吹雪の帰り道
夜道を北へ走らせる一台の自動車があった。
今朝がたから降り始めた、雪とも霙ともつかぬ白いものは、終日、風に煽られ千切れながら宙を舞い、そのくせ一向に積ることもなく、落ちた端から溶けては、徒に地面を濡らしていた。
路上で積雪か路面凍結にでも遭えば、立ち往生は避けられず、もはや夜のうちに帰ることは叶うまい。その心配がないのは、車中の二人にとっていまや不幸中の倖いだった。
揃って欠勤することにでもなれば、職員室にどんな噂が立つことやら。ましてや昨今と違い携帯電話など影も形もない頃である。山中では連絡の手段とてなく、そのままでは無断欠勤となる。天候如何では、そうなる可能性は充分にあったのだが、二人は今日の日を選んで決行した。
まこと、若さとは無謀な賭けをも厭わぬ、堪え性のない季節であった。尤も、齢をとったらとったで、これまたある意味で堪え性がなくなってしまうので、特に老若は関係ないのかもしれぬ。
この日、男は女の課した、世にも底意地が悪く、難関な試験に不合格となったのであった。
二人が諦めてその家を辞去したのは、午後の八時を少し過ぎた頃だった。男の方は、二人を憐れみ、玄関先まで傘をさして見送りに出てくれた女の母親と兄弟に、辛うじてつくり笑いを浮かべ、にこやかに体面を繕って、幾度も、よく通る、高めの明るい声で別れの挨拶を送っていた。数歩先の女は、足を停め、首だけを、裏に竹藪の生い茂った崖が迫る母屋の方に向けて、そんな一固りの光景を、無言で無表情に眺めていた。庭は氷水で濡れ、泥濘と化している。大柄の男がぺこぺこと下げる頭の頂にも、自慢の黒いコートにも、雪はかかるが、落ちる端から溶けて行き、決して白くはならない。
初めて、二人で出かけたときには、俄に天気雨に降られたものだった。空は澄み切ったかんかん照りなのに、どうやって降っているのか、大粒の、激しい雨だった。――
女はそんなことを思い出し、振り返るのをやめ、鍵も持たぬまま、少し先の、男の乗用車へ歩いた。庭を挟み、母屋と向き合うように、納屋が三棟、並んでいる。農機具やトラック、そして、この家の乗用車が納まっているので、男の自動車は庭に停めてあった。漸くに挨拶を済ませた男は、追いつくと、鍵を開けて先に自動車に乗りこみ、雪の舞う中、長い黒髪をなびかせて待っている女のために内側からロックを外し、車内へ入れた。それからエンジンをかけてやたらと空吹かしさせながら、慌しく方向変換させ、庭に轍と水溜りを幾つも作った。
玄関の前には、女の母親が、まだ独りで立っていた。男は一度自動車を停めて、ハンドルから片手を離し、ぺこぺこ頭を下げながら、車内から手を振った。助手席の女は、そんな男に対して、何を言う気力もなく、がっくりとうなだれていた。やがて自動車は敷地内からゆるゆると発進し、表の細い道へと出た。
その頃女の父親は、居間の掘り炬燵に入り、蜜柑を喰べながらNHK大河ドラマの「いのち」なんぞを見ていた。
少し走って入った、両側に竹藪の生い茂った小道は、くねくねと曲がった山道で、昼間の往路でも運転には苦労した。しかも今は夜道である。今日の対面がこんな結果に終るとはまさか夢にも思わず、自動車が女の実家から離れると、どうしようもない敗北感と脱力感に襲われていた石川紀秀は、ライトをハイビームにし、三速程度にシフトダウンし、丸で教習所に通いたてのように身体を硬くして、ゆっくりと自動車を走らせた。ハンドルにしがみついていないと、どうにかなってしまいそうな気がして、ムキになり、時折、舌打ちをしながら、忙しなくハンドルを切る。
もはや石川の顔は、先ほどの、高木玲子の家族相手のときの恵比須顔とはまるで違い、仏頂面そのものだった。――数時間前、往路はこうでなかった。長時間の運転の間中、石川は妙にハイテンションで、時折、玲子に路を訊ねる他は、オン・エア中に間が空くのを恐れるディスク・ジョッキーのように、森羅万象あらゆることを独りで喋りまくっていた。話し続けていなければ精神の平衡が保てないかのようで、それが玲子には痛々しかった。玲子はお義理で、石川の滑りまくった冗句に薄ら寒い笑い声を喚あげ、その度に車内の雰囲気は重くなって行った。そんなことは石川も承知で、こんな筈ではないのに、と焦って、何時ものように玲子を愉しませようとし、益々、土壷に嵌まり込んでゆく。……そんなにも、今日のことは苦行で、緊張が激しいのか。一体これで大丈夫なのか。――玲子の危惧は増すばかりだった。
もともと、今日のことには、二人のいずれも乗り気ではなかったが、玲子には、石川の誠意を確かめたい、人物を見極めたいという気持があったし、石川には、玲子に対する面子や、自分や家族のための世間体というものがあった。玲子は初めて、この長身で押し出しのよい、奔放に人生を楽しんでいるような男にある、小心な面を知り、かなりの意外性を感じない訳に行かなかった。玲子は、行くも行かぬも石川の答えに任せる積りだったが、彼の口から出たものが、何時も二人で遊びに出掛けるときのような、俺に任せろ式の、頼り甲斐のあるものではなく、あくまで、きちんと形を整え、後日に禍根を遺さぬように、といったアリバイ作りのような、どうにも煮えきらぬ言葉だったので、何か危ういものを感じた。
石川とは違い、玲子は、半分くらいの確率でこのような顛末を予見していて、残りの半分を、隣に坐っている男に賭けたのだ。或いはこの石川紀秀という男なら、自分の悪い予想を心地よく裏切って、思いもよらぬ美事な解決を見せてくれるかもしれない、自分の憂いを、莫迦々々しい笑噺にしてくれるかも知れない、そんな奇蹟のようなものを起してくれるかもしれない。……今日の昼までは、心の何処かでそんな夢みたいなことを考えていたのだが。……
――「ロング・アンド・ワインディング・ロード“The Long & Winding Road”」
ビートルズのこの曲を、最初に原文のスペルで読んだ石川は、永いこと「ロング・アンド・ウェディング・ロード」だと刷り込み状態で勘違いしていて、最近玲子との雑談で漸く正しい曲名を知った。ポールが“Wedding”なんて歌っていないのは、一度聴けば判りそうなものだが、そこのところはよく解らない。
この石川も色々と不思議な面のある男で、文系である国語科教諭の癖に、英語がひどく苦手で、理数系科目の方が得意だった。しかし、大学時代はロック研究会に所属していて、洋楽のカバーも演奏している筈である。むろん演奏するだけでなく、玲子には何が異なるのか解らない、舶来の〈何とかロック〉の愛好者で―正式名を幾度か説明されていたのだが、玲子には遂に覚えられなかった―、英語にふれる機会は人並みにあった筈なのだが、それでいて英語嫌いを隠そうともせず、Michaelをミチャエルなどと平気で読む程度の語学力なのである。好きな洋楽も、結局はメロディやリズム優先で、歌詞や籠められたメッセージなどはどうでも好いのであろう。
――何時終るとも知れぬ、竹林が両側に連なる、九折になった小道を走りながら、石川は妙に上ずった声で「これが本当の『ロング・アンド・ウェディング・ロード』だね」と玲子に言ったものだ。今回故意に間違えてみせたことは判ったので、「君の扉へと続く、曲がりくねった長い道云々」という歌詞の冒頭を辿りながら、玲子は、本当にそうであれば好いが、と思わず真剣に祈った。
往路における石川の一人語りも、その辺りが最後だった。やがて上り坂は平らになり、竹林も切れて、目の前に見渡す限り山間の平地が拡がっていた。「桃源郷だね、丸で」と思わず感嘆の声を上げた石川の本心は、実際、冷やかしでも厭味でもなかった。それほどに、初めて走る石川にとって、この山道は永く、それだけに平野の開放感は一入だった。そこを抜け、玲子の実家はもう直ぐだった……。
――それから僅か数時間、桃源郷を追われたブルーの小型車は、山道を下り、普通車でも離合するのに難渋するような、狭い路上にあった。玲子の故郷の町を抜けるには、今しばらくの走行が必要である。この町は、小山や、そうとすら呼べぬ高地が連なり、その隙間々々に、平地らしきものが水溜りのように存在して、そこで人が暮らしている。自動車とそれらの灯りの間には、雪の他に、いまや稲の切り株だけになった田圃が拡がっている筈だが、車中からは、その山の裾に沿うように建っている、家々の灯りが、ぽつんぽつんと燈っている。ぽつんぽつんと……。
漸くに山道を抜け、平地に出ると、石川はやっと余裕が出来たのか、シガーライターを八つ当たりするように指先でぐいと押した。もう少し経てば喫煙タイムが始まるらしい。
――玲子は職場の先輩である、教諭杉田道彦のことを改めて思い出した。石川が昨春赴任してまだ間もない頃、職員室の自席で、煙の昇る煙草を片手に生徒の相手をしていたのを、強い調子で叱責したことがあった。杉田本人もかなりの愛煙家だったが、確かに、自席に生徒が来ると、たとえ喫い始めであっても、煙草を灰皿で揉み消してから応対していたのを、この三年弱、玲子は見てきた。実はこの日、杉田のことを思い起したのはこれが最初ではない。寧ろ、終日、杉田の影が頭の隅に蟠っていた。今日の自分が課す試験に、石川にはどうしてもパスして貰い、杉田に、二人に対する昨年初夏からの態度を誤りだったと思わせねばならない、石川に対する評価も改めて貰わねばならない、自分の人を見る眼の確かさも認めて貰わねばならない、そんな覚悟で、玲子は石川に、今日の実家への挨拶を頼んだのであった。……
相当以前に、簡易舗装されたと思しい道は、時折、中央辺りまで皹が走っていて、その端の方は、皹が網目のように細かくなり、砕けて小石を生んでいる。タイヤがそんな欠片を踏むたびに、乗用車が揺れて、運転者の目つきが険しさを増した。
「ひどいよ、玲子さん」
というのが、高木家からの復路における、石川紀秀の第一声だった。それまで互いに黙りこくっていて、おそらくこの石川の発言がなければ、玲子は到着して自動車から降りるときに挨拶するまで、一言も口を聞かぬ積りであった。後日、年長者である自分が、遠路往復運転して二人を実家まで運び、散々厭な思いまでさせてしまった石川に、形だけでも労いの言葉を先にかけておくべきだったと玲子は反省したのだが、このとき自分のことしか考えられなかったのは、男の方だけではなかったということだ。
石川の恨みの籠もった言葉に、玲子は思わず息を呑んだ。これだけ失望させておきながら、一体、ひどいとは、どちら側が口にすべき言葉であろうか、と信じられぬ思いがした。
石川は玲子に断らず、胸元から煙草の箱を取り出すと一本咥くわえて、セットしていたシガーライターを押し付けた。ニ、三服して煙を車内に充満させ、それで少し落ち着いたのか、灰皿で煙草を揉み消し、言葉をつづけた。この一連の行為は、加害者の娘に対する、おそらく八ツ当たりであろう。
――この人は今、被害者気分に浸っていて、煙草を喫えば、その気持も少しは鎮まるのかも知れない。しかし、私はどうやって今のこの気持を宥れば好いというのか……。今、この人は自分自身のこと以外、何も考えられない。
玲子が自分のことを棚にあげ、そんなことを思っている間も、石川の愚痴は続く。
硬めの長い前髪をばさりと垂らし、瓜のような形の大きめの輪郭の中、やや中央よりに顔の各パーツがバランスよく寄った、老けているのか若いのか、時としてどちらにも見えるのが石川の面立だったが、そのときは若いというよりも、幼くさえ見えた。紀秀という名に相応しい、平安貴族的な顔だった。……
「僕はあんなに、お願いしていたのに、一言の口添えもしてくれないなんて」
「僕が、お父さんからあんな目に遭わされていたのに、ただ見ているだけで、何もしてくれないなんて」
そうだったろうか、と聞きながら玲子は思う。言うだけのことを、彼はしていただろうか。きつい方言でひとこと反論されるともうそれだけで何も言えず、あとは言われるままに無言で俯いていただけではなかったか。……
普段の玲子であれば、こんな発言に対して到底黙ってはいない。しかし、そのときは、口をきく気力もなかった。失望があまりに深く、何も、口にしたくない。
玲子はこの日まで、まだ、石川に対して真剣に期待を抱いていた。
たとえ正しいことでも、自分の許可がなければ決して許さず、またその許可も、ことの善し悪し、合理性などが基準でなく、総ては己の心のままに可否を決めるような男が玲子の父親だった。尤も、この手の家長は肥後の地にはありがちで、とりたてて希少という訳でもない。更に、もともと玲子は父親の気に入らぬ娘だった。女に学問など不要と、その当時にあってすら時代遅れも甚だしい考えを、本気で信じてわが子に強制する親に逆らい、大学まで卒業して教師になったのが玲子だった。その気に入らぬ娘が、次は勝手に、婿になる、しかも齢下の男を連れて帰省すれば、たとえその相手がどんな人間でも、それだけで機嫌を損ねるのは必定だった。ましてや、父親は一目見て、石川紀秀という人間に嫌悪感を抱いてしまった。石川には、接した人間の何割かに不信を抱かせるような雰囲気が確かにあって、玲子にもその事実は判っていた。……玲子にとって、ここまでは予想の範囲だった。杉田が石川を気に入らなかったように、自分の父親もまた、娘の婿ということを除いた個人としての石川にも、よい印象は持つまいと、確信していた。だからこそ、石川には余計、頑張って欲しかった。自分の信ずるこの男であれば、もしかして、難攻不落のこの要塞でも、首尾よく開城させ得うるのではないかと。
少しでも冷静に考えれば、これは二十四の男には些か、というよりもかなり、荷の重い課題であることは明白だった。玲子とてその点に全く考えを及ぼさなかった訳ではない。しかし、自分の見込んだ男であるなら、愛する男であるなら、その重責を果して貰わねば困るのである。
玲子の心中では、石川を試したいという気持と、必ずや父親を説得してくれる筈だという期待――というよりも確信が、ほぼ同量に存在して、攪拌され、玲子自身もどちらか判らぬほどになっていた。
この数ヶ月、石川に対して次第に抱くようになっていた違和感や不満を、一挙に解消してくれるかもしれないのが、今日の試験だったのだ。そして石川はものの見事に失敗した。――だが、この時点ではまだ、失敗も半分だった。取り返す余地はまだ残っていたのだ……
「玲子さん」と少し語調を和らげて石川は続ける。
「僕は玲子さんを愛している。この気持は本物だ。僕の両親も、玲子さんと結婚することを祝福してくれている。このことは、玲子さんもよくわかってくれたでしょう」
何週間か前に、石川の実家を訪れた、その折のことを、言っているのであった。三歳年下である石川の方が、何か焦っているようで、まず未来の新郎の実家への挨拶が先となった。肥後市の郊外にある、立派な庭を持った由緒のありそうな一戸建てに、二人は赴いた。一刻も早く、年上の相手を両親に承認してもらわねば、石川は不安だったのかもしれない。年齢差を気にしているのは、玲子よりも石川の方だった。顔合わせを、石川本人は成功したと考えているようだったが、他方の人間はそうでもなかった。石川の両親とも教師であり、流石に表面上の慇懃さはあったものの、凝った彫刻を施した欄間のある広い客間で、樫の卓上越しに玲子をじっと観察する眼の奥には、可愛い息子をこの年上の女に奪われてしまうのかという意地の悪い心中が見てとれた。それを知ってか知らずか、石川は玲子の自慢を両親相手に一人で開帳し、悦に浸っていたが、玲子は妙な居心地の悪さしか感じなかった。祝福ねぇ、と玲子は少し可笑しくなった。……
「それだけじゃ、いけないかな。僕ら二人は、互いに愛し合っている。僕の両親も認めてくれた。それだけじゃ駄目だろうか」
要するにこの国語科教諭の謂わんとするところは、そちらのご家族は取り敢えず置いといて、こっちだけで式を挙げてしまっては如何でしょうか? ということであるらしい。
玲子はもともと、別にそれでも構わなかった。あんな父親に祝福して貰わずとも、仕合せな家庭を築くことに何の支障もない筈だ。式に父親の出席がなくとも、他の家族は来てくれよう。人生の障害でしかなかった父親の行為が、またひとつ増えるだけのことだ。今更それがどうしたというのか。なんということはない。しかし、それは石川が口にすべきことではないのだ。
「もう、諦めてしまったの? たった、きょう一日だけで、見限ってしまったの?」
「仕方ないじゃないか――」
逆ギレした年少者のように、石川は呶鳴った。玲子は一瞬ビクッとしたが、あくまで反射的なものであり、恐れたりはしなかった。玲子はゆっくりと顔を右に向けて、石川を凝視した。石川は横目で玲子の表情を確認すると、声のトーンを変えた。
「時間が、何とかしてくれるよ、きっと……。だから今日は……」
「『今日は……』?」
玲子のその問いに、石川は何も答えることが出来なかった。
また、暫く沈黙がつづいた。ハンドルを握っている石川は、黙りこくっている隣の玲子を意識しすぎて、運転以外の行動がとれなかった。車内の雰囲気はあまりに陰鬱で、緊張がはちきれんばかりになっている。石川の喫煙は済んでいたが、空気は険悪で、澱んでいる。玲子は息苦しくて堪らず、今にも窒息して絶えてしまいそうな気がしている。窓でも開けて、戸外のつめたい空気をとり入れたかった。車外の空気も、開放感といったものが丸でなく、顳のあたりに、妙な圧迫を感じる。
玲子は疲れきっていた。今は日曜の晩、明日は月曜日。新しい週が、また始まるのである。帰宅が何時になるのか判らない。今日のうちに辿り着くのか、日は替っているのか……
明日の準備をし、入浴をして、それから何時間眠れることだろう。否、眠ることが出来るのか。それでも朝は容赦なくやってくる。出勤しなければならない。
間道を抜け、ややましな県道に出た。一応二車線である。ここらで気分を変えねばと考えた石川は、
「何かかけようか」
と努めて明るく声をかけたが、返事は返ってこない。ややあって、掠れた声がした。
「好きにして」
そんな言葉を聞くと、石川は拒まれているような気がして、さらに厭な気分になった。
その頃になって、やっと対向車が現れた。近づいてきたその自動車が、擦れ違い様、一度下向きにしたライトを再度上向きにしたので、強烈な照明に眼が眩んだ石川は、舌打ちしながら毒づいた。
玲子は鼻の先で軽く溜息を漏らし「あなたがライトを下げないからよ」と指摘した。石川は無言だった。
玲子は、じっと正面を見据えている。しかし、本当は何を見ているのだろう。整ってはいるが印象に乏しい面立ちが、無表情故に、今日は尚更能面のように見えて、石川は横目で観察しながらも、胸の裡の不安が増すばかりだった。
「かけたら好いじゃない」
玲子の声には何の抑揚もなかった。苛々しているようでもないが、かけて欲しそうでもない。石川は出ているテープを、そのまま左手の人さし指で押し込み、
「また行けば好いよ」
と、お気楽に呟いた。音楽が途中から車内に流れ始める。イコライザーで低音を絞り、高音ばかりが目立っている。聴き易いといえばそうだが、軽くて間抜けな感じがする。
玲子が言う。
「行ってどがんすると(行ったところで、一体どうしようって言うの?)」
玲子が方言を使うときは、かなり普通でない。生々しいものを、手掴みでむき出しにされたような気分になる。心にあるものが、何の準備もないままに、そのまま吐き出されたということだ。
「『どがんする』って言うても…」
石川の方も、つられて方言が出る。Uターン就職の当人は、いつも東京仕込の完璧な共通語を使っている積りだった。聞かされる者の大半も、石川が東京帰りであるが故に、おそらくきちんとした標準語を喋っているらしいと、信じている。アクセントやイントネーション(と言うより、言葉自体に対して)には、おそらく日本一鈍感で無頓着な肥後の県民性ゆえに、用語さえその通りなら、職員室であれ、教室であれ、発音に注意を払う者などは、殆どいないのだ。石川は実際に口から出すまでに時間があったからか、口調を戻す。
「何度でも、通うしかないんじゃない? 許していただけるまで。他にないじゃない…」
さっきとは180度真逆のことを、その舌の根も乾かぬうちにどうして平気で口に出来るのか、玲子には不思議でならなかった。数分の間に、単に変心したというだけならまだ解らぬでもないが、それをどうして何の前置きもなしに口にすることが可能なのであろう? まして、玲子には石川が変心したとも思えなかった。心にもない綺麗事の言葉だけを、まことしやかに口にしているだけのような気がした。
――嗚呼ああ、来年度はさぞ、いい担任になることだろう。職員会議で話題に上ったことを、そのまま何も考えずに、上意下達で教室の朝礼で教え子たちに語って聞かせる。何か問題が起こっても、自分が信じてもいない綺麗事の説教をする……
理屈を辿った訳ではなく、直感的に玲子は悟った。さっきのは衝動的な弱気だったのだ。そんな一過性の心中を、後先考えもせず、聞かされる者の気持も考えずに平気で口にする。で、また意見を翻し、それを平気で聞かせる。希望的な意見なので、聞かされた方も、前言は聞かなかったことにして、はいはいと納得してくれると信じている。つまり己のその時々の発言に全く責任を持たぬ、餓鬼ではないか。
――この玲子の予想は正しかった。翌年から担任を持った石川に、その、日和見と場当り的な言動から、教え子たちは振り回されることになる。
玲子は、顔を運転席に向け、無言でじっと見つめた。それから再び正面に戻し、首をわずかに振りながら、呟いた。
「無理よ」
石川が黙りこくってしまう前に、玲子は「ラジオの方が好いいわ」と、勝手にテープをイジェクトして、選局ボタンを押した。
スピーカーから流れてきたのは、ジャニス・イアンが歌う『ラヴ・イズ・ブラインド』の、丁度サビの部分だった。「恋は盲目」とは、よく言ったものよね、と玲子が或る種の感慨に耽りつつ熱唱に聴き入っていると、石川はいたたまれなくなったのか、「替えるよ」と選局ボタンを押した。そこでは、丁度前奏が終り、伊勢正三のヴォーカルが始まっていた。曲は「ペテン師」。玲子はそのタイミングのよさに思わず苦笑を漏らした。
――その男は 恋人と別れた
という出だしで、一番の歌詞は
――そうさ 男は自由を 取り戻したのさ 男は 人生のペテン師だから
と終る。
石川は呟いた。「フォークは好きじゃないんだな」
更なる失言であった。玲子は「かぐや姫」の中でも、どんな哀しい歌を唄ってもどこか突き抜けてしまうような南こうせつのヴォーカルよりは、甘えかかるような伊勢正三の歌唱のほうが、母性本能をくすぐられて好きだった。石川はそれを知ってか知らずか、否定してかかったのである。
人様も羨むほどの綺麗な女を女房に貰った男が人生を手放してしまって、その曲が終ると、石川はこれ以上フォークソングでも掛っては堪らんとでも思ったのか、また選局ボタンを押した。何だか、幼い兄弟姉妹でもいる家庭における、チャンネル権争いの様相を呈してきたようだ。
次に流れてきたのは、前奏が始まったばかりの、「翼の折れたエンジェル」だった。
Thirteen ふたりは出会い
Fourteen 幼い心
かたむけて あいつにあずけたFifteen
Sixteen 初めての Kiss
Seventeen 初めての朝
少しずつ ため息おぼえたEighteen
「嫌いだろうね、杉田先生はこんな歌詞。……いや、どうせ知らないかな、中村あゆみなんて」
突然に、本日初めて石川の口から杉田の話題が出た。やはり玲子同様、意識せざるを得ない人物であったようだ。知るも知らぬも、昼休みに幾度、校内放送で流れたことか。それに、石川が知らなくても仕方ないが(玲子は知っている)、午後六時頃職員室を後にする杉田は、車内のラジオをNHK-FMに合せて、肥後局のアナウンサーが日替わりでパーソナリティーを務める「夕べのひととき」をほぼ毎日聴きながら帰宅しているのだ。洋邦問わず、クラッシックと演歌以外は、テレビ・映画の主題曲 (インストゥルメンタル) からフォーク、ロックまで、あらゆる音楽が掛るこの番組を毎日聴いていれば、中年親爺といえどもヒットチャートの動向には、それほど疎くもない。それに、挫折ムードの色濃く漂うこの曲の歌詞は「アメリカン・ニューシネマ」じみていて、案外杉田の波長に合っているかも知れない。
もし、俺がヒーローだったら
悲しみを近づけやしないのに…
ノリノリで聴き入っていた石川は、この日最後の失言を発した。
「まるで今日の俺たちのためにあるような歌だね」
玲子の中で何かが壊れてしまったのは、このときだった……
みんな翔べないエンジェル、と歌詞の最後が唱われ、ギターの後奏で曲が終ると、玲子は腹立ち紛れに選局ボタンを押した。流れてきたのは『ロング・アンド・ワインディング・ロード』で、玲子は声を上げて嗤い始めた。石川は思わず左手の指先を選局ボタンに伸ばしたが、玲子はぴしゃりと払い除け、
「『ロング・アンド』…」とわざと途中で切って口元を歪めながら運転席の男に顔を向け、
「『ウェディング・ロード』ね」と続けた。
翌日、玲子は社会人らしく、何とか出勤した。しかし石川は、急な発熱とかいった理由で、その日は愚か、翌日まで欠勤し、顔を出したのは水曜日だった。一日中わざとらしく声を潜め、空咳ばかりをしていた。
――意気地なし。休みたいのは、家で不貞寝していたいのは、この私の方よ。
玲子は思った。
一九八六年 二月某日 日曜日
石川紀秀――二十四歳、高木玲子――二十七歳の日のことである。
その日降っていた雪は未だに舞い続け、なお、積ることはない。