烈火の逆鱗
「何をする気……!?」
ベッドの上で後退ったイリスを見下ろしながら、エドガーは酒臭い息を吐いた。
「お前が悪いんだ。俺を捨て、あんな男の元にいくなんて許さない。お前のせいで、俺にはもう後がないっ」
「きゃっ!」
グイッと手を引かれたたイリスは、その細腕でエドガーを押し退けようとするも、ベッドの上に乗り上げてきた男の体はビクともしなかった。
「イリス……! お前は俺のモノだっ!」
「嫌よ、やめてっ!!」
押さえ付けられたイリスは、恐怖に震えた。ギラついた目で自分を見下ろすエドガーが、幼い頃から知っているはずのその男が、全く別の、得体の知れない獣のように恐ろしく見えて仕方なかった。
「……————メフィスト! 助けて!」
叫んだイリスの頬を、エドガーが殴り付ける。
「馬鹿がっ! 聞こえるわけないだろうっ!?」
涙目になったイリスの胸ぐらを掴んで、エドガーはうっそりと笑った。
「そうだ。俺だけを見ろ! 他の男を見るのも、呼ぶのも許さない。そのルビー眼は俺だけに向けられるべきものだ! 父上の言った通りだった。奪われるくらいなら、無理矢理にでも奪い返せばいい!」
酔っているのか、赤らめた顔で焦点が合っていないながらもエドガーの力は強かった。引き摺られるようにして、イリスの細い体がエドガーに組み敷かれる。
「お前が俺の子を孕めば、全て元通りになるんだっ! 次期皇帝の座も、父上の期待も、お前の心も、優しかったミーナも、死んだ母上だって! みんな俺の元に戻って来るはずだっ!」
「な、何を、言っているの……?」
正気とは思えないエドガーの発言に、イリスの声はか細く震えた。言葉の通じない相手ほど怖いものはないのだと、この時イリスは初めて知った。
「大人しくすれば可愛がってやる」
声も出せないイリスに手を伸ばすエドガーの、不気味な程に恍惚とした顔を見上げたイリスは、恐怖と嫌悪感に吐き気がした。
「元から俺達は、こうなる運命だっただろう?」
——————運命。その言葉でイリスが思い浮かべるのは、目の前の壊れた皇太子ではない。運命の相手は自分で決めると豪語する、エメラルド色の瞳。
「私の運命は、あなたなんかじゃないっ!」
あの緑色を思い出すだけで震えが止まったイリスは、思い切りエドガーを蹴り上げた。
「くっ……この女っ!」
悶絶しながらもイリスの首に手を伸ばしたエドガーは次の瞬間、汚い悲鳴を上げながら真横に吹き飛んでいた。
「どこまでも見下げ果てた奴だ」
「メフィスト……!」
イリスの上からエドガーを吹き飛ばしたメフィストが、いつも浮かべている優しげな表情を失くし、燃えるように冷たい視線をエドガーに向けていた。
「悪いが、……怒りで加減できそうにない。せいぜい死なないように祈ってくれ」
血管を浮き上がらせたメフィストの両手から、炎が上がる。
バチバチと爆ぜる火の粉がメフィストの怒りを表しているように舞い上がり、熱い火花を散らせながらメフィストは吹き飛んだエドガーの元へゆっくりと歩き出した。
「やめっ………!」
先程の衝撃で腰を抜かしたエドガーは、立ち上がることもできずに地べたを這って逃げようとした。
「俺が悪かった! 助け……ッ」
恐怖に慄いたエドガーが命乞いする間もなく、メフィストは烈火の如く燃え上がる拳でエドガーを殴り飛ばした。
「ぐあっ!!!」
頬にくっきりと火傷の跡をつけながら、殴り飛ばされたエドガーが壁にぶつかり潰れるように床に沈む。すかさずメフィストが二発目をお見舞いすると、恐怖からか、痛みからか。エドガーは白目を剥いて口から泡を吹いた状態で意識を失った。その顔はメフィストの拳により醜く腫れ上がって、元の整った顔立ちは見る影もなかった。
「メフィスト……!」
「……イリス!」
尚も怒りの熱が収まらないのか火花を散らすメフィストに、イリスが名を呼び掛けると。怒気を霧散させたメフィストはベッドに駆け寄り、震える手でイリスを抱き締めた。
「……無事か?」
「ええ。来てくれてありがとう……」
イリスもまた、メフィストの体に手を回し思い切り抱き締め返した。暫くそうしてお互いの存在を確かめ合っていた二人は、駆け付けてくる衛兵の騒がしい足音に体を離した。
寝衣姿の乱れたイリスにメフィストが自らの上着を掛けていると、真っ先に飛び込んで来た皇帝が焼き切れた扉や床に転がったエドガーと無傷のメフィストを見て態とらしく叫ぶ。
「これはっ……いったい何があったのだ!? エドガー!? 皇太子エドガーが暴行を受けた! 犯人はサタンフォードの大公子だ! サタンフォード大公子を捕らえよ!」
「お待ちなさい!」
衛兵が戸惑いつつも動き出そうとしたところで、イリスが声を張り上げる。
「皇太子エドガーは、私の寝込みを襲い、あろうことか無理矢理手篭めにしようとしたのです」
イリスのこの言葉に、衛兵の後ろから覗き込んでいた使用人の女性陣が息を呑んだ。男性陣も眉を顰めてエドガーを見る。
「聖女である私に危害を加えようとしただけで充分な罪になるというのに、エドガーの行為はどこまでも下劣で野蛮です。メフィスト様はそんなエドガーから私を護って下さっただけ。メフィスト様を拘束することはこの私が許しません」
辱めを受けそうになったことを堂々と宣言したイリスに、床にへばりついている皇太子へ侮蔑のこもった視線が向かう。
この状況に奥歯を噛み締めた皇帝は、諌めるような表情をイリスに向けた。
「……イリス。エドガーにもエドガーの言い分があろう。それを聞かず、聖女であるそなたが、隣国の大公子ばかりを贔屓するのは如何なものか」
「そこまでになさいませ」
イリスが反論しようと口を開く前に、力強い声が響いた。
夜分にも関わらず、堂々とした足取りで廊下を颯爽と進みやって来たその人の姿を見て、皇帝が目を見開く。
「何故……何故そなたがここに……!?」
皇帝の前で堂々と歩みを止め咳払いしたその人は、この国の宰相、ルフランチェ侯爵だった。





