【ケイ】エムワンの奔走1
「M-1(漫才コンテスト)に出よか、それか歌手オーディション受けるか」
講義室は休み時間で、学生達の雑談に支配されている。1回生の夏、坂道で話しかけられてからケイと山縣は、すっかり打ち解けていた。初めの話題が当時世間を騒がせていた猟奇殺人の話だったのも、今となっては山縣らしい。
きょとんとするケイに、山縣はさらに続ける。
「富士山も登ったし、あとはエムワンか歌手やん。どうでもええけど、俺、あの後、一人で富士山3回登ったわ。インストラクターのバイトでな。君も誘ったやろ」
「富士山の話はいいよ、どうでも。それよりお前、一緒にやってた相方はどうしたの?」
長机に置かれたペットボトルを取り上げて、上手そうにぐいぐい飲むと山縣は、教室の横一杯に広がった黒板を見て、
「お星様になったんやな」
と遠い目で言った。
「いや、ペットが死んだときの子供への言い訳かよ。本当のとこどうなの?」
「実はな、あいつ借金があったんやけど、それで首が回らんなってもうて漫才どころちゃうねん」
山縣の相方には一度だけ会ったことがある。安く靴を買おうと誘われて、相方君のバイトしている靴屋に行ったのだが、その時に少しだけ話した。借金で困っているような素振りは無かったが。
「そりゃそうやろ、そん時から客にそんな素振り見せとったらとっくに首やろ」
斜めにかぶっていた帽子を脱いで、山縣は言う。
「心読むなよ」
ケイは羽織っていたジャケットを脱ぎ、イスの背にかけながら言った。クルクルと指で帽子を回していた山縣は、思い出したように
「今日、セクシーは?」
と聞く。
「さあ」
膝をついたまま、ケイは答えた。
チャイムが鳴り、白髪の講師が入ってくる。学生達の雑談は少し収まったが、講義が始まるという雰囲気でもない。講師は騒がしい教室に少し眉を寄せる。
ケイは机に置いていたノートを鞄に直しながら、
「なあ、ふけよっか」
と山縣の背を叩き教室を出た。教室の外には、ひんやりとした心地よい空気が溢れている。ケイは軽い足取りでそこを抜け、中庭に出る。その中心には木が3本あり、それを囲うようにベンチが5台、円形に置かれている。誰も座っていないベンチを見つけると、ケイは勢いよくそこに座り、鞄を横に置いた。
同じ道を辿って、山縣がゆっくりとこちらに歩いてくるのが見える。白に黄のラインが入ったスニーカーと、ポーターの鞄が印象的だ。
「君の悪い癖やな」
と、発売中止になった煙草、ゴールデンバットを口にくわえる。この煙草を買い占めるのにつき合わされたのを思い出す。
「君、煙草は?」
「やめた。臭いし、料理の味が分かりにくくなる。それに喉に悪いだろ」
「1ヶ月くらいやったな、煙草」
山縣は、いつものように目を細めて煙を吐き出す。
「M-1、考えといてや」
「今日、車?カラオケでも行こうか」
「うーむ。なんか俺たちいつもそうやな」
「倦怠期の夫婦か」
山縣は、上をむいてカカカ、と笑った。風が吹いて、木の葉が揺れ、ちょうどアンテナの入っていないテレビのようなザザ、という音がした。二人は勢いよく立ち上がると、
「行きますか、いつものように」
と、鞄を掴んで駐車場へ向かった。風はなおも吹いている。