物語の未明
イリス・タランチュランは、牢獄の冷たい床で夢を見た。
一羽のウサギがイリスに近づいて来て、ふわふわモフモフの毛を押し付けてくる。イリスがその柔らかな耳を撫でると、ウサギは満足げに目を細め、こう言った。
『気に入ったぞ』
驚いたイリスが手を引っ込めようとすれば、ウサギは真っ白な毛並みを黄金に輝かせ、更に続けた。
『我はこの物語の神である。君は悪役令嬢としては些か大人し過ぎたものの、自らの使命を全うした。しかし、ヒロインのミーナはそうではない。ミーナは清らかさに欠け、強欲で残忍だ。ミーナの所為でこの物語は何とも不完全燃焼な結末を迎えてしまった。我は配役を間違えたと後悔した。故に、完結したこの物語を今から脚色しようと思う』
『な、何のお話ですか……?』
ウサギが光って喋るだけでも驚きなのに、神だと名乗った上に訳の分からないことを言い出すのでイリスは震えながらウサギを見た。するとウサギは、そのルビーのような目でイリスに問い掛けた。
『ミーナやエドガーが、憎くはないか?』
イリスは、夜が明けると皇后毒殺の罪により斬首刑に処される予定だ。無実である自分が処刑台に送られる要因となった二人のことを思い出して、奥歯を噛み締める。
イリスから婚約者を奪い嘘の証言で陥れたミーナと、ミーナと浮気してイリスを断罪した元婚約者のエドガー。どちらもイリスにとっては、苦い思いを抱く相手だ。
『……憎いと言えば、確かに憎いです。でも、私が今更何を主張したところで変わるものはありません。人々が信じるのは、聖女であるミーナの言葉だけ。私の主張は退けられ、より屈辱的な汚名を着せられるだけです』
『君の主張を、誰もが信じざるを得なくなったならどうだ?』
イリスは、これが夢だと自覚していた。だから、そんなことが実現するわけはないと思いながらも答えた。
『もし、本当にそうなれば。私はあの二人と、私を蔑ろにした全ての人々に復讐するでしょう』
神を名乗るウサギは満足げに大きく頷くと、こう言った。
『やっぱり君を聖女にする』
その言葉の意味を理解するよりも早く、イリスの体が光に包まれた。夢の中だというのに、イリスは体が熱くなり、目の奥が痛んで目を瞑る。
『どうかこの物語を、本当の完結へ導いてくれ』
次に目を開けた時、イリスはいつもの見慣れた牢獄の、固く冷たい床の上で飛び起きていた。目が、燃えるように熱かった。
夢の名残に心臓がバクバクと鳴る中、視界の端、牢獄の隅にできていた水溜まりに紅色が反射した気がした。薄闇の中その色の正体を探ろうと、水溜まりを覗き込んだイリスは、思わず後ずさる。
「はっ……あはは、」
自分の目に手を伸ばし、イリスは笑う。そして天に向けて感謝した。
「神様、ありがとうございます……!」
イリス・タランチュランが牢獄の中で飛び起きた同時刻、神殿では大神官が神託を受けていた。
「な、なんと……!」
「猊下! どうされました!?」
「神託だ! 急ぎ皇帝陛下に謁見の要請を!」
神官達が慌てて動き回る中、何も知らぬミーナは皇宮の皇太子宮にて皇太子であるエドガーの腕の中、幸せそうに眠っていた。本日婚姻を済ませた二人には何の憂いもなく、豪華な広いベッドとふかふかの布団、周囲にはミーナの為に用意された宝飾品やドレスの数々。
田舎の男爵家の私生児に過ぎなかったミーナは今や、誰もが羨む皇太子妃である。その特権で贅沢を極め、我儘を尽くし、ミーナに執心しているエドガーを意のままに操る。
そんなミーナが人々から支持されるのは、その清らかで愛らしい見た目と、何より聖女であることが大きかった。
全てを手に入れた、言うなれば壮大な物語のヒロインのように輝いていたミーナの人生。その中において正に絶頂のその日、突如としてミーナの幸福は音を立てて崩れ始める。
「皇太子殿下! 妃殿下! 火急の知らせです!」
眠りを妨害する激しいノックに目を覚ましたミーナとエドガーは、不機嫌たっぷりに汗だくの侍従長を出迎えた。
「婚姻初夜のこんな時間にいったい何の用だ!?」
「神託です。驚くような神託が下り、皇帝陛下が急ぎ両殿下をお呼びにございます」
「神託だと? そんなことでいちいち騒ぐとは。こっちには神に愛された聖女、ミーナがいるというのに。まあ、父上がお呼びなら仕方ない。ミーナ、悪いが準備をしてくれるかい?」
と、そこで。ミーナの方を見遣った皇太子エドガーと侍従長は、目を瞠った。
「ミ、ミーナ……」
「妃殿下……」
「エドガー? どうかした?」
キョトンと首を傾げた皇太子妃ミーナは、平凡なブラウンの瞳をしていた。
「ミーナ! そなた、聖女の証のルビー眼はどうした!?」
「え……?」
エドガーの叫んだ言葉の意味が分からず、狼狽えたミーナへ、侍従長が恐る恐る鏡を指す。無駄に速まる鼓動に嫌な予感を覚えながら鏡を覗き込んだミーナは、自分の瞳を見て驚愕した。
「そんな……!」
今日までミーナが全てを手にしていたのは、ミーナが神に愛された聖女であったため。しかし、鏡の中のミーナは聖女の証たる紅色に煌めくルビー眼を持ち合わせておらず、そこに在るのは驚愕の表情で自身を見返す平凡なブラウンの瞳だった。
「やはり、あの神託は本当だったのか……」
膝から崩れ落ちて愕然とした侍従長の言葉に、苛立ったエドガーが掴みかかる。
「いったい、どんな神託が下ったというんだ!?」
「か、神が……罪を犯した偽りの聖女を廃し、無実たる真の聖女に加護を授ける、と……」
「何だと!? ミーナが、偽りの聖女だというのか!? ミーナ以外の誰が真の聖女だというのだ!」
エドガーに詰め寄られ、侍従長は放心しながら答えた。
「神託によれば、真の聖女は……————イリス・タランチュラン————……とのことです」
エドガーとミーナが、盛大に息を呑み硬直する。
ヒロインのミーナが皇太子であるエドガーと結ばれ、悪女イリスは処刑される。『めでたしめでたし』と締め括られたはずの物語が、この未明を境に再び動き出したのだった。





