ケセラセラではすまさない
妙な夢を見た。彼女の膝に頭を乗せて、穏やかな気持ちで全てを話す。それはとても安らかな夢で、穏やかでない現実だった。
「ハッ」
ケイはが目を覚ますと、彼女の顔がすぐ目に入った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「ごめん」
どうしてだか、全てが一瞬で分かった。ただ、その時、部屋にどんなものが置いてあったかとか、テレビがついてたかとか、そんなことは何一つ分からなかった、ただ、彼女を泣かせている、ということだけがケイの頭を支配していた。
彼女が沈黙しているので、ケイは再度謝った。彼女は涙を拭って、笑顔を浮かべて、
「もういいよ。別れて、その浮気相手のとこいきなよ」
と鼻声で言った。その強がりは、胸がカッターで切り裂かれるような鋭い痛さを感じさせる。
「俺は、そんなつもりはないよ」
下らない言い訳で彼女の気が変わるとも思えなかった。1年前に買ったブタのぬいぐるみが冷ややかな視線をこちらに向けている。こっち見んな。
「もう、どう接していいかわからない。早く帰って。見てるだけで気持ち悪いの」
ケイはようやく起き上がった。酒を飲みすぎたせいで、まだ頭が痛い。それにこれが夢のような気がしてならない。彼女の肩に手を触れようとすると、彼女は急いで体を反らした。空を切った手は行くあてを失い、おとなしく自分の膝に乗る。変な話だが、こうあってもなお、膝枕をしてくれていた彼女の優しさにわずかな希望を感じる。
「俺のことが嫌い?」
「そういう問題じゃない」
そりゃそうだな、と納得する。彼女は目も合わせない。今度はキスをしようと顔を近づける。首をねじり、それを逃れようとしたので、結果的に彼女の髪にキスをすることとなった。
「本当に帰って」
悲鳴のように彼女は言う。漫画や映画では浮気したって大した問題になってないってのに、実際にしてみると大した問題だ。
「俺はその子と付き合う気なんてないよ。そのことは彼女にも言ってる」
「知ってるよ。面白いくらい全部話してたよ、君。もう一人言い寄ってきてる子がいることも」
「おおう、そこまで」
思わずケイは声を漏らす。確かに、友人と飲みに行った時、出会った子に好きだと言われている。それに対しては、返答していない。
「それは浮気じゃないよ。別にどうこうしたってわけでもないし」
「もう一人は完全な浮気だったけどね」
「ごめん」
事態は振り出しに戻る。深夜2時。重い頭に大した思考力はない。
「とにかく寝よう。明日話そう」
冷静な脳なら、こんな申し出を彼女が受けるわけはないと言いもしないはずだが、何しろ酒が残っている。しかし、彼女は従順にも布団に入る。お互い疲れている。何も言わずに背を向け合って眠る。
翌朝、彼女の方が先に起きて、洗濯物だの、家事をしている。ケイが起き上がると、彼女はいつもと同じように
「おはよう」
と言った。ケイも同じように「おはよう」と返す。
「荷物持って帰れる? 」
見ると、玄関に大きな紙袋が2つ置いてある。そこには見慣れた自分の服が入っている。
「持って帰らないよ、置いておく」
子供のような口調でケイが言った。彼女はなるべくこちらを見ないようにして、
「邪魔だから」
と無感情に言った。外から入る太陽の光でケイは目を細めた。小鳥の鳴き声が聞こえる。
「ねえ、俺は別れたくないよ。あの子とのことはきちんと精算するから」
「江美ちゃん? 」
おしゃべりすぎて困る。
「名前まで言ってたの」
ケイは頭を抱える。彼女は楽しそうに、
「うん。すごくひどいことも色々言われた」
と言う。昨晩からずっと心臓に針がささっているようだ。どんよりと鈍く痛んだり、鋭く痛んだり。
「ごめん」
「謝らなくていいから早く出て行って」
「嫌だ」
彼女はため息をつく。
「こんなやり取りしてたら、きりないじゃない。もう、別れたいの」
「だから、嫌だ」
ケイはうなだれながら、返す。まだ少し頭は痛い。
「好きな子と、自由に付き合ったらいいじゃない。もう誰も怒らない。その方が私といるより楽しいでしょ」
「そんなことない」
彼女は絨毯の上に座る。ぬいぐるみは同じ場所にずっといる。ケイはパジャマの自分を見て、生活感が溢れてるな、と思う。そして、もう何度も考えていることを口にする。
「結婚しよう」
彼女は少し黙ったあとに、優しい笑顔を見せて、
「嫌よ、こんな甲斐性なし」
と言った。ケイは手を伸ばして彼女の体の一部に触れようとする。彼女は昨晩のように嫌がらずに、ケイの手は彼女の腰あたりを触った。
「ケイ君にそんな顔されると私が悪いことしてるみたいじゃない」
と彼女は眉を寄せながら優しく言う。いつからか、泣いていた。それに気付いてもいなかった。ケイはすがるように彼女にキスする。彼女はそれに応じるでもなく、拒むこともなかった。
しばらくそんな風に付かず離れず過ごした。彼女は時々、別れようということもあったが、そのたびにケイはそれを拒み続けた。そこにはずっと消えはしない傷がのこっているが、二人は結局一緒にいる。