まだらの紐
【登場人物/レギュラー】
澤口新之介 本編の主人公 三十五歳
浅草橋のたもとで骨董屋「嘉月堂」を営む。士族出身だが、親とは絶縁
藤奴 新之介の古馴染み。実は妖狐。年齢不詳。外見は二十代後半。
菱美隆太郎 新之助のパトロン 六十五歳 大財閥の総帥
大の骨董好き。
有賀直人 隆太郎の執事 二十八歳 極めて有能で美形。
ただし、新之介のようなぐうたらに対しては容赦がない。
【登場人物/第一話】
大島たえ 十八歳 没落した旗本、大島玄蕃の娘。
永井左京 二十二歳 旗本永井家の長男 大島たえの婚約者
お清 三十五歳 大島家に仕える女中
時は大正。浅草橋のたもとに、その骨董屋はあった。屋号は「嘉月堂」。猫の額のような狭い店内には、掛け軸や茶碗、壺などが雑多に並べられ、土間からの上がり口の板の間に、主の澤口新之介が、江戸小紋の着流しで寝そべっている。
一時間たとうが二時間たとうが、客の入ってくる気配はない。まだ昼間だというのに、店の隅ではコオロギが鳴き始め、新之介は時々あくびをかみ殺しながら、剃り残したあご鬚を引き抜いている。年のころは三十代の半ばというところ。なぜこんな店がつぶれないのかと近所の人々が不思議がるのも無理はない。
やがて、つるべ落としの秋の日が沈みかけ、未舗装の土道の至る所に古釘でいたずら書きをしていた子供らが姿を消した頃、一台の人力車が店の前で止まった。梶棒が下げられて俥を降りてきたのは、黒留袖を着て髪を島田つぶしに結い上げた年若い芸者だった。
「若様、新之介様、いらっしゃいますか?」
「やあ、藤奴、これからお座敷かい?」
「ええ、日本橋の呉服屋の旦那衆の寄り合いにちょっと……。ねえ、若様、今夜こそうちに寄ってくださいね。せっかく早上がりなんだから。灘の生一本、お浸けしますよ」
「そりゃありがたいが、俺ももう三十五だ。若様は勘弁してくれよ」
「大殿様のご恩に与った身としては、新之介様はいくつにおなりになっても若様ですよ」
「それならなおのことだ。澤口の跡取りは弟の朔ノ進、俺は親父から勘当された身なんだからな」
「もう、お二人とも頑固なんだから……」
藤奴がため息まじりにそうつぶやいた時、店の間で待機していた俥屋が声をかけてきた。
「姐さん、そろそろ出ないと」
「今行くわ、ありがとう。じゃ新之介様、きっとですよ。お待ちしてますからね」
藤奴はそう言い置くと、鮮やかな裾さばきで俥に乗り込んだ。
「慎さん、お待たせ。悪いけど、少し急いでおくれ」
「へい」
最近贔屓にしている若者が引く俥は、すべるように走り出すと、次第に速度を増して走り去った。苦学生だそうだが、講道館で柔道を学んでいるというだけあって、なかなか腰が決まっている。
近所の人々にとって、柳橋一の売れっ妓の藤奴が新之介に惚れこんでいることは、この店が潰れずにいること以上に不思議なことだろう。実を言うと、藤奴の正体は妖狐だ。本当の年齢は誰も知らない。新之介にもの心がついた頃には、すでに現在と同じ容姿をしていた。当時名乗っていた名は玉緒、もっとも、それも本名かどうかはわからない。
五年前、新之介がこの店を開くと、彼女も後を追うようにこの地に移り住んで、柳橋の芸妓になった。非の打ち所がない妖艶な美貌に加えて、唄、三味線、踊りも一級品で、一番人気となるのに一年とかからなかった。特に、持ち前の美声と技巧を凝らした三味線が堪能できる清元は絶品だと評判で、自分の宴席でこれを披露してもらうことは、芸のわかる上客と認められた証だとして、常連たちのステータスシンボルになっているらしい。今日は早あがりだということは、その詫びとして旦那衆の前で清元を披露して、宴席を抜ける心づもりなのだろう。
※清元 江戸浄瑠璃の一派
藤奴の人力車と入れ替わるように、馬の蹄の音が響いて、黒光りした馬車が店の前で止まった。降りてきたのは、屈指の財閥「菱美」の総帥、菱美隆太郎に仕える敏腕の執事、有賀直人だった。牛革の鞄が書類で膨らんでいる。主人の名代で様々な交渉をこなしてきた帰りだろう。命じられた用事の最後の最後が、一番どうでもいい嘉月堂の訪問というわけだ。
「やあ。有賀君、相変わらず忙しそうだね」
「そちらは相変わらず暇そうだな」
「うらやましいかい? いや、ワーカホリックな君のことだ、そんなはずはないか……」
「無駄口はいい」
有賀は凍てついたような表情のままで、小さくたたまれた紙片を新之介に差し出した。紙片には二日後、十月十四日午後二時という日時と、日本橋「丸越」四階特設会場という場所だけが記されている。
「またオークションか、好きだねえ、あの爺さんも……」
「おい、口を慎め。商才のかけらもない貴様が店を続けられているのは、一体どなたのお陰だと思っているんだ」
有賀は三白眼の射るような視線を新之介に向けた。
「おっと口が滑っただけさ。そう熅りなさんな。今のは無しってことで頼むよ。ただ、ひとつだけ言っておくが、別に俺は誰にでもできる仕事を恵んでもらっているわけじゃないんだぜ」
「ふん、少しばかり目をかけられているからって、調子に乗るなよ」
「調子に乗ってなんかいないさ。とにかく、俺はあのご仁のことを馬鹿にしているわけでも、もちろん嫌っているわけでもない。むしろ、親愛の情を抱いているんだよ。純粋に骨董が好きだし、見る目もある。名品がこれ以上海外に流出しないようにと、保護運動の先陣まで切ったんだからな」
「まあいい、会場と日時は伝えた。遅れるなよ」
有賀はそれだけ言うと、新之介の返事も待たずに踵を返し、すでに夕闇に包まれていた黒檀の馬車に乗り込んだ。
十月十四日の午後、新之介はオークション会場の最後方の柱にもたれて、丸越百貨店の職員が手際よく準備を進める様子を眺めていた。細身のズボンを履いて黒いフロックコートを纏った姿は、嘉月堂の板の間に寝そべっていた人物とは全くの別人にしか見えない。洋装だと身体のラインがより鮮明で、武道で鍛え上げられた無駄のない体躯の持ち主であることがはっきりと見て取れる。藤奴がこの場にいたら、惚れ直したと言って小躍りしたことだろう。
すでに開始時刻まで十分を切っていて、参加者のほとんどが席についていた。紋付袴姿の菱美隆太郎も、最前列に陣取っている。年齢は六十五歳。オールバックにした頭髪は、完全に銀色だが豊かで艶も良い。同様に銀色の口髭とあご鬚さえ剃れば、実年齢より十歳は若く見えるだろう。
やがて、モーニングコートを着た進行役が懐中時計で時刻を確認し、オークションの開始を告げた。最初の売り立て品は江戸前期の御用絵師、狩野常信の屏風絵だった。真作で見栄えはいいが、それだけのものだ。隆太郎翁が触手を伸ばすことはないだろう。もっとも、新之介の役割は真贋や値打ちを見極めることではない。彼は骨董にまつわる因縁の良し悪しを見分ける特殊能力の持ち主なのだ。
骨董というものは、名品であればあるほど様々な因縁を持つ。彼にはその因縁が、品物にまとわりついている紐のようなものとして見えるのだ。その紐は良縁は悪縁かで色が違っている。白や金色は良縁、黒や暗紫色は悪縁だ。菱美のような大財閥にとって、総帥が悪縁の品物を保有するなどというのは由々しき事態であり、絶対に回避しなければならない。そこで、菱美隆太郎がオークションに参加する時には必ず新之介が同行し、悪縁の品物を入手しないように助言することになっているのだ。
前半の九品目の中で、白い紐が見えたものは一つ、黒い紐が見えたものはなかった。白い紐も黒い紐も、二、三十品のうちに一つ見えるかどうかというところなので、出現のペースとしては通常通りと言えるだろう。九品目とも入札できたわけだが、隆太郎が関心を示すことはなかった。
やがて、この日一番の値打ちものであろう品物が登場し、足の高いテーブルの上に置かれた。
「目録番号十番、二代柿右衛門の濁手花鳥文花瓶。共箱はございませんが、出品に当たり、十一代柿右衛門様に極箱の箱書きをお願い致しました。では、開始価格は五百円でございます」
※共箱 作品の作成時にそれを入れるために作られた箱。
作者名、作品名などが記されている。これがないと骨董の値打ちは大幅に下がってしまう。
極箱 作者の後継者や親族、鑑定人が本人の作であると認定し、箱書をした箱。
評価は共箱と同等の扱いとなる。
指標がいろいろあって、現代の金額に換算するのは難しいが、五百万から七百五十万といったところだろうか。賃金が低い時代なので、公務員の給与などを指標にすると、さらに金額が跳ね上がることになる。
面倒な曰く因縁のない品であって欲しいものだと考えながら花瓶に目をやった新之介は、驚きのあまりに声を上げそうになるのをかろうじてこらえた。良縁の白い紐と悪縁の黒い紐の両方が、もつれあいながら花瓶にまとわりついていたのだ。
いつもの新之介なら即座に入札見送りの合図を送ったはずなのだが、あまりの逸品であることが、彼の判断を鈍らせた。
「八百五十」
「九百」
「千……」
瞬く間に価格が競り上がってゆく。
苛立ちを露わにした有賀の視線に気づいた新之介がステッキを下ろそうとした時、隆太郎が凄みのある野太い声で言った。
「二千」
水を打ったような静寂の後で、落札を告げる木槌の音が響き渡った。
「やっちまった……」
さらに険しさを増した有賀の視線に射られながら、新之介は天を仰いだ。
一時間半ほど後、新之介は隆太郎、有賀とともに、菱美家の屋敷に設えられた茶室にいた。床の間を背にした隆太郎は、腕組みをして胡坐をかき、じっと両眼を閉じている。
「で、確認するが、これが良縁の品か、悪縁の品か、判別できないと?」
有賀が正座した左膝を人差し指で叩きながら新之介に言った。
「何と言うか、両方の紐が絡みついているんですよ。こんな品は千に一つあるかどうかなんですがね……。まったく、問題ないと合図するまでは入札しない約束だったじゃないですか」と、新之介は床の間に置かれた例の花瓶に目をやりながら答えた。
「こんな名品、そうやすやすと諦められるわけないだろうが」と、隆太郎が目を閉じたままで言った。口調は荒いが、どこかばつが悪そうにも見える。
「とにかく、申し訳ありませんが、事業に支障をきたす危険性がある以上、この花瓶をお手元に置くことは見合わせていただかなくては」と、有賀はいつも通りの、穏やかだが冷静極まりない口調で言った。
「おい新之介、なんとかならんのか?」
「危ない橋を渡ることになるから、あまりやりたくはないですが、解決する手があることはあります。今回はこちらにも落ち度があるからなあ、やはりやるしかないですかね……」
「どうするんだ?」
「まあ待ってください。それにはある人の助けが要るんで、有賀氏に呼んでもらっていたんですが、どうやら着いたようだ」
新之介がそう言った時、お栄という女中頭が茶室の入り口で来客を告げた。
「あの、藤奴様とおっしゃる方がお見えですが……」
藤奴が三人の前に座って一礼すると、隆太郎が声をかけた。
「藤奴、久しいな」
「菱美の大旦那、ご無沙汰いたしました」
「そう言えば、新之介はお前の紹介だったな」
「はい。先程有賀様のお使いの方から、その新之介様が難儀を抱えておいでだとうかがいまして、こうして参上いたしました」
「急に呼び出して悪かったな。恩に着るよ」
「身にあまるお言葉、うれしゅうございます」と、藤奴は一瞬新之介の目を見つめて言った。これで一つ貸し、忘れないように、という意味だ。
「それで、さっき言っていた解決法というのは?」と隆太郎が尋ねた。
「ご承知の通り、この花瓶には良縁と悪縁、両方の紐が絡みついています。実を言うと、これはどちらとも定まっていない、ということなんです」
「それを定めることができると?」
「ええ。藤奴には、僕が見つけた紐を辿る特別な力がります。時をさかのぼって、どこまでも紐を辿ってゆくと、ついには良縁と悪縁の分岐点に到達する」
「そこで良縁になる選択をすれば良いと?」
「正確には、世界が二つに分かれるんです。僕と藤奴が良縁を選んだ世界と、僕らが何もせず、悪縁が生じた世界に」
「なるほど……」
「難しいのは帰りですね。下手をすると、僕らは元の時間に戻れなくなって、永遠に時の狭間をさまよい続けることになる。さまようと言っても、過去に向かった意識が、ということですが」
「残された身体はどうなるんだ?」
「うーん、そこは経験したことがないのでよくわかりません。別の意識が取って代わるのか、魂が抜けたように、呆けた状態に陥るのか……」
「なるほど、確かに危ない橋だな」
「幸い、今のところ、戻って来れなかったことはありません。きっと、藤奴の能力が高いんでしょう。それと、無事に戻れたとして、つながるのが良縁の世界とは限りません。良縁と悪縁、どちらの世界に戻るかは、経験から言って五分五分ですね」
「悪縁の世界のほうに戻ると?」
「問題ないという合図を送ったのに、なぜ悪縁の品だったのだと言って、お二人に締め上げられている場面に出くわすんでしょうね。特に有賀氏は容赦なさそうだな」
「仕方ないだろう、それが仕事なんだから」
有賀はぶれのない冷静な口調でそう言ったあとで、一言付け加えた。
「ただ、善後策とはいえ仕事はしてきているんだからな、同情はする」
「そりゃどうも。そうそう、良縁の世界に戻った場合、そこでは最初から花瓶は良縁の品だったことになっているから、僕らは過去には行っていないことになります。事実を知っているのは僕と藤奴だけ」
「わしと有賀は記憶が変わっていると?」
「ええ。こうして藤奴の秘密をお話ししても差し支えがないのもそのためです」
「何とも奇妙な話だな……」
新之介が語ったのは多元宇宙論の一つだが、この時代にはまだそのような理論を提唱した科学者は存在しない。自身の体験から、新之介が自力で真相に到達したのだろう。
「じゃあ藤奴、そろそろ始めようか?」
「はい」
新之介が声をかけた時、藤奴はすでに江戸紫の長袋から三味線を取り出して調弦を終えていた。
彼女が行なったのは清元や小唄、民謡などの、人々に馴染みのある旋律を奏でることではなく、二本の紐の反応を探りながらの完全な即興演奏だった。トリッキーな奏法で知られる津軽三味線でも、これほど高度で複雑な曲弾きのできる奏者はまずいないだろう。
「惜しいな。これほどの演奏を耳にしながら、それを覚えていられないとは……」
無念そうにつぶやく隆太郎に、藤奴は穏やかに微笑みながら声をかけた。
「いずれ何かの折に、あらためてお聴かせしますよ」
藤奴の呪力をこめた演奏の影響を受けた二本の紐は、次第に絡みつく力を弱めると、瓜科の植物の蔓のように、左右にうねうねと揺れながら難なく天井を通り抜けてどこまでも伸びていった。
やがて、紐が良縁と悪縁の分岐点に到達したことを感じ取ったのか、藤奴は演奏の手を休めて新之介に声をかけた。
「新之介様、では参りましょうか」
「ああ」
新之介がうなずき返した瞬間に、彼の意識は藤奴とともに時空を越えていた。
二人が到着したのは、小川町の旗本屋敷の前だった、二本の紐は上空から主屋の屋根を通り抜けて内部に入りこんでいる。その先に例の花瓶があるのだろう。
『今、形代をご用意しますからね』
藤奴は意識だけの存在となっている新之介に念話で話しかけると、懐から和紙で作られた人形を取り出した。彼女が妖狐の本体に戻った時の霊毛が漉きこまれていて、これに入れば容姿も服装も思いのままだ。新之介はとりあえず着流しの若侍の姿になって周囲の様子をうかがった。季節は晩夏、通りに立てられた高札には、安永二年(西暦一七七三年)六月と書かれている。日はまだ高い。時刻は午後二時をまわったくらいだろう。
「花瓶の在り処はこのお屋敷で間違いないようですね。新之介様、これからどうなさいますか?」
「とりあえず内情を探ってみよう。藤奴、支度を手伝ってくれ」
「はい」
小一時間ほど後、新之介は鯔背銀杏の髷を結った魚売りの姿で件の屋敷の勝手口にいた。相手をしているのは三十絡みのお清という女中だった。彼女によると、屋敷の主は大島玄蕃という旗本で、妻を早くに亡くしたが、子供は二人、長女たえが数えの十八、長男の慎吾は、来年十七での元服を控えているとのことだった。旗本とはいうものの暮らし向きは苦しいらしく、老人の下男と彼女の他に使用人がいる気配はなかった。
程なく、二人の会話を耳にしたのか、長女のたえが姿を見せた。
「あら、見慣れない魚屋さんね」
「へい、このあたりを流すのは初めてで。新助と申しやす。どうぞご贔屓に」
「何かお勧めはあって?」
「スズキはいかがで? 型のいいのが入っておりやす」
「いいわね。洗いにできるように捌いてもらえるかしら」
「合点で!」
「ありがとう。父上の好物だからお喜びになるわ。じゃ、お清、あとはよろしくね」
たえが去ると、新之介はお清の許しを得て井戸から水を汲み、木桶からスズキを取り出して調理にとりかかった。
「お前さん、なかなかいい腕だね」
「こりゃどうも。あっしは武家の出でやしてね。それが親父から勘当を食らって、こうして魚の棒手振をやっているって次第なもので、長物でも包丁でも、刃物の扱いはお手のものなんでさ」
「へえ、苦労してるんだねえ」
「なあに、気ままな町人の暮らしもおつなものでやんすよ。それに、もともと遊びが過ぎて勘当を食らったんで、文句を言えた義理じゃござんせん。それにしても、こちらのお嬢様、気立ては良いし、器量も良い、本当に素敵だ」
「そりゃあもう、お殿様が男手一つで手塩に掛けてお育てになったんだからね」
「さぞかし可愛がっておいでだろうね」
「もちろんさ。最近さるお旗本のところにお輿入れが決まったところなんだけれど、持参金の算段をつけるのに大変なご苦労をなすったんだ。先方から持参金は無用と伝えられても、他家に出る者に肩身の狭い思いはさせられないとおっしゃってね」
「なるほど、しかし、お気持ちは分かるが、そうたやすいことじゃないだろう」
「そうともさ」
「一体どうやって都合をつけたんだい?」
「骨董だよ。値打ちのあるものは残らず処分したと思われていたんだけれど、念のためにお蔵を調べてみたら、とびっきりのお品がみつかったんだ。きっと、殿様の想いがご先祖様に通じたんだよ」
「なるほどねえ、いい話だ……。時に、見つかったお宝というのは?」
お清は周囲を見まわすと、声をひそめて言った。
「柿右衛門の花瓶さ。出入りの骨董屋の話じゃ、二代目の作で、普通は将軍家か大名家にしかないような名品だそうだよ」
「ほう、そりゃ大したものだ。さてと、洗いの支度はこれでいいだろう」
新之介は薄切りにしたスズキを盛った大皿をお清に差し出した。
「ああ、それから、せっかくの上物だ。必ずあら汁も作っておくれよ。振り塩して軽く炙るのがこつだ。あとは味噌でも醬油でも、お好みで仕立てておくんな」
「ありがとうよ。そうだ、お前さん、帰りに鎌倉河岸の豊島屋に寄って、酒を二升届けるように伝えておくれでないかい」
「へい、ようがす」
「すまないねえ。酒を切らしていたのを今思い出したんだよ。せっかく好物を用意したってのに、晩酌のお酒がなかったら叱られちまう。恩に着るよ」
「なあに、鎌倉河岸なら帰り道だ。伝言の一つや二つ、造作もねえこって」
新之介は帰り支度を整えながら和やかに答えた。
新之介が木桶を吊り下げた天秤棒を肩にして門から出てくると、藤奴が早速近づいてきた。
「いかがでした?」
「例の花瓶、確かにあったよ」
「それで、どんな悪縁が?」
「多分、盗賊に盗まれるんだろうな。あの女中、気立てはいいが、口が軽い。共箱が無くなったのは、盗品を金に換える時に、足がつかないように処分したんだろう」
「では今夜?」
「ああ。朔日の新月で月明りもない。そもそも、分岐点だから今日この時に到着したわけだしね」
「では、予定の通りになさいますか?」
「そうだね、花瓶がなくなったからといって破談になるような相手ではなさそうだが、半分の世界のお嬢様だけとはいえ、一層幸せになれるというなら、俺は助太刀がしたい。構わないかな?」
「新之介様がそうお思いなら、私に異存などあるはずございません」
「ありがとう。さて、盗賊を迎える支度を整える前に、行くところができた。ちょっとした使いを頼まれてね」
「あらどちらに?」
「同じ神田の鎌倉河岸だ。さほど時間はかからない。日が落ちるまでまだ間がある。ついでに江戸見物でもしてこよう。藤奴、一緒に来ないか?」
「ええ、喜んで。それじゃ、まず魚売りの姿を変えないといけませんね。似合いすぎていて、そのまま流して歩いたら、夕餉(ゆうげ)の支度中のお内儀たちが放っておいちゃくれないでしょうから」
新之介を自分好みの姿にできるのが楽しくて仕方ない。藤奴の口元からこぼれる笑みからは、そんな思いが見てとれた。
日の入りから二時間程過ぎた頃、新之介と藤奴は大島家の屋敷の前に戻ってきた。新之介は着流しで腰に大小の刀を差している。一方の藤奴は、黒の小帷子に半股引という軽装で、大刀を背にしている。
※小帷子 鎧の下に着る半袖でひざまでの丈の単。
半股引 半ズボンのような短い股引。
「なあ藤奴、その出で立ちはさすがにお転婆がすぎるんじゃないか? 立川文庫のくノ一だって、もう少し大人しい格好をしている」
※立川文庫 明治四十四年から約十年間、大阪の立川文明堂から刊行された少年向けの読み物。
講談をもとに創作を加えたもので、『猿飛佐助』『霧隠才蔵』などが絶大な人気を博した。
「だって、動きやすい格好をしなかったら、若様が全部倒しておしまいになるじゃありませんか。術で身体を守っているから、薄着でも斬られる気遣いはなし、着物なんて最小限で十分ですよ」
「その隠すところだけ隠せばいいみたいな発想はやめてくれ。目のやり場に困る」
「あら、気になるんですか?」
藤奴はひときわ甘い声を出すと、半身を乗り出して新之介の両眼をのぞき込んだ。
「いや、俺は別に、ただ、人が通りかかったら目立ちすぎると思ってだな……」
「それはそうですね。でも大丈夫。こっちには隠遁の術がありますから。新之介様にもかけて差し上げますね」
藤奴はさらに新之介に近づくと、両腕を彼の首にまわしながら呪を唱えた。
さらに三時間が過ぎ、午後十一時をまわる頃、盗賊の一団が現れた。首領と覚しき四十がらみの男と、配下の九人だ。
「やあ、待っていたよ」
その声とともに、新之介と藤奴が突然姿を現した。藤奴が隠遁の術を解いたのだろう。盗賊たちはいっせいに腰の大刀を抜いた。
「姿は完璧に隠せても、しゃべるわけにはいかないし、退屈でたまらなかったよ」
新之介は伸びをしながら言った。
「誰だ、てめえら」
「この家に恩義のある者だ。それに、お前らが花瓶を狙っていることも知っている」
「ふん、やけに色っぽい姐ちゃんを連れてるじゃねえか。なめられたもんだぜ」
新之介は苦笑しながら答えた。
「おっと、彼女を見くびらないほうが身のためだ。倍の二十人でもお前らじゃ敵わない」
「ふざけやがって!」
「ふざけてなんかいるもんか。まあいい、すぐ思い知るさ」
新之介は藤奴のほうを振り返って声をかけた。
「じゃ、手下どもはまかせるよ」
「わかりました」
藤奴はそう答えると、抱えこむようにして組んでいた両腕をすばやく左右に振った。その瞬間、四人の手下が額から血を流しながらばたばたと倒れた。彼女の石つぶてを食らったら、並の人間は命がない。恐らく、石の代わりに木の実か何かを使ったのだろう。過去の人間を殺すわけにはいかないのだ。
藤奴は背にしていた大刀を抜いて峰打ちの構えを取った。飛び道具だけで倒してしまってはつまらないと思っているらしい。
「さて、そろそろこっちも始めようか。おい、いつでもいいからかかってこい」
新之介は刀を抜くどころか、柄に手をかけようとさえせずに言った。
「急いだほうがいいぞ。あの姐さんが戻ってきたら、お前さんには万に一つの勝ち目もないからな」
「うるせえ、畜生!」
首領は吐き捨てるように言うと、新之介に向かって突きを放った。逆上しながらも突き技を選んだことが、彼の実戦経験の豊かさをうかがわせた。剣術の心得のある者に刀を振りかぶって切りかかるような真似は、隙をつかれて逆に命取りになる。
新之介は左手で刀の側面を押してわずかに剣筋をそらすと、左手を相手の両腕の間に捻じ込んで柄を握った。そのまま柄をひねると、刀は瞬時に首領の手を離れた。と同時に、新之介は右足で相手の前足のつま先を踏み、左足で後足をはね上げた。
「わっ!」
首領の身体は空中できれいな円を描き、背中から地面に落ちた。ずんという重苦しい音が響き、首領は白目をむいて悶絶した。
「命に別状はないが、三日かそこらは立つこともできんだろう。少しは懲りるがいい」
新之介がそう言った時、残りの手下を片づけた藤奴が近づいてきた。
「新陰流奥義、無刀取り、お見事でした」
「俺にそれを教えた当人が言うかね……」
「自分の技は自分じゃ見られませんから。それに、剣技というのは人が創り出した最も美しいものの一つなんです。それがこうして正しく受け継がれているのを目にするのは、この上ない喜びですわ」
「なあ藤奴、前から気になっていたんだが、一体誰がお前に新陰流を伝授したんだ?」
「それはいずれ、時が来たらお話ししますわ……。それより、悪縁は消えたようですね」
「ああ、もう戻ってもよさそうだ。盗賊除けの呪でもかけておいてくれ」
新之介は良縁の紐だけが屋敷の屋根から伸びているのを確かめながら言った。
紐をたどってゆけば元の世界に戻れそうだが、事はそう簡単ではない。紐がつながっているのは出発直前の瞬間であり、彼らは再びそこから過去に向かうことになる。不毛な時間的ループに陥ってしまうのだ。
世界は今回の分岐の後でも分岐を繰り返している可能性が高く、紐から離れた瞬間に、そうした数々の世界が帰還先の候補として浮上してくる。中にはかつて彼らがいた世界とはかなり異なっている世界もあり、生活上の混乱を避けるには、できるだけ元の世界に近い世界に戻ることが好ましい。その選択の成否は、すべて藤奴の呪力と勘にかかっているのだ。
「では新之介様、参りますよ。行きはよいよい帰りは怖い。私から決して離れないでくださいね」
離れるなというのは、藤奴の呪力を感知して、彼自身の呪力を同調させるように、というくらいの意味で、新之介はすでに何度か経験済みだった。藤奴ほどではないにせよ、彼もそれなりの呪力の持ち主なので、同調すれば呪力は大幅に増大するが、逆に、ずれた状態で時空を移動しようとすれば、呪力が反発し合って離れ離れになってしまう恐れがある。藤奴は二人の呪力が完全に同調するのを待って時空を跳んだ。
道標にしていた紐から離れた時、二人の前には十二個の銀色の泡のようなものが現れた。泡の一つ一つが、よく似てはいるが微妙に異なった世界なのだが、実際の姿というより、藤奴の呪力が平行する世界をそのような姿で見せていると考えるべきなのだろう。
『なんとか無事に着きましたね』
『ああ』
もし、彼らの今回の行動が、世界の新たな分岐を生むような影響を及ぼすようなものだったとすれば、歴史の検閲とでも言うべき作用によって、彼らは消し去られていたかもしれない。その場合、世界は二つに分岐はしたものの、そのどちらにも彼らは現れなかったことになっただろう。
程なく、十二個の泡のうち十個までが消え、二つの泡だけが残された。
『私に絞り込めるのはここまでです。最後は新之介様がお選びください』
『俺が?』
『大丈夫ですよ。はずれを引いても、事情をご存じない有賀様に叱られるだけのことですから』
『それがきついんだって! しかしまあ、仕方ないな。確率は半々か……。右、いや左にしよう』
新之介そう答えた瞬間、彼の意識は隆太郎の茶室にいる彼の身体に戻っていた。それが自分の身体だという感覚はあったが、元の身体を完全に同じものなのかどうかはよくわからなかった。
藤奴は彼の正面に座って、三味線の調弦を繰り返している。
―紐の色はどうだ?
新之介はすばやく視線を床の間の花瓶に走らせた。
―当たりだ。おまけに……。
花瓶にまとわりついているのは白ではなく、最上位の金色の紐だった。
―これじゃ、ますます菱美財閥が優勢になるな。
他の財閥のことを少しばかり気の毒に思いながら、新之介は密かに苦笑した。
以前、良縁と悪縁の紐を分けた時もそうだったが、基本的な人間関係はもちろん、その場の顔ぶれなども過去へ出発する前と少しも変わらない。ただ、新之介と藤奴以外の人々の、花瓶に関する記憶だけが、最初から良縁の品物だったというものに変化しているのだ。
「花瓶には共箱がついていましたよね?」と新之介は隆太郎に尋ねた。
「ああ、もちろん」
「その中に由緒書きのようなものはありませんでしたか?」
「どうだったかな……。有賀」
「はっ」
有賀は一礼して立ち上がると、部屋の隅に置かれていた共箱の中を調べ、四つ折りの紙片を手にして戻ってきた。
「これでしょうか?」
隆太郎は渡された紙片にすばやく目を通すと、新之介に差し出した。
「よくわかったな。会場でそんな説明はなかったはずだが」
「なに、ちょっとした勘ってやつです」
「あの、私も拝見しても?」と藤奴が言った。
「ああ、もちろん」
「では失礼いたします」
藤奴がかたわらにやってくると、新之介は彼女が読みやすいように紙片を持ちかえて読み進めた。
書きつけを書いたのは大島たえの父、玄蕃で、娘の持参金を都合するために花瓶を売却したところ、結婚相手の永井左京が事情を察知して密かに買い戻し、長男誕生の際に祝いの品として大島家に贈ったという経緯が記されていた。
「こんなすばらしい方がお相手なら、たえ様は幸せな一生をすごされたことでしょうね」と藤奴は新之介にささやいた。
「ああ」
金色の紐に目をやりながら、新之介は静かにうなずいた。
「ところで、大島家がなぜ花瓶を手放したのか、いきさつをご存じありませんか?」と新之介は隆太郎に尋ねた。
「徳川慶喜公が静岡に移られる際、同行する費用を工面するためだったそうだ」
「なるほど……。それはそうと、藤奴はなぜここに?」
「お前、寝ぼけているのか?」
有賀があきれ顔で言った。
「首尾よく名品を落札できたから、大旦那様が宴席を設けて労をねぎらって下さるという話になったんじゃないか」
「いや、その、今日は他のお座敷から声がかかっていると聞いていたもので……」
「有賀、そうむやみに決めつけるものではない。新之介のような力を持った者にとって、この世界の現実というのは、そこまでゆるぎないものではないのかもしれんぞ」
思いがけない隆太郎の言葉に驚いて、新之介はその顔をまじまじと見つめた。この時間軸にいる隆太郎は新之介達が過去に行った記憶を持っていないはずなのに、まるで真相を知っているかのような口ぶりだ。一流の財界人としての知識や経験の豊かさは今さら言うまでもないが、こうした直感の鋭さにもしばしば驚かされる。
「わしらに新之介を紹介してくれたのは藤奴だから、一度きちんと礼をしようと思ってきてもらった…… というのはたてまえで、本音を言ってしまえば、最近ますます磨きがかかったと評判の清元を、ぜひとも聴かせてもらいたいと思ったのだよ。どうだろう、さわりだけでも披露してもらうわけにはいかないだろうか」
「ええ、もちろんですとも。もし、本当に私の腕が上がったのなら、それは大旦那さまのように耳の肥えた方々に聴いていただいたおかげなんですから」
藤奴はそう答えると、新之介と正対する位置に戻って三味線を手に取った。
「それで、大旦那様、演目は何にいたしましょう?」
「そなたにまかせる。好きなものをやってくれればいい」
「お祝いの席ですし、華やいだ気分になるものがよろしいでしょうね……」
藤奴は床の間の花瓶にしばらく目をやってから言った。
「では、『梅の春』から、太々神楽と君に逢う夜を続けてお聴きいただくというのはいかがでしょう」
※梅の春 冒頭の部分の歌詞を十一代長府藩主、毛利元義が作ったといわれる清元。
いくつかの部分に分かれ、それぞれ歌詞にもとづいて、『太々神楽』、『君に逢う夜』等
と呼ばれる。
「なるほど、梅に鳥をあしらった花瓶の意匠にちなんで『梅の春』か。うん、ぜひそれで頼む」
隆太郎が満足気にうなずいて掌を打ち鳴らすと、女中頭が徳利を載せた盆を手にして現れた。
※意匠 デザイン
「料理は演奏が終わってから運ばせるが、酒だけは先に少し飲ませてくれ。有賀、乾杯の音頭取りはお前だ」
「はい。では、名品が無事落札できたことを祝し、菱見家のさらなる繁栄を祈念いたしまして、乾杯」
有賀は一瞬も言い澱むことなく口上を述べ終えると、徳利を手にして新之介に歩み寄った。
「盃を出せ、注いでやる」
「…………」
有賀のあまりにも思いがけない言葉に、新之介は答えが見つからず、長い沈黙が続いた。藤奴も驚いてぱちぱちと目をしばたいている。
「聞こえなかったのか? 酒を注いでやるから盃を差し出せと言ったんだ」
「いや、言葉の内容と口調や表情の差がすさまじすぎて、思考停止しちまったんだよ。別に嫌味ってわけじゃなくて、そういうのは有賀さん、あんたらしくないだろう。俺は花瓶に金色の紐が巻き付いているのを見たから、手はず通り合図を送った。それだけのことじゃないか。この業務の手当だってもらっている。いくら結果が上々だからって、当然の仕事をしただけの人間をほめるとか……」
「誰がほめたりなんかするか! 祝いの席だから、主側の人間として酒を注ぐ、それだけのことだ」
有賀はますます不機嫌になりながら言った。理屈をつけてはいるものの、当人も自分の行動に納得がいっていないのは明らかだった。
「それにしたって……」
さらに話を続けようとした時、不意に事の真相が脳裏にひらめいて、新之介は口をつぐんだ。これは一種の反動なのだ。つまり、この世界で有賀が好意的であればあるほど、花瓶が悪縁の品になったもう一方の世界では、紐の色を見間違えた(ことになった)新之介に対する有賀の責任追及が苛烈だということになる。花瓶に両方の紐が巻き付いていたことは、向こうの新之介にも察しがつくだろうが、いかんせん証拠がない。
「まあ、こんな機会はめったにあるもんじゃない、ありがたく頂戴しますよ」
新之助はそう言って盃を差し出した。有賀に吊し上げられている別の自分には申し訳ないが、今は当たりくじを引いた幸運を享受する以外にできることはない。幸い、向こうの世界にも藤奴がいる。彼女が何とかとりなしてくれるだろう。
「では、ほんのお耳汚しですが、おつきあいのほどを」
藤奴は一礼すると、ごく短い前奏から『太々神楽』を歌い出した。ずしりと響く低音から伸びやかな高音まで、広い声域を活かした見事な歌唱で、評判を呼ぶものうなずける。
〽太々神楽門礼者梅が笠木も三囲りの……