無用の後悔
「イリス! 会いたかった」
盛大にイリスを出迎えようとしたエドガーは、イリスの手を取りエスコートするメフィストを見て動きを止めた。
「皇帝陛下、皇太子殿下。お呼びと伺い参りました」
頭を下げたイリスへ、皇帝が胡乱な目を向ける。
「そなたに話があったのだが……その者は?」
「ああ、こちらはサタンフォード大公国の大公子殿下ですわ」
サラッととんでもないことを言ったイリスに、皇帝もエドガーも絶句する。そんな二人を物ともせず、メフィストは見惚れる程の優美な仕草で礼をした。
「お初にお目にかかります。サタンフォード大公国の大公子、メフィスト・サタンフォードと申します。お見知り置きを」
そのあまりに自然な挨拶に、呆気に取られた皇帝が慌てて口を開く。
「な、何故、サタンフォードの大公子が、ここにいるのだ!?」
「あら。陛下はご存知なかったようですわね。実はメフィスト様は地下の牢獄に囚われていたのです。私と同じように、悪女ミーナの策略により不当に、ですわ。陛下、これは外交問題に発展する不祥事です。神のお導きによりこのことを知った私は、すぐさま地下に出向き、大公子殿下をお連れしたのです」
聖女であるイリスにそう言われてしまえば、皇帝にも反論はできなかった。
「そ、それは非常に遺憾だ。なんてことだ。ミーナの罪状は計り知れぬ。あー、大公子殿下。どうか此度の件は偽聖女の独断ということで両国とも穏便に処理をしたいのだが……」
外交問題、不祥事、と聞いて慌てふためきながらも平静を保とうとする皇帝は、何とかこの事態を収める方法を必死に思案した。その様子に救いの一手を打ったのは、メフィスト本人だった。
「心得ております。ある程度の事情はイリス様より伺いました。私はことを荒立てるつもりはございません。が、暫く大公国に連絡を取れていなかった手前、それらしい理由を考えませんと。その件で陛下とはじっくり話し合う時間が必要かと存じますが、如何でしょうか」
笑顔で告げるメフィストの隙のなさに、皇帝は内心で冷や汗をかいた。腐っても皇帝位を預かる者として、メフィストが手強そうな相手であると察知したのだ。
「……メフィスト殿、そなたとの話は改めて場を設けよう。客間を用意するので今は外してくれるだろうか。私の息子である皇太子が、聖女に話があるのだ」
イリスを呼び出した目的を忘れていなかった皇帝は、エドガーの肩を叩いた。そんなエドガーはまだ動揺から抜け切れておらず、えっ、えっ、と皇帝とメフィストを交互に見る。
「陛下。メフィスト様を救い出したのは私です。ここは責任を持って私がお部屋までご案内しますわ」
「な、何を言うイリス。聖女であるそなたがそのような雑事をする必要はない」
「あら、一国の大公子殿下をご案内するのが雑事なのですか?」
「いや、それはっ、そうではなくてだな」
「私は構いませんよ。差し支えなければ聖女様のお話が終わるまでお待ちしております」
「まあ、メフィスト様。牢獄に囚われてお疲れの貴方様をお待たせするなんて、忍びないですわ。皇太子殿下、お話があるというのならこの場でお早く済ませて下さいませ」
イリスに急かされ困り果てたエドガーは、ここは出直した方がいいと考えエドガーの肩を押した皇帝の合図を勘違いして、話を切り出した。
「ええっと、イリス。実は君に伝えたいことがあってな」
イリスの隣に立つメフィストをチラチラと見上げながら、言いづらそうにエドガーがイリスの前に立つ。皇帝はその横で頭を抱えていた。
「はい、何でしょう?」
改めてイリスに問われたエドガーは、初めて正面からイリスと目が合った。そして、聖女の証であるルビー眼を見て、本当にイリスが聖女であると改めて実感しこれまでのことを振り返って黙り込んだ。
「殿下?」
「オホン。あー、よくよく考えてみれば、君は昔から私によく尽くしてくれた」
「…………はい」
ぴくり、と。イリスの頬が引き攣る。
「今まで気付かなかったが、君の献身に私は報いるべきだと思う」
「………………それで?」
「改めて、君を私の妻に迎え入れようと思うのだが、喜んでくれるだろうか」
イリスは、聖女の微笑を浮かべるのも限界だった。
この男は今更何を言っているのか。
能力もなく、優柔不断で臆病で、平気な顔で浮気するような最低男の妻になれることを喜ぶ女がいったいどこにいるというのか。更には、妻になってくれではなく、妻にしてやるから喜べと?
言いたいことがありすぎて口から爆発しそうなイリスは、何とか気持ちを抑えに抑えて息を吐く。
「…………殿下は、まだミーナと婚姻されている状態ですわよね?」
「それなら問題ない。どちらかを側室にすれば済む話だからな」
これには流石のイリスも微笑みを失くした。どこまでもイリスのことを馬鹿にしているエドガーは、自分の失言になど気付いていない。
こんな男に尽くし、青春を捧げた自分の人生は何だったのか。こんな男の為に泣きたくはないのに、怒りと悔しさで涙が出そうだった。
そんなイリスに、温かな黒手袋の手が差し伸べられる。
「それは困ります、エドガー皇太子殿下」
イリスの肩を抱いて真っ向からエドガーに告げたメフィストが、挫けそうなイリスの心さえも支えてくれた。
「む? 何故貴殿が困るのだ?」
不快そうにメフィストを睨むエドガーへ、メフィストは老若男女問わず見惚れるであろう美麗な笑顔を見せた。
「何故なら私とイリスは恋仲だからです」
「なっ!!?」
「!?」
「いくら皇太子殿下といえど、聖女であるイリスと隣国の大公子である私の仲を引き裂くのは如何なものかと思いますよ」
これにはイリスも驚いたが、自分を支えてくれるメフィストの手を信じて、何も言わずにメフィストに身を委ねることにした。
「それはどういうことだ?」
驚愕して口をぽかんと開けたまま固まる皇太子を見兼ねたのか、それまで黙っていた皇帝がメフィストへ鋭い目を向けた。
「どういう、と言われましても。言葉の通りですが」
「そなた達は、出逢ったばかりであろうが!」
至極まともな皇帝の指摘にも怯むことなく、メフィストはイリスを引き寄せた。
「人は時に、一目見て恋に落ちることがあるでしょう。私達もそうだったのです。互いを一目見て気に入り、好意を寄せ合うのは一瞬あれば事足ります。それに我々は神の導きにより出逢ったのです。とてもロマンチックだと思いませんか?」
あまりにも堂々としたメフィストの言葉に、皇帝も僅かにたじろいだ。しかし、どうしてもイリスを手元に欲しい皇帝はそう簡単に諦めることはなかった。
「イリス、この男の言葉は本当か? よもや、この男は聖女であるそなたに対して無礼を働いたわけではなかろうな?」
鋭い目の皇帝に問われたイリスは、堂々とルビー眼を上げた。その瞳には涙も翳りもなかった。
「本当ですわ」
そして、自分の肩に乗せられたメフィストの手に自らの手を重ねた。
「これまで私はただの一度も男性にこのような想いを寄せたことはありませんでした。ですが、メフィスト様を見た瞬間、まるで……ずっと欠けていた何かを見つけたように、しっくりときたのです。私が出逢うべきお方はこの人だったのだと」
イリスがルビー眼を向ければ、メフィストはエメラルド色の瞳を細めてイリスを見返した。それはまるで、本当の恋人同士のように甘い視線の交差だった。
「初めて恋をしてみて漸く分かりましたわ。殿下が私という婚約者がいながらミーナと浮気した理由が。恋というものは、止めようのないものですのね」
「……っ!」
イリスの言葉に、エドガーがぎくりと跳ねる。
「そういうわけですので、殿下のお申し出は辞退いたします。それに、メフィスト様とのことがなくてもお断りしておりました。私、お相手のいる方に横恋慕するような最低な行いはしたくありませんもの」
「イリス! 今一度考えてみよ、そなたはこれまで……」
完全に打ちのめされ放心したエドガーを見放し、自ら前に出て来た皇帝へ、イリスは聖女の微笑を浮かべる。
「失礼ながら陛下、このお話はこれまでにして下さいませ。私は皇室から一方的に婚約破棄を突き付けられた身。当時の皇太子殿下の所業については色々と思うことがございましたが、今となっては言及するつもりもありません。ですのでどうか、当時負わされた私の心の傷を労って下さる気があるのなら、この件については二度と口出しをしないで下さい」
イリスの鉄壁の聖女の微笑に、皇帝は押し黙るしかなかった。
「それでは行きましょうか、メフィスト様」
「ああ。イリス、手を」
「はい」
差し出されたメフィストの手に手を重ねて、来た時と同じようにそのエスコートを受けながら退出しようとしたイリスは、見覚えのある風貌を視界の端に捉えて足を止めた。
「あら、侍従長。お久しぶりね」
イリスの言葉にぎくりと固まった侍従長が、禿げ上がった額に汗を滲ませた。
「イ、イリス様! あの時のご無礼をどうかお赦しください!」
その場で土下座した侍従長を見下ろして、イリスは淡々と告げた。
「……正式な裁判の場でなかったとは言え、嘘の証言をしたあなたはきっと、周囲からの信頼を失ったのでしょうね。私からはこれ以上、何も言うつもりはないわ。陛下が公正な判断をされると信じていますもの」
そして皇帝を見れば、視線を受けた皇帝が咳払いをした。
「無論、嘘の証言で聖女を貶めた侍従長には相応の罰を与える予定だ。しかし、今の皇宮は皇后を失い、宰相も不在。取り仕切る者がいない今、侍従長までいなくなれば混乱は必至。皇宮内が落ち着くまで、侍従長には暫しの猶予を与えておるのだ」
「……左様でございましたか。流石は陛下です」
柔らかなはずのイリスの微笑みを向けられた皇帝は、気まずげに目を逸らした。釘も刺し、イリスにはもうこの場に用がない。とっとと離れようとメフィストと共に歩き出したところで、後ろから悲痛な呼び声が掛かる。
「イリス!」
今更ながらにイリスを呼び止めたのは、エドガーだった。
「イ、イリス、私が悪かった。だからどうか行かないでくれ!」
立ち止まったイリスがエドガーを見る。そこにあったのはかつて心を尽くした元婚約者の、酷く情けない顔だった。
「皇太子殿下、最後に一つだけ宜しいでしょうか」
メフィストの手を握ったまま、イリスは数歩離れていたエドガーに歩み寄り、目の前まで来るとそれまで浮かべていた聖女の微笑みを消した。
呆気に取られたエドガーが口を開くよりも前に、乾いた音が響いてエドガーの視界が揺れる。
父に続き元婚約者からお見舞いされた、エドガーにとっては本日二度目の平手打ちだった。
「二度と私の名前を呼ばないで。不愉快よ」
そのまま床に倒れたエドガーは、元婚約者の冷たい声を聞いて彼女の心が少しも自分にないことを初めて知った。
皇太子を平手打ちしたところで、聖女であるイリスを咎める者はいない。この国の聖女とは、それだけの地位と権力を持っているのだ。
「それでは皆様、ご機嫌よう」
メフィストの腕に掴まり、イリスは何事もなかったかのように皇太子の部屋を後にしたのだった。
イリスが去ると、怒りに震えた皇帝がエドガーに掴みかかった。
「お前は女の一人も満足に落とせんのか!? よりにもよってサタンフォードの倅に聖女を渡すとはっ!! どうしてくれる!? この国を潰す気か! 恥を知れ!」
皇帝に怒鳴られるよりも、エドガーはイリスが自分を捨てたことの方がショックだった。打たれた頬も痛いが、それ以上に心が張り裂けそうだった。
ミーナが母を殺したと知った時でさえ、こんな気持ちにはならなかった。
ずっと自分のものだと思っていたイリスが、別の男の手を取り、甘く見つめ合っていた光景が頭から離れない。しかもその男は、悔しいくらいに美しく、堂々としていて、優雅で、それが余計にエドガーを惨めにさせた。
何をどこでどう間違ったのか。今更遅すぎる後悔が押し寄せてきて、エドガーの視界が滲む。
「何としてもイリスの心を取り戻せ! それができぬのなら、無理矢理にでも奪うのだ! 聞いておるのか、エドガー!!」
父に胸ぐらを掴まれながら、エドガーは鼻水を垂らしてぐずぐずと泣き出したのだった。





