月下の密約
「僕の名前はメフィスト・サタンフォード。サタンフォード大公国の大公子だ。宜しく頼むよ、聖女様」
イリスは思わず息を呑んだ。帝国の隣、かつて帝国の一部だったサタンフォード領が独立する形で建国された、サタンフォード大公国。様々な作物が実る豊かな土壌と豊富な資源の産出国であり、"地上の楽園"と謳われるその国の大公子が、何故こんな牢獄の奥に居るのか。
「いったい何があったのですか?」
「話せば長いんだが、一先ずここから出てもいいかい?」
グッと伸びをした大公子メフィストを見て、イリスは慌てた。
「勿論です! あなたをここから出すよう、すぐ皇帝陛下に要請してきます」
イリスが急いで背を向けようとしたところで、メフィストの穏やかな声に引き留められた。
「その必要はないよ。この程度の鉄格子ならいつでも壊せるから」
「え……?」
メフィストの言葉の意味が分からず振り向いたイリスは、驚きに目を瞠った。
メフィストが触れたところから、頑丈な鉄格子がじわじわと溶け出し、檻には人が通れるほどの隙間ができたのだ。そこからゆっくりと出てきたメフィストは、イリスに近寄ろうとして足を止めた。
「レディの前に出る格好じゃないね。ちょっと待っていて」
ヨレてクタクタになったシャツと汚れた体を見下ろしたメフィストは、手先から魔力を放出して自身を清めた。水と風の爽やかな魔法が暗い牢獄を通り過ぎ、薄汚れた牢獄の中にいた青年は、一瞬にして美貌の貴公子になった。
「あなたは魔法使いなのですか?」
イリスの驚きように、メフィストは首を傾げる。
「ん? ああ、帝国の魔力は百年前に枯れたんだったね。サタンフォードでは魔力持ちは珍しくないよ。まあ……僕はちょっと例外だけど。そんなことより、場所を移そう」
メフィストは自然な動作でイリスからランタンを受け取ると、薄暗がりでも危なくないようイリスの体を支えながら牢獄の通路を進んだ。
「いつでも出られたのに、どうして捕まっていたんですか?」
イリスが問えば、メフィストは何でもないことのように答えた。
「名分が無かったからさ。僕はこう見えても外交のためこの国に来たんだ。それを勝手に脱獄したとあれば、外交上不利になるだろう? 聖女である君が許してくれた。この国でそれ以上の名分はない。この国の聖女崇拝ときたら異常だからね。……成程そうか。魔力がないからこの帝国の人間は余計に聖女を崇めるのか。ミーナのような女が持て囃されていた理由が分かったよ」
角を曲がろうとしたところで、体力のないイリスがよろける。それをメフィストが危なげなく支えた。
「ごめんなさい」
「いや、僕こそ歩くのが早かった。……随分と衰弱しているね。無理もないか、ずっと囚われていたのだから」
「よくご存知ですね」
「人より少しだけ耳が良くてね」
形の良い耳を指したメフィストは、一拍置いてから告げた。
「……実はあの日、ミーナが牢獄の前で君に言った言葉も聞こえていた。あの女の残虐さには反吐が出る」
「! あれを、聞いていたんですか?」
「ああ。……辛かったろう? 不可抗力だったが、君の啜り泣く声も聞こえていた。その声があまりにも切なくて、何度か本気で檻を破って君の元へ行こうと思ったよ。いっそのこと、二人で逃げようかってね」
「そんなことを考えていたんですか!?」
イリスが驚愕すると、メフィストは苦笑した。
「僕にも僕の事情があったから、ギリギリまで様子を見ていたが。あのまま夜が明け、君が処刑台に連れて行かれそうになっていたら、僕はあの檻から飛び出していただろうな」
イリスは、信じられない思いでメフィストを見た。
つい先程知り合ったばかりの、隣国の大公子が。イリスの知らないところでイリスを心配し、一緒に逃亡することまで考えてくれていたなんて。
イリスの味方になってくれる人は、もう誰もいないのだと牢獄の中で絶望していた時は思いもしなかった。どこまでも孤独だったあの時の自分に教えてあげたい。そこまで考えてイリスはハッとした。
「もしかして……歌を歌っていたのは、あなたなの?」
イリスの耳に妙に馴染むメフィストの声。イリスが牢獄の中で正気を保てたのは、夢か現実かも分からなかったあの歌声があったから。あの時聞いた歌声は彼の声によく似ていた。
「微量だけど声にも魔力を乗せることはできるからね。癒しの魔法を乗せたんだが、ちゃんと君に届いていたのなら良かった」
柔らかく笑うメフィストの美麗な顔を、イリスは改めてまじまじと見た。絶望の中にいたイリスが、あの歌声にどれだけ救われたか。言葉に言い表せないものがあった。
そんなイリスを、メフィストは軽々と横抱きに抱き上げる。
「きゃっ」
「掴まって?」
イリスが人の体温を感じたのは随分と久しぶりだった。先程まで牢獄に囚われていたとは思えない程力強いメフィストに身を任せ、イリスは再び暗い地下の牢獄から抜け出した。
地上に出ると、暮れた空には月が出ていた。未明からこの暮夜まで、今日という一日が途方もなく長かったと実感したイリスは月を見上げて息を吐く。
「やっぱり空はいいね」
イリスが思ったのと同じことを呟いたメフィスト。
「急かして悪かった。折角あの牢獄から出た君を、これ以上あの場所に居させたくなかったんだ」
「私の為だったの……?」
瞠目するイリスを降ろしたメフィストは、月明かりに照らされて柔らかく微笑む。
「ずっと、君とこうして空の下で会えたらと思っていた。改めて挨拶を」
差し出された黒手袋の手にイリスが手を乗せると、メフィストは洗練された仕草でイリスの手を引き寄せ甲に唇を寄せた。丁重な挨拶とは裏腹に、目が合った彼はエメラルド色の瞳を優しく細める。
(不思議な人……)
初めて会ったばかりなのに、イリスはメフィストへの警戒心が少しもないことに気付いた。それどころか、こうして隣にいるだけで妙な安心感を与えられる。
イリスは、これから独りで復讐のために戦わなければならないのだと気負っていた自分に、肩を並べて味方してくれる人などいないと思っていた。だが、目の前の彼であれば、もしかしたら……という淡い期待が知らず顔を出す。
(駄目よ。もう誰も信用しないと誓ったじゃない)
自ら芽生えた期待を打ち消し、気を取り直そうとしたイリスに向けて、メフィストが口を開く。
「それで、どこから話そうか。まずは僕の目的から言おう。僕は、というより我が国サタンフォードは、帝国への帰属を望んでいるんだ」
「なんですって……?」
思ってもみなかったメフィストの言葉に、イリスが目を瞠る。
「この件については長くなるから追々話すよ。とにかく僕はその一歩として聖女に会うためこの国に来た。しかし、サタンフォードを毛嫌いする皇帝の目を盗んで何とか会えた聖女ミーナは、運が悪いことに利己的な女だった。僕の話を聞くなり彼女は悲鳴を上げて兵を呼び、僕は聖女を狙った不届き者として牢獄に入れられた。強行突破もできたが、この国の情勢を探るため傍観していたところだったんだ」
メフィストの話を聞いて驚きつつも、状況を整理したイリスはメフィストに問い掛ける。
「あなたはいったい、聖女に何を望んでいるの?」
「話が早くて助かる。そんなに難しいことじゃないよ。ただ、僕と同盟を結んで欲しいだけだ。帝国への帰属を望んでいるとは言っても、僕達は無闇に領土を明け渡したいわけじゃない。自国民の平穏と無事を前提に交渉がしたい。しかし、交渉を間違えば帝国に搾取される未来は目に見えているからね。それを防ぐために、帝国で絶対的な権力を持つ聖女に味方になってもらいたかったんだ」
何となく話の流れが見えて来たイリスは、ミーナがメフィストを牢獄に追い遣った理由が分かる気がした。
「ミーナは腹黒くて狡賢い女ですもの。あなたの話を聞いて、自分の利になるどころか害にしかならないと判断したんでしょうね」
詳細を語らなくても理解してくれたイリスに、メフィストは嬉しげな視線を向けた。
「その通り。あの女は、サタンフォードが帝国に帰属することで帝国が豊かになるのを懸念したんだ。豊かな国では"救世主"である聖女の有り難みが薄れるからね。まったく何が聖女だ。己の利にしか興味のない強欲な女じゃないか」
呆れるメフィストには最大限に同意しつつ、イリスは改めてこの状況を考えた。神であるウサギの導きによって出逢ったメフィスト。豊かなサタンフォードの国土と民。サタンフォードを毛嫌いする皇帝。絶対的な聖女の発言力。
「……見返りは? 聖女である私があなたに協力したら、あなたは私に何をくれるの?」
「君が成そうとしていることを手助けするよ。僕の体は特殊だから、きっと役に立つはずだ」
真剣な表情の彼を見て、イリスは静かに問い掛けた。
「私が何をしようとしているか、分かって言っているの?」
「何となくね。言ったろう? 僕は人より耳が良いんだ。あの牢獄の中で起きた出来事はだいたい把握している。それに、君の事情もある程度は。自ずと答えは出るよ」
そうしてメフィストは、イリスへと改めて手を差し出した。
「僕に、君の復讐を手伝わせてくれ」
ピンと指先まで揃えられた黒革の手袋を見て、イリスは腹を決めた。もう誰も信じられないと思っていた自分を、こうもあっさり変えさせる彼の手腕に脱帽したのが大きかった。
「私にあなたの望みを叶える協力をさせて頂戴」
その手を握り返したイリスの言葉によって、月夜の下に聖女と大公子の密約が成立したのだった。
これからのことを話そうとイリスが口を開いたところで、メフィストがそれを止めた。
「大神官が君を探しに来たようだ」
メフィストの言葉通り、彼が顔を向けた先から汗だくの大神官が駆けて来た。
「イリス様! 探しましたぞ! どちらにおいでだったのですか!」
「猊下。私は久しぶりに外の空気に触れたのです。少しの間くらい自由にさせて頂けませんか」
「お、お気持ちはお察ししますが……陛下と皇太子殿下がお呼びなのです。急ぎ来ては頂けませんか? ……あの、その者は?」
イリスの隣にいるメフィストを見て、大神官は怪しむような目を向けた。
「丁度良かった。私も彼のことで陛下にお話があったのです。お二人はどちらに?」
「皇太子宮においでです。……まさか、その者も連れて行くのですか?」
「ええ。彼は私の大切な人ですもの」
うっそりと微笑んだイリスのその言葉に、大神官が目を剥いたのは言うまでもない。