返事してあげたのだ。
『乗馬もダンスも学問も、何一つライオネル殿下に敵わない、不出来な婚約者で失礼致しました。できることなら子供の頃の、殿下と婚約する前に戻って人生をやり直したいですわ』
胸の上のチビ殿下の前髪を撫でて耳にかけながら、私はふうとため息をついた。
私があんなことを言ったから、ライオネル殿下は過去に戻り、私との結婚をなかったことにしてくるつもりだろうか。
過去が変われば、今、私たちが生きているこの世界の結末も変わるのだろうか。
「やっぱり、婚約解消するしかないの?」
呟いた私の声を聞き、チビ殿下がもぞもぞと体を捩る。そろそろお昼寝も終わりの時間のようだ。
◆
「殿下、お目覚めですか。私のドレスにヨダレをつけないで下さいませ」
「……う……ん? あ?」
ゴシゴシと目をこすりながら、殿下が体を起こす。
私の膝から落ちないように、殿下の両脇に手を入れて抱き直そうとすると、正面で真っすぐにチビ殿下と目線が合った。
きょとんとした青い瞳が、途端に困惑の色を浮かべる。
「……エレナ?」
「ぷっ! 殿下ったら、頬に私のドレスの跡が付いてますわよ!」
私が笑いながらライオネル殿下の頬に手を伸ばすと、彼はその手を払って体を仰け反らせた。
(危ない!)
膝の上から落ちそうになった殿下の頭に手を添えると、私もバランスを崩して椅子から転げ落ちる。二人して床の上に倒れ込んだが、ちゃんと私が下になり、殿下は頭を打たずに済んだ。
「殿下! 急に動いたら危ないですわ」
「君は何をしているんだ!」
「何を……って、お昼寝中の殿下を膝の上で抱っこしていただけです」
「ふっ、ふざけるな!」
私の体の上でジタバタと暴れ、チビ殿下はなんとか床の上に立ち上がった。
お昼寝前も相当生意気だったが、更に生意気度が増幅した感じがする。
「お待たせしました! お茶を淹れてきました……って、ライオネル殿下、お戻りになられたのですね!」
「おい、魔女! これはどういうことだ! なぜここにエレナがいる?」
(お戻りになられたって、どういう意味なの?)
六歳のチビ殿下は、先ほどまでと同じ甲高い子供の声で、魔女に喰ってかかっている。
「なぜって、殿下が時の魔法であちらの世界に行っている間、エレナ様は入れ替わった六歳の殿下をお世話なさっていたのですよ」
「……世話だと?」
話の流れについていけない私の様子を察したのか、若い魔女は床に座り込んでいた私に手を貸して、椅子に座らせた。
「エレナ様、どうやらライオネル殿下がお戻りになられたようです。とりあえず、心だけ」
「心だけ? では、体は六歳の殿下だけど、中身は二十歳の殿下ということ?」
「そうです! 時の魔法はとても難しいですから、完璧にはできないことがあります。体と心が同時に戻ってこられれば良かったのですが」
「そんな……! では、殿下は一生このまま?」
「引継ぎ書を見ますね。きっと大丈夫……だと思います」
「なんと曖昧ですこと」
にこやかなのは若い魔女だけで、チビ殿下は顔を真っ赤にして不機嫌そうだ。
引き継ぎ書を確認するために魔女はもう一度小屋の奥の部屋に戻り、その場には私と殿下だけが残される。
「ライオネル殿下。時の魔法を使って、何をしに行かれたのですか?」
「君は知らなくていいことだ」
なるほど。先ほどまで私のことを『お前』と呼んでいたのに、今は『君』と呼んでいるのを見るに、二十歳の殿下の心だけが先に戻ってきたというのは事実のようだ。
そして、二十歳の殿下は、時の魔法を使った理由を私に説明するつもりはないらしい。
「私のような出来損ないの婚約者では、殿下のお力にはなれませんものね。無理に説明して欲しいとは申しませんわ」
「この体は、どうしたら戻るんだ」
「魔女が引き継ぎ書を確認しておりますから、慌てずお待ちください」
「しかし、週明けには私たちの結婚の準備が……」
「いっそ私はこのままでもよろしいですよ。私のような者と結婚するより、六歳の殿下に年齢の釣り合う方と婚約なさったらいかがでしょう?」
不機嫌なライオネル殿下に向けて、私の口から次々と思ってもみない嫌味が飛び出してくる。
「なぜ君はいつも、そう可愛げのないことをいうんだ」
「可愛げがなく申し訳ございません。殿下こそ、六歳の頃の方がお可愛らしかったですよ。お昼寝中にヨダレを垂らして、ほら、私のドレスが殿下のヨダレで汚れております」
「……っ、君が勝手に六歳の私を抱っこしたからだろう!? そもそも私という婚約者がありながら、いくら子供とはいえあんな近くで抱きかかえるなど……!」
「あら、私が抱っこしていたのは、殿下ご本人ですわよ」
「それはそうだが……」
言い争いをする私たちの側で、部屋に戻ってきた若い魔女があたふたとしている。しかし、私にはもうそんなことはどうでも良かった。
私たちが犬猿の仲であるということは誰でも知っている公然の秘密であり、今更私たちの喧嘩を人に見られたところで何も変わらない。
それに、幼いライオネル殿下に私のガリ勉姿を見られ、長年被ってきた「未来の王太子妃」という仮面にひびが入ったような気がしたのだ。
(もう、自分を偽って無理して生きるのは嫌)
「殿下、これも何かの運命だと思います。私との結婚は取りやめて、他の方をお探しください」
「ふざけるな。私と結婚しないのなら、君はこれからどうするつもりだ」
「それは殿下には関係のないこと」
「君は、学ぶのが好きだろう? アカデミーを首席で卒業するために、どれだけの努力を重ねてきたのか思い出してみろ。王太子妃になればいくらでも自分の好きなことができる環境があるというのに、なぜ逃げようとするんだ?」
「私よりも聡いご令嬢はたくさんいらっしゃいますわ」
「しかし、君ほどなりふり構わず必死に勉強するような者は他にいない」
「なりふり構わず、とは……どういう意味でしょう?」
瓶底メガネをかけて前髪をオールバックにし、椅子の上に胡坐をかいた、なりふり構わないガリ勉スタイルを見られた相手は、六歳のライオネル殿下だったはずだ。二十歳の殿下が私のその姿を知るわけがない。
(あの品のない格好を、殿下に見られてはいないはずよね?)
慌てる私を見て、殿下は鬼の首を取ったような顔でニヤリと笑う。
「君の瓶底メガネ、私は別に嫌いじゃない。前髪がそびえ立っている姿も悪くない」
「やっぱり私を見てらしたんじゃないですか! それに瓶底メガネがお好きとは、一体どういうご趣味ですか!?」
「少し考えたら分かるだろう? 私は時の魔法で十四年前に戻り、代わりに六歳だった私が先ほどまでこの場所にいた。つまり私自身も、十四年前に一度この場所に来たことがあるということだ」
「え……?」
(どういうこと?)
つまり、今、私の目の前にいる二十歳のライオネル殿下は、十四年前にも時の魔法にかかったということなのだろうか?
「昔、エレナが行方不明になったことがあっただろう?」
「ええ、五歳の頃ですわ。一度だけ妃教育を抜け出して、森に逃げたことがございます」
「確か、その日だった。私がエレナを捜していた時、突然意識が遠のくのを感じた。気が付くと王城裏の図書館の二階にいて、大人になった君と出会った」
「……!?」
私の頭の中で、ようやく話が繋がった。
ライオネル殿下は六歳の頃、妃教育から逃げ出した私を捜している時に、時の魔法にかかったのだ。二十歳のライオネル殿下が十四年前に戻ったことが原因で、六歳の殿下は十四年後の図書館に飛ばされた。
時の魔法では、同じ時代に同じ人物が存在することは許されないから。
そして六歳の殿下は、十九歳の私と出会った。
(……ということは、もしかして?)
腕を組んで踏ん反りかえっている殿下に、私は恐る恐る尋ねる。
「十四年前のあの日、私は森で若い男性に出会ったんです。何一つ上手くできなくて限界だった私に、声をかけてくれて」
『全て完璧にできなくたっていい、何か一つだけ頑張ってみるっていうのはどうかな?』
『何か一つでも得意なことができれば、それが君の自信になる。そうすれば、他のことだって頑張れるようになるかもしれないよ』
その青年にかけてもらった言葉で、五歳の私がどれだけ救われたことか。
王太子妃となる以上、苦手なレッスンから逃げ出すわけにはいかない。しかし、全てを完璧にこなさなければいけないと気負っていた私にとって、その青年からかけられた言葉は救いだった。
完璧を目指さなくてもいい。
自分の得意なことを伸ばしながら、気負わずやっていけばいい。
そう気持ちを切り替えられたからこそ、私は十九歳の今までライオネル殿下の婚約者としてなんとかやってこれたのだ。
「まさか、あの時出会った男性は、二十歳になった殿下だったと……?」
「ふん。やっと分かったか。君がおかしなことを口走るから、十四年前に戻って色々と調整してきたんだ。全く世話が焼ける」
「おかしなこと……とは? 私が何か申しましたか?」
「私と婚約する前に戻って、人生をやり直すとかなんとか言っていただろう! 君がそこまで思い詰めているとは知らなかった。だからはっきり伝えるために、十四年前に飛んだ」
チビ殿下は口を尖らせ、照れくさそうに私から目を逸らした。
(なんということ……)
あの時私を助けてくれたのが、まさか十四年後のライオネル殿下だったなんて。
長い時を経て初めて知る真実に、私の両目の奥がじんと熱くなる。
殿下に見られまいと思わず右手で口元を覆って下を向くが、そんな私を見てチビ殿下はぷっと吹き出した。
「やめろ、エレナ。下を向くと君の前髪が私に刺さる」
「は?」
そう言えば、先ほどまで一緒にいた六歳の殿下は、私がガリ勉スタイルで勉強していたところを二階から見ていた。
(ということは……)
「殿下は、ずっと昔から私のガリ勉姿をご存じで!?」
「ああ。君の瓶底メガネと前髪ビッグウェーブは、とっくの昔から知っているさ。六歳の頃に、十九歳の君と一度出会ったからな」
「ひどい……! なぜ教えてくださらなかったのですか?」
「声をかけられるわけがないだろう? 未来の王太子妃ともあろう者があんな姿で……ぶふっ!!」
「笑わないでください! 殿下だってヨダレたっぷり垂らしていたくせにとっても偉そうで、私の方が笑いたかったですわ!」
お互いに堪えられなくなり、私たちは声を上げて笑った。
私の横に腰かけた六歳の殿下の足は短くて小さくて、それもまた可笑しくて笑えてくる。
こうして二人で笑い合ったことなんて、いつぶりだろう。
氷の令嬢と言われていた私に笑顔を思い出させてくれたのが、時の魔法にかけられた六歳のライオネル殿下だなんて。
私は幼い頃に二十歳の殿下に救われ、そして今、六歳の殿下に再び救われたことになる。
「あの……もしかして二人だけの世界に陶酔してお忘れかもしれませんが、私もおります」
今まで静かに私たちの話を聞いていた魔女が、テーブルの向こうからこちらに寄ってきた。
そういえば、彼女は非番の魔女からの引き継ぎ書を確認しに行っていたのだ。時の魔法にかかったライオネル殿下の体が、この世界に戻ってくる方法は分かったのだろうか。
「魔女よ。どうしたら私の体は戻ってくるんだ?」
「引き継ぎ書によると、『放っておけば戻る』とのことです!」
「おい、ふざけるな。今すぐに戻してもらわないと困る」
「そんなことを言われましても……」
若い魔女はあたふたしながら、側にあった引き継ぎ書をパラパラとめくる。
放っておけば戻る――なんて、時の魔法は随分と適当なものだ。
「おい、早くしてくれ」
「うーん、ではとりあえず、魔法が解ける定番の方法を試しては?」
「定番の方法とは?」
「ほら、おとぎ話によくあるじゃないですか。王子様からお姫様へのキスで魔法が解けるって」
魔女の思わぬ提案に、チビ殿下は椅子から転げ落ちる。
殿下の体を支えようと咄嗟に伸ばした私の手をはねのけて、殿下はますます顔を赤らめた。
「キスだと……!? もっと、他の手はないのか! もう少しコンプライアンス的に問題ない方法は」
「だから、放っておけばそのうち戻るって言ってるじゃないですか……」
「このポンコツ魔女め!」
なぜか喧嘩腰の殿下をなだめるように、私は彼の肩に両手を置いた。
「殿下、焦っても仕方がありません。一度図書館に戻りませんか? 時の魔法で飛ばされた場所に行けば、元の世界に戻りやすくなるかも」
「……ふん、それもそうだな。このポンコツ魔女に頼るより、そっちの方がよほどマシだ」
どこまでも生意気なチビ殿下の手を引いて、私たちは外に出る。
もう既に陽は落ちて、森の中は薄暗い。チビ殿下が躓いたりしないよう、私たちは手をつないでゆっくりと並んで歩いた。
「殿下は、私のために時の魔法を使って十四年前に戻ってくださったのですか?」
「それは……君のためというよりは、私のためでもある」
「……?」
「私と婚約してからというもの、君はほとんど笑わなくなった。このまま私と結婚したら、君が一生つらい思いをするだろうと思った」
「まあ」
「私は君に笑って欲しかったんだ。だから今日は、時の魔法を使って良かったと思ってる」
「殿下……」
十四年前に出会った二十歳の殿下も、そんな気持ちで私に会いにきてくれていたのだろうか。
五歳の私も、そして十九歳の私も、本当はこの生意気なライオネル殿下のことが大好きなのに、私はなぜ頑なになって殿下と張り合ってばかりいたのだろうか。
不器用で落ちこぼれの自分に嫌気が差していた。
全てが完璧じゃなくたっていい――そう考えるようになって立ち直ったけれど、やっぱり心のどこかでは、自分がライオネル殿下にふさわしくないのではないかと不安だった。
その不安な気持ちを隠すために、私は笑顔まで隠して自分を偽ってきたのかもしれない。
(殿下は私に笑って欲しかっただけなのね。そんな簡単なことに、どうして私は気が付かなかったの)
「殿下。時の魔法を使って出会った五歳の私は、殿下に申し上げましたでしょう? 『ライオネル殿下のことが大好き』って。その気持ちは今も変わりませんわ」
「ふ、ふん! 当然だ。私のどこに嫌われる要素があるというんだ」
六歳の殿下の声が、少し低くなった。
「それに、先ほど六歳の殿下と出会ってから、私はずっと笑いっぱなしです。だって足は短いしヨダレは垂らすし、歩くのに疲れて素直に私に抱っこされる姿も可笑しくて」
「……そうだろう。君はずっとそうやって笑っていたらいい。いくら私が王太子だからと言って、何もかも完璧であるはずがない。時にはヨダレも垂らす」
「そうですわね。結婚したら、殿下が無防備にヨダレを垂らす姿をもっと見られるかもしれませんわ」
私がくすっと笑うと、殿下の背丈が少し高くなった。
「王太子が完璧じゃないんだ。王太子妃だって完璧じゃなくていい。これからは絶対に、自分のことを出来損ないなどと言うな」
「はい、承知しました。ありがとうございます」
いつの間にかすっかり二十歳の姿に戻ったライオネル殿下は、繋いだ私の手をしっかりと握り直す。月明かりに照らされた彼の顔は、私と同じように優しい笑顔になっていた。
歩を止めて私の方に体を向け、殿下は繋いでいない方の手で私の前髪を撫でる。
「元の姿に戻ったから、そろそろ問題ないだろう」
「そうですわね」
十四年の時を経てようやく素直になった私たちは、もう魔法を解く必要もないはずなのに、月夜の下で唇を重ねた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
★評価入れて頂けたら嬉しいです!
書籍・コミカライズなど商業作品情報は、活動報告などからぜひご覧ください。