愚鈍の骨頂
帝国の西部、干ばつにより不毛の地と化したラナーク領に派遣されていた神官ベンジャミンは、額に何かがあたり天を仰いだ。
そして目を見開く。
どんなに雨乞いをしようとも一滴の雨さえ降らなかった空から、ポツポツと雨が降り始めていたのだ。
「奇跡だ……」
飢えと渇きに苦しむ領民に心を痛めていたベンジャミンは、手を組んで神に感謝した。
「これは……いったいどうなっているのだ……?」
知らせを受けた皇帝は、帝国の地図を前に戸惑いの声を上げた。
「恐らく、イリス様の聖女覚醒と関係があるのでしょう」
そう言った大神官もまた、驚きを隠し切れない表情で地図を見る。そこには各地から報告された"奇跡"の詳細が書かれていた。
ミーナの力でも雨が降らなかったラナークに雨が降り、領土に蔓延る砂漠に水が湧き、寝たきりの病人が目覚め、枯れた土壌に新たな芽が芽吹いたという。それも全国各地から、"奇跡"としか言いようのない事例が同時多発的に報告された。
「ミーナ様が聖女として目覚めた時も、多少は"奇跡"の報告がございました。ですが、ここまでの規模ではありません。イリス様の力は、もしかしたら歴代の聖女の中でも類を見ない程のものかもしれませぬ」
それを聞いた皇帝は、目をギラつかせて大神官を見た。
「やはり、何としてもイリスをエドガーと婚姻させるぞ。イリスを一刻も早く皇室の手の内に入れるのだ。ここまで力を持つ聖女を取り逃すなど愚の骨頂。エドガーは何をしている?」
「先程、気を失われたきりでございます」
侍従長の答えに皇帝は頭を抱えた。
「なんと情けない……私が行くまでに叩き起こすのだ!」
「御意っ」
走り込んで行った侍従長の後を追いながら、皇帝はほくそ笑んだ。イリスの力が手に入り、完全に利用できれば、皇室に受け継がれて来た野望を叶えるのも夢ではない。
「サタンフォード……一度は手放してしまったあの楽園を、必ずや私の代でこの帝国に取り戻してみせようぞ」
ベッドに寝かされていたエドガーは、揺り起こされて目を開けるなり父から罵倒された。
「いつまで寝ているのだ、この愚か者め!」
「父上……どうか、全ては夢だったと言って下さい」
本気でそう願っている息子の言葉を、皇帝は切り捨てた。
「夢なわけがなかろう。これは現実だ。お前の妻となったミーナが偽者と判明し、お前が捨てたイリスが本物だった。更にはお前の母である皇后を殺したのはミーナで、イリスは無実。いい加減に現実を見ろ」
エドガーは、情けなく咽び泣いた。
「ふ、ううっ グスッ……どうして……っ、何故こんなことに」
「お前の見る目がなかったのだ。考えてみれば、皇后は正しかった。最後までミーナが妃になるのを反対していた。お前はくだらない恋愛ごっこにかまけて盲目となっていたのだろう。母の言葉すら聞かず悪女を愛した結果がこの様だ」
散々息子の心を抉るようなことを言った皇帝は、急に声音を変えた。
「イリスがな、お前とミーナの離縁及びミーナの処刑について猶予を設けるよう嘆願してきた」
「イリスが……?」
泣いていたエドガーが驚いて聞き返すと、皇帝は力強く頷いた。
「そうだ。イリスは本当にお前のことをよく分かっている。優しいお前が気に病んでいるだろうからと。あんな目に遭わされてもお前のことを気に掛けるなど、健気ではないか」
「……」
「エドガー、今一度考えてみよ。ミーナは本当にお前を愛していたのか? ただ権力に目が眩み、欲を出して近付いただけではなかったか? お前を愛していたのなら、お前の母をあんなふうに無惨に殺そうなどと思うか?」
「それは……」
「このままではお前は母を殺した相手と婚姻を結んだままなのだぞ。急ぎ離縁をし、真実お前を愛する者を迎えた方が良いのではないか?」
エドガーの心に去来したのは、幼い頃のイリスの姿だった。思えば出会った頃から気品があり、優雅で美しかったイリスのことを、エドガーは確かに好きだった。
しかし、成長するにつれ才覚を現し、自分よりも聡く成績も優秀なイリスへ、エドガーはいつの間にか劣等感を抱くようになっていった。
そんな時に出会った、明るく快活なミーナ。愛らしい彼女はエドガーの愚痴を聞き、慰め、時には一緒になって怒ってくれた。イリスとは絶対にしないようなそういった体験が楽しく、エドガーはイリスよりもミーナの隣にいることが増えた。
ミーナへの想いが募るのとは逆に、エドガーはどんどんイリスが疎ましくなっていった。しかし、そんなエドガーにもイリスは変わらず尽くしてくれていた。
もしかしたら、自分が間違っていたのかもしれない。先にイリスを蔑ろにしたのは自分だった。ミーナへの気持ちにいっぱいで気付かなかったが、自分はイリスに酷いことをしてしまったのではないか。
「父上、私は……どうすればいいのでしょうか?」
「うむ。なるべく早く、心を決めよ。悪女と縁を切り、本当に愛すべき者を見極めるのだ」
しかし、イリスのことを思い出そうとするエドガーの脳裏には、どうしてもまだミーナの笑顔が焼き付いている。
「……私には、もう暫く時間が必要なようです」
エドガーのその言葉に、皇帝は舌打ちをした。
「よく考えるのだ。そうだ、例えば想像してみよ。もし、イリスが別の男のものになれば、お前はどう思う?」
「イリスが……? それは有り得ません。だってイリスは私のことが好きなのですから。あのイリスが他の男に靡くわけがないでしょう?」
皇帝は、自分の息子が思っていたよりも愚鈍だったことに今初めて気付いた。これまでそれなりの公務をやらせて来たはずだが、ここのところ公務が滞っていたのはミーナに骨抜きになっている為かと大目に見ていた。しかし、思えばそれまではイリスがエドガーの代わりをしていたのかもしれない。
これだから偽聖女などに騙されるのだ、と心の中で毒づきながらも、それを敢えて指摘している時間はなかった。
皇帝はこれでますますイリスを手放すわけにはいかなくなったのだ。
「そんなのは分からんぞ。イリスは美人だ。今この瞬間にも、他の男がイリスに手を伸ばしているかもしれん。イリスがその手を取ったら? お前より強く、賢く、見目も良い男がイリスの隣に並んだら? お前はそれでも平気なのか?」
涙を拭って鼻を擤んだエドガーは、父の言葉をよく考えてみた。
エドガーにとって、イリスは昔から自分に所属する所有物の一つだった。面倒なことや難しいことを代わりにやってくれて、隣に置くには丁度良い美人で、連れて歩くには打ってつけの淑女。
イリスが他の誰かのものになることなど、考えたこともない。想像しただけで何だかすごく嫌だ。
エドガーは、胸にモヤッとした不快感が募るのを感じた。それをそのまま父である皇帝に伝えれば、漸く話が進められそうだと皇帝が身を乗り出した。
「お前はイリスを誰にも奪われたくないのだ。何故ならお前が本当に愛しているのはイリスだからだ」
「私が、イリスを……?」
「奪われたくなければ、早々に捕まえておけ。横から掻っ攫われて後悔してからでは遅いのだぞ」
ここまで言ってもなかなか踏ん切りのつかない息子に苛立ちながらも辛抱強く待った皇帝は、熟慮ののち顔を上げた息子の目を見てホッとした。
「父上のお陰で漸く気付きました。私はイリスも愛しています。誰にも渡しません。イリスはどこです? 早速捕まえておかないと」
「そうだな。それがいい。大神官、今すぐここにイリスを呼ぶのだ!」