【ケイ】エムワンの奔走2
「これ」
そう言って山縣がケイに渡したのは、大手音楽レーベルのオーディション告知チラシだった。前面にピンクが散りばめられ、所属アーティストのライブ写真などが掲載されている。
「本気だったのか」
チラシに目を落としながら言うと、山縣は、「勿論」と親指を立てた。チラシの裏面には詳細が載っている。日にちは、
「えっ、今日!?」
確かにそこには今日の日付が書かれている。山縣は唇を尖らせて、こっけいな表情を作り、「イエス」とやたらはっきりとした発音で言った。
「今から受けに行こうや」
「お前、ほんと即行動派な」
とケイは呆れる。休日に突然呼び出した理由はこれだったのか、と一人納得し、
「構わないけど、本当に受けるつもりか?」
と聞くと、山縣は少し考えて、
「現場の空気次第やな」
となぜかまともなことを言った。
「うん、多分無理だと思ってたよ」
ケイはペットボトルの水を飲みながら言う。
「まあ、あの雰囲気で俺らみたいな半端な感じではいけへんやろな」
会場の熱気に蹴落とされた二人はうなだれながら、ため息をつく。雑踏と眩しすぎる太陽が街を支配する。
「なんか中途半端な、俺ら」
「まあ人生はそんなもんやろ。ほな、M-1出るか?」
ゴールデンバットに火をつけて山縣は言う。ケイはぼんやりと空を眺めて、次に山縣の方を見る。煙草を持つ指先が赤く滲んでいる。深爪でもしたのだろう。慢性的に滞在する鈍い痛みがこちらにも伝染したような気がして、自分の指を見てみる。目の前を一羽の鳩が首を振りながら横切ってゆく。鳩は時々、床に敷き詰められたタイルの隙間をつついては餌を探している。歩道を通る自転車に驚いて、鳩は少しだけ羽ばたいたが、すぐに着地し、少し離れた場所で、また同じように餌を探した。
「やりますか」
ケイの放ったその声は、行き交う人々の鞄に滑り込んでいくようにその場を駆け抜けた。山縣は、その背中を見ているかのように、うつろな目で人々を眺め、
「エントリーまであと1ヶ月。ネタ作って、練習して。忙しなるな」
大型トラックがクラクションを鳴らし通り過ぎる。辺りは1時間前と何一つ変わっていないように見える。若者は先の尖った靴を履き、急ぎ足。老夫婦は他愛もない会話と観光を楽しみ、女の子は流行りの服を着て、イヤフォンを耳にさす。子供たちはいつまでも無邪気そうだし、カップルは今だけは幸せそうだ。
この世界にたくさんのカラーフィルムを巻き付けて、鮮やかな色に仕上げたのは誰なのだろう。
不意に指にひっかかるものを見つける。袖口から出た糸のほつれ。ケイはそれをちぎり、無造作に捨てた。その動作を見た鳩が、また首を振りながらこちらに近づいてくる。山縣のくわえている煙草の先が焼けるじりじりという音が耳元でうるさく聞こえたような気がした。