偽者の了見
ミーナ・ランブリックは、帝国の片田舎の男爵家の私生児として生まれ、とても貧しい平民の母の元で育った。
血筋に比べて器量が良く、聡明で明るく心優しい。見る者の心まで華やかにするような、太陽のような笑顔を持つ天真爛漫な少女だった。ただの平民として育っていれば、ミーナは良き家庭を築けていたかもしれない。しかし、父であるランブリック男爵は、ミーナの愛らしい容姿に目を付けた。
「お前を男爵家の一員として認める。代わりにアカデミーで高位貴族の令息を誑し込んでこい」
反発しつつも父に逆らえなかったミーナは、アカデミーで運命的な出逢いを果たすこととなる。
皇太子であるエドガーが、ミーナを見初めたのだ。
交流を重ね、逢瀬を重ね、親交を深める中でミーナとエドガーは互いを想い合うようになっていく。
しかし、エドガーには既に婚約者がいた。誰もが憧れる筆頭公爵家の令嬢、イリス・タランチュラン。ミーナは、何をやっても敵わないであろうイリスに、劣等感を抱くようになっていく。
そんなある日、事態はミーナにとって良い方向へと転ぶ。何の取り柄もない田舎の男爵家の私生児だと侮蔑されてきたミーナが、聖女として神の加護を受けたのだ。
ミーナのブラウンの瞳は聖女の証たるルビー眼に変わり、その力で雨を呼び、病人を治し、枯れた土壌に恵みを齎した。人々はミーナを崇め、彼女の愛らしい容姿もあって、ミーナはいつの間にか国中の憧れの的となっていった。
そうして聖女であるミーナと皇太子エドガーのロマンスが、あちこちで取り沙汰されるようになった。これにより正規の婚約者であるイリスの評判は急落し、誰もがミーナを皇太子妃に望むようになったのだ。
ミーナは、ツンとした態度で何事もなかったかのように取り澄ますイリスを見て、言いようのない優越感を覚えた。それはまるで甘い蜜のようにミーナの心を虜にし、いつしかミーナは、他者の上に立てる権力や名声をより強く欲するようになっていった。
そうしてミーナは、天真爛漫な少女から、欲にまみれて他者を蹴落とすことに快感を覚えるような悪女になっていった。
イリス・タランチュランの人生と同時に、ミーナ・ランブリックの人生もまた、こうして狂い出していったのだった。
宰相がイリスの血筋について調査を進める中で、イリスはメフィストと共に帝都の外れにある離宮へと来ていた。
そこに幽閉されているミーナの様子を見るためと、上乗せされた罪状をミーナに伝え、新たな取引をしようと思ったからだった。
しかし、離宮の一室でベッドに横になっていたミーナの姿は、イリスが想像していたのと全く異なる姿だった。
「ミーナ……あなた、」
「ん……あぁ、来たのね」
イリスとメフィストの姿を見ても、ミーナは直ぐに起き上がろうとしなかった。それどころか顔色が悪く、明らかに体調を崩しているようだった。
「これは、どういうこと? あの暗い牢獄から出してあげて、幽閉とは言え、離宮の一室を与えてあげたのよ? どうしてそんなに弱っているの?」
イリスの言葉を受けたミーナは、ゆっくりと起き上がった。イリスが思わず手を伸ばしてしまう程、その姿は弱々しかった。
「別に……病ではないわ」
起き上がったミーナの姿を見て、イリスはハッとした。
「ミーナ、あなたまさか……妊娠していたの?」
ミーナの腹は、それとギリギリ分かる程度に膨らんでいた。
「……言っておくけど、エドガーの子よ」
自嘲気味に笑いながら、ミーナが自らの腹を撫でる。
「その子を使って、今度は何をする気?」
イリスの鋭い問いに、ミーナは肩の力を抜いて、疲れ切ったように話した。
「……最初は、この子がいればまた地位を取り戻せるって思ってた。だから何としても牢獄から出て、時間を稼ぎたかったのよ。……けど、今は違うわ。地位も名誉も、もうたくさん。何も要らない。……ただこの子が無事に生まれてくれて、幸せに生きてくれればそれでいいわ」
強欲なミーナらしからぬ、まるで善良な母親のような言葉に、イリスは憤りと、言いようのない虚しさを覚えた。
「あなたは犯罪者で、エドガーはそのうち廃太子となるわ。二人の子供として生まれても、その子は不幸になるだけよ」
「そうでしょうね。……だから、できればこの子には、親の顔なんて知らずに育って欲しいと思っているの」
どこまでも張り合いのないミーナに、イリスは戸惑いながらも怒りを抑えられなかった。
「身勝手なことを言わないで! 今の私は、あなたごとその子を殺すこともできるのよ?」
イリスの叫びに、ミーナもまた声を荒げた。
「そうでしょうね! けど、アンタに何が分かるの!? 生まれた時から恵まれていたアンタに、私の気持ちなんて分かりっこないわ!」
ミーナはイリスを睨み上げた。
「私の父の家門、ランブリック男爵家は百年前まで侯爵家だったわ。それが、百年前の馬鹿な当主が不祥事を起こして男爵家に降格され、領地の大部分も没収されてしまった。侯爵家での暮らしを忘れられない愚かなご先祖様達は、残っていた財産が底をついても使い続け、今の男爵家は借金まみれよ」
声を震わせながら、ミーナは吐露する。
「そんな男爵家が、私生児ごときの私を拾い上げた理由が分かる? この見た目で、金持ちの男を捕まえさせるためよ。娼婦のようにね。馬鹿みたいでしょう?」
「…………」
枕を叩いて、ミーナは涙を流した。
「そんな中で出逢ったエドガーを、私は確かに愛してた。愛していたのよ。なのに……どうしてこうなったのかしら。私の地位を盤石にするという皇帝の話に乗って、侍従長や大神官に駒のように扱われて。何もかも手にしたと思った日に、何もかもを失ったわ。今の私に残っているのは、この子だけ……」
ミーナの切実なブラウンの瞳が、涙に濡れながらイリスに向けられる。
「……罪を、償うわ。あなたに対してした罪、皇后を殺してしまった罪。我儘を尽くして、国民を困窮させた罪。全部私自身が償う。必要なら何だって白状するし、あなた達に協力するわ。だから、イリス……お願い。この子を助けて」
宿敵に縋られたイリスは、復讐を誓ったはずのミーナの体が細く弱々しいことに初めて気が付いた。その手を引き剥がしながら、イリスはルビー眼でミーナを見下ろした。
「都合のいいことを言わないで。私は絶対にあなたを赦さない」
ミーナを赦すには、イリスの受けた仕打ちはあまりにも酷すぎた。到底赦すことなどできないと思いながらも、イリスは身重のミーナを突き飛ばすことはできなかった。
「イリス。君が手を汚す必要はない。僕がやる。ミーナの腹の子は、いずれ君の脅威になるかもしれない。残酷かもしれないが、今ここで消した方がいい」
イリスを護るようにそう言ったメフィスト。
イリスは本音を言えば、ミーナとエドガーの子なんて、今すぐにでも消してしまいたかった。けれど、母の顔をするミーナを見ていると、どうしてもメフィストの言葉に頷くことができなかった。何より、ミーナの中に宿る子供に罪はない。
『罪なき者に罪を押し付けてはいけない』
夢の中でウサギに言われたことを思い出し、あの神はこのことまで見越してあんなことを言っていたのかと今更ながらに憎らしくなる。
「メフィスト。手を下ろして」
「イリス……今を逃せば、難しくなる。それでもいいのか?」
「……私だって、本当は今この場で殺してしまいたいわ。だけど、私は聖女なのよ……今、この立場を失うわけにはいかないわ。まだ復讐は終わってないんですもの」
イリスは、ミーナへと改めて視線を向けた。
「……その子が生まれた後は、あなたとは会わせない。どこの家門に預けるかも私が決める。そしてあなたには、余罪も上乗せした罪を償ってもらうわ。例えそれが斬首刑であってもよ。それでいいかしら」
イリスの言葉を聞いたミーナは、少女の頃のように純粋な気持ちで微笑んだ。
「充分よ。ありがとう」
「……勘違いしないで。これは取引よ。出産まで刑期を遅らせる条件として、あなたには洗いざらい白状してもらうわ。皇帝や大神官、侍従長との話を」
「分かったわ」
真面目な顔で頷いた血色の悪いミーナの顔を、イリスは複雑な思いで見ていたのだった。
「……イリス様」
皇宮の中で、イリスの帰りを待ち構えていたかのように、その影は物陰から飛び出してきた。咄嗟にイリスを護ろうとしたメフィストの後ろから影の正体を見たイリスは、前に出て問い掛ける。
「大神官猊下。あなたが私に何の用?」
沈痛な面持ちの大神官が、隈のできた空な目をイリスに向けた。
「……侍従長が死んでから、私にも思うところがあり、是非イリス様にお話を聞いて頂きたいのです」
メフィストと目を見合わせたイリスは、窶れきった様子の大神官を改めて見た。
「……いいでしょう。お話を聞きますわ」
いつかと同じように、メフィストの部屋で向かい合った大神官は、何かに取り憑かれたように暗い顔をしていた。
「それで、話とは?」
「……神殿は、既にベンジャミンが掌握しております。仕事の早い男ですから。やるとなれば、あっという間でしょう。ナールシュの幻覚剤も押収され、イリス様の思惑通り、直に神殿の恥ずべき実態が明るみに出るでしょう」
「!? 大神官、あなた……私達がベンジャミン神官と接触したことを知っていたの?」
イリスが驚けば、大神官はただ頷いた。
「こう見えても大神官の位を頂戴している身ですから」
「分かっていて、どうして抵抗しなかったのだ?」
メフィストが問えば、大神官は正直に答えた。
「……潮時だと思ったのです。これまで私は皇帝陛下の為に尽くし、神殿内を思い通りにしてきました。その中で見つけたナールシュの新たな効用。それを利用した幻覚剤。それらを国中にばら撒いた私は、いつか神の裁きを受けるであろうと、ずっと危惧しておりました」
淡々と語る大神官は、イリスの胸元に光るロケットペンダントを見た。
「イリス様。私は、全ての罪を告白し、罰を受けようと思います。そして、陛下の所業についても議会で告発する用意があります」
「……急にどうして? 何を考えているの?」
イリスの疑いの目を甘受しながら。大神官は、疲れ切った表情で告白した。
「私が皇帝陛下に仕えてきたのは、亡き皇太后陛下……先先代の聖女様に報いる為でした」
まだハッキリとした証拠はないが、皇太后は、イリスの祖母にあたる人物。大神官はイリスの中にその人物を重ねながら、深く息を吐いた。
「孤児であった私を救って下さった皇太后陛下は、神官としての心得を説いて私を導いて下さいました。その生涯の恩に報いるには、皇太后陛下のご子息……皇帝陛下を献身的にお支えすることしかないと信じて、今日まで生きて参りました。その為なら悪事にも喜んで手を染め、神殿でさえも思うままに改変させてきました」
「…………そこまでしておいて、何故その地位を手放そうとしているの?」
「皇帝陛下は、私のことをなんとも思っておりません。侍従長がそうであったように、どんなに尽くそうとも、邪魔になれば切り捨てられる。侍従長の死を目の当たりにして実感しました。これほどに虚しいことはありましょうか。そして、侍従長の遺したイリス様のペンダントを見て、私が真にお仕えすべきだったお方が何方か、分からなくなったのです」
大神官は、イリスが再びペンダントを手にしたことも、そのペンダントの元の持ち主も知っていたかのようだった。
「……このペンダントの意味を、知ってるのね?」
イリスが慎重に問い掛けると、大神官は静かに頷いた。
「私が生涯を掛けて敬愛するお方の遺品です。そして、それがイリス様に受け継がれたということは……イリス様の母君は、あの日私が協力して皇宮から逃した、エリザベート皇女殿下ということでしょう」
「! あなたが、お母様を?」
「私には、イリス様の血筋を証明する手立てがあります。私が望むのは、ただただ楽になること。悪事に手を染めるのはもう御免なのです。どうか、イリス様の手で全てを終わらせて下さい」
帝国議会……高位貴族の大臣と、皇帝、皇太子、聖女、大神官等が出席するその国政会議にて。
聖女イリスは、声高に宣言した。
「聖女の名において。そして……幻の皇族であるエリザベート皇女の娘であり、正当な皇位継承権継承順位第二位の序列にある者として。私、イリス・タランチュランは、皇帝エイドリアン及び皇太子エドガーに対し、廃位を要求致します」





