【トオル】ビックギフト
電気の点いてない、寒い部屋は人を少しだけ憂鬱にする。
天井にひっついたてんとう虫のような丸い蛍光灯。そこから垂れ下がったクモの糸。トオルは迷いなくそれを引っ張る。2、3度瞬いて、電気が点く。糸にはボランティアをしていたころのIDカードが結び付けられている。入学当時、外国に行けるという理由で入ったボランティア部。そこで、今の彼女と出会い、そこそこ楽しかったように思う。
本棚には、家族の写真が飾ってある。年寄り臭いと馬鹿にされることも多いけど、家族と仲いいんだね、と彼女が微笑んだのを思い出す。
テーラードを脱ぐと、ヤカンのお茶をコップに注ぎ、一気に飲み干す。
しまった。うがいしてない。
急いで、洗面所に行き、うがいをして、コンタクトをはずす。やっと外から解放されたんだと思い、真っ白なベッドに顔から飛び込む。大きく息を吐き、今度は吸ってみる。埃っぽい空気が肺に流れ込むのがわかる。
部屋の真ん中に配したコタツが目に飛び込んでくる。
コタツ、つけようかな。コタツには、剥いたまま忘れてしまったみかんの皮と、ノートパソコン、飲みかけのサイダーが置いてある。ずぼらだな、ほんと。
トオルはむくっと起き上がると、コタツのスイッチを入れた。そのままコタツには入らずに、壁に隣接して置かれたピアノのイスに腰掛ける。20万円くらいのピアノだ。高校生の頃に、親に無理を言って買ってもらったのを未だに使っている。
ドの音を鳴らす。そのまま流れるように、2音高くし、次は半音落とす。考える前に指が次の鍵盤を抑える。足元のペダルも、感情のままに踏む。楽譜は置いているが、見たことはない。せいぜい一音目を確認するくらいだ。
大好きなアニメ映画の主題歌。壮大なオーケストラから、静かな音へ。それぞれの楽器の特性を活かしたソロパートに移行し、少しずつ全体が組み合わさっていく。それらが全て合致したとき、初めに壮大だと思っていたパートは、序幕にすぎないことがすぐに分かる。力強く、多彩で、大きな森や、海、空をイメージさせる。様々な生物の声が風に乗って大地へ降り注ぐ。そしてやがて風は大きな谷の間にもぐりこみ、そこに咲く小さな一輪の花を揺らす。花は一度、可憐にその身をくねらせると、控えめでいて、甘い香りを残す。やがてその香りは静かに消えていくのだ。
トオルはそんなことを想像しながら、ベースとなるピアノパートを弾く。
彼がピアノを真剣に始めたのは、中学に入ってすぐの頃だった。実家は農家だったが、なぜかリビングにはピアノが置いてあり、それはいつもトオルの玩具だった。中学に入ったトオルは、家のピアノを毎日のように弾いていた。別にプロになろうとか、誰かに習おうなんて気はさらさらなかったし、両親もそのつもりは微塵もなかった。ただ、彼は人が歌を歌うように自然に頭の中のメロディをピアノで弾くことが出来た。それは彼の相対音感という才能に起因するものであることは後になってから知った。聴いた曲をすぐに弾けることなど、皆出来ることだと思っていたくらいだからだ。
それが特異なことであると、大学生になってから知った。それで別段得をしたということはないが、ピアノが弾けるということを知った友人が、今のバンドの先輩を紹介してくれて、自然と曲を作り始めた。
いつしか彼は、バンド用の曲と自分のための曲を作りわけるようになった。それが何かにつながるわけでもないが、いい加減、自分の曲を誰かが適当に我が物顔で歌うことには辟易していた。
しかし、彼はいつか自分の作ったこの曲が、自分のものとして、世に出て行く、そんな気がしていた。いや、正確にはそうでないといけないのだと思っていた。