真実の聖女
夜明け前、牢獄に駆け付けた大神官が見たのは、聖女の証である紅色のルビー眼を煌めかせて背筋を伸ばす、イリス・タランチュランだった。
「大神官猊下、お待ちしておりました」
「イ、イリス嬢……その瞳は、その溢れんばかりの聖力は……」
慌てふためいた大神官に向けて、イリスは微笑む。紅色の輝きを放つルビー眼が、三日月の形に歪んだ。
「夢で神のお告げを受けまして。目が覚めたらこのように」
「……神の、御意志を直接賜ったと?」
目を見開いた大神官は、衝撃に手を震わせていた。
「どうやらそのようです。私も半信半疑でしたが、大神官猊下がこのような所にまで足を運ばれたということは、猊下も神託を授かったのでしょう? 神は何と?」
「か、神は……罪を犯した偽りの聖女を廃し、無実たる真の聖女に加護を授ける、と」
「それでは、ミーナは聖女の力を失ったのですか?」
「はい、左様でございます。イリス嬢、いや……イリス様! どうかこの通りです」
膝を突いた大神官が、イリスへと頭を垂れる。
「あの日の私の過ちをお赦し下さい。神が御加護を授けられたというのであれば。真に正しかったのは貴女様でございます」
「……あの日のことは、決して忘れません。無実を訴える私を、猊下は背信者であると断言しましたね」
「っ!」
「ですが、赦しましょう。私の言葉を信じて下さるのであれば、私は他に何も望みません」
イリスが微笑めば、大神官は脂汗に濡れた顔を輝かせた。
「ああ! なんと慈悲深い聖女様であることか! 間違いを犯し、偽りの者を崇めていた私にそのような御慈悲を頂けるとは……! お約束致しましょう。神の御意志が何よりの証拠。今後、イリス様のお言葉を全面的に信じ、神殿を上げて支持させて頂きます」
「そうですか。それでは、私はいつ、この牢獄から出られるのでしょうか?」
「急ぎ皇帝陛下に許可を仰いでおります。今暫くお待ち頂けると……」
「猊下。私はもう、十分過ぎるほど耐えました。見て下さい。この牢獄には、日の差す場所すらなく、ジメジメと湿り、虫がわき、水すら満足に与えては貰えません。このような場所に、無実の聖女をいつまで閉じ込めるのですか」
「今少し! 今少しだけ、お待ち下さい! 私が直接出向き、陛下の許可を賜って参ります」
イリスが頷けば、大神官は飛ぶほどの勢いで走り去って行った。その背中を見送りながら、イリスは今後のことを考えていた。
如何にして、己を貶めた者達へ復讐するか。
ミーナが現れた時から狂い出したイリスの人生。それを取り戻す為に、イリスは一先ず猫を被ることにした。本来であれば、あの大神官にかける慈悲などイリスは持ち合わせていない。
本当は今すぐにでも、あの肥えた腹を蹴り上げ、屈辱を与えられた恨みを晴らしてしまいたい。
しかし、イリスは、今はまだその時ではないと息を吐く。己の味わった恐怖、怒り、嘆き、絶望、孤独、後悔。その全てを、イリスを蔑ろにし死に追いやろうとした人々へと何倍にもして返さなければ気が済まない。
神もまた、復讐したいというイリスの言葉に力を与えてくれた。だったら、とことん聖女の立場を利用して復讐をしてやろう。
そう決意したイリスは、ミーナが演じてきた"聖女"そっくりの笑顔を真似てルビー眼を細めるのだった。
「大神官、如何であった?」
大神官を待ち構えていた皇帝が早口に聞くと、大神官は汗を拭いながら答えた。
「……間違いなく、イリス様は聖女でございます」
「っ……、では、我々は聖女を断罪したというのか!?」
「左様でございます。そして神託の通りであれば、イリス様は無実だったということ。陛下、これは由々しき事態。急ぎ今後の策を練らねば、この国は終わりです」
大神官の顔からは血の気が失せており、手も震えたままだった。それを見た皇帝は、事態の深刻さに思い至り己の額を押さえた。
「陛下! どうか、冷静なご判断を!」
そこへ割り込み声を張り上げたのは、皇宮の侍従長だった。
「ミーナ様が聖女でなくなり、悪女として処刑予定のイリス様が聖女になった……偽物を擁護し、本物の聖女であったイリス様を虐げたとあれば、皇室の威信は地に落ちます!」
唾を飛び散らしながら奏上する侍従長に、皇帝は煩わしげに手を振った。
「分かっておる! だからこそ、私も頭が痛いのだ。いったいどうしてこうなった。ミーナは本当に偽物だったのか?」
皇帝が大神官に問えば、大神官はすぐさま頷いた。
「試しましたが、ミーナ様の力は失われたまま少しも残っておりません。対してイリス様の力は一目見て分かるほどに強く、ミーナ様の力を遥かに凌ぐものです。イリス様の方が本物であると、認めざるを得ません」
皇帝の執務室に、絶望的な沈黙が落ちる。
「……だが、そんなことを公表すれば私の判断が間違っていたことを国中に晒すようなものではないか! 嘘吐きのミーナを聖女と崇め、真の聖女イリスの言葉を切り捨てて断罪したなどと……それも、エドガーとミーナの婚姻の直後にこのような……今更ミーナを排除し、イリスを皇太子妃にしろというのか!?」
怒鳴りながら花瓶を投げ付ける皇帝に向かい、大神官はハッキリと告げた。
「ではどうなさるおつもりですか? 聖女がいなければこの国は終わりです。そう遠くない未来に滅びの時が来るでしょう。ここは恥を忍んでイリス様の機嫌を取るべきです。その為には偽物の排除もやむを得ませんでしょう」
「チッ! あの、エドガーの馬鹿息子め! よりにもよって本物を捨て、偽物と婚姻するとは! 誰もがあやつと偽物の言葉を信じた! それが偽りとも知らず! 全てはあやつの責めだ! あやつがもっとしっかりしておれば、こんな事態にはならなかったものを!」
手当たり次第に物を投げながら、皇帝は髪を振り乱していた。それを避けながら、侍従長が大神官へ反論する。
「皇室の面子は何よりも優先されるべきもの! 陛下の判断が間違いであったなどと、帝国始まって以来の皇室の不祥事を国中に晒せと仰るのか!?」
「では、このまま偽りの聖女を崇め続けろと? 聖力はおろか、ルビー眼を持たぬただの女を? 聖女の証は見てすぐにそれと分かるルビー眼。偽造など不可能な上に、隠せば神への冒涜となります。イリス様が公の場に出れば、誰が聖女であるか一目瞭然。もう逃げようはありません。素直に罪を認め、潔く謝罪するのです!」
大神官が言えば、侍従長は言葉を詰まらせ、皇帝は呻き声を上げて机を叩いた。
「そもそもイリスが無実だというのであれば、誰が皇后を殺したのだっ!?」
「……陛下。神託には、罪を犯した偽りの聖女とありました。自ずと答えは出てきましょう」
憎々しげな皇帝へと、大神官が静かに答えれば。皇帝は驚愕の表情で声を震わせた。
「まさか、ミーナが? 皇后を毒殺したのは、イリスではなくミーナだったというのか!?」
「可能性は高いです。あの日、イリス様はミーナ様の証言によって犯人と特定されました。しかし、ミーナ様のその証言が偽りであったなら……」
ダンッ、と机を蹴った皇帝が侍従長へと顔を向ける。
「侍従長。そなた、あの日皇后に茶を淹れたのはイリスであったと証言したな。あの場に居たのは皇后とイリス、ミーナ、そしてそなただけ。正直に申せ。本当にイリスが皇后の茶を淹れたのか?」
問い詰められた侍従長は、真っ青になり両膝を突いて頭を地面に擦り付けた。
「申し訳ございません! 聖女様に……ミーナ様に脅されて、嘘の証言を致しました! あの日、皇后陛下に茶を淹れたのは、間違いなくミーナ様でございます!」
「ッ……! では、やはり皇后を殺したのはあの偽聖女ミーナではないか! 侍従長、この責めはいずれ取らせる。それよりも今はイリスへの対応だ! まさか本当に無実だったとは……くそっ! 何か手はないのか!?」
「……イリス様を悪女と信じている国民はイリス様が夜明けと共に処刑されるのを待ち侘びています。一刻も早く真実を公表しなければ、聖女であるイリス様を処刑しろという声が大きくなる一方です」
その大神官の言葉に、皇帝が顔を上げる。
「……イリスの様子は? 我らに対し、恨みを抱えておるか?」
「お話しした限りですと、何とも申し上げられませんが……今後イリス様を蔑ろにするようなことがなければ、懐柔は可能かと思われます。まるで憑き物が落ちたかのようなお顔をされておいででした。聖女として目覚めたことで、人格も慈悲深くなられたのでしょう」
「そうか。では、イリスが我々を赦し、聖女として国に尽くしてくれる余地は充分にあるのだな?」
「はい」
大神官の頷きを見て、皇帝は腹を決めた。
「真の聖女イリスを解放し、偽りの聖女ミーナを牢獄へ送るのだ」
「陛下! ですがイリス様は反逆者の娘なのですぞ!?」
悲痛な叫びを上げた侍従長を一瞥して、皇帝は苦々しげに吐き捨てる。
「タランチュラン公爵の反乱の際、イリスが処刑を免れたのは、皇室に父の陰謀を密告したからだ。その時点でタランチュラン家の反逆とイリスは無関係。一方ミーナは田舎の男爵家の私生児にすぎぬ。それが聖女の力を持っているというだけでこれまで重宝してきたが、何の力も持たん田舎の小娘にもう用はない!」
侍従長を押し退けて、皇帝は指示を飛ばす。
「真実を公表し、真の聖女を皇太子妃として皇室に迎え入れる! 急ぎエドガーとミーナの離縁を進めよ!」
皇帝が力強く手を翳すと共に、夜が明け始めた。





