病院で出逢った勇気とあかねの話。
「あの、先生」
「どうしたんだい天海くん」
「脚が動かないのですが」
「そりゃ折れてるからね。大腿骨がまぁキレイさっぱりと。全治6か月入院3カ月」
車に轢かれた天海は気が付いたら病院にいた。
目覚めてすぐに、死んではいなくて良かったと安堵したが、脚が動かなかったことで自身の体の状況に気づいた。
右脚にギブスをされている。
ついでに感覚が無い。
主治医とおぼしき医者が来たので、この右脚がどうなったのか不安になった天海が話を聞くと、折れていると言われた。
「くっついたら……動けるようになりますかね?」
「そうだね。きちんとくっついて、その後リハビリをちゃんとすれば、以前のように普通に動かせるようになるよ。脚がちぎれたとかじゃなくて運が良かったよ」
「……車に轢かれた時点で運が悪い気がするのですが」
「そういう後ろ向きなことを言わないこと。心が前向きな方が治りも早いんだから」
「は、はぁ……」
釈然としない思いに駆られたが、確かに病は気からとも言うのだ。
そういうものなのだろうと天海は自らを納得させた。
「さて、そういえば自己紹介がまだだったね。僕は仲村。緊急搬送された君の処置を担当した。そのまま主治医になる予定だから、よろしくね」
「よろしくお願いします……あの、そういえばなんで俺の名前知ってるんですか?」
「君の財布に保険証とか学生証とか諸々入ってたから」
「……なるほど」
「親御さんとも連絡取ってあるよ。慌てて来られて処置が始まる前まではいたかな。大丈夫ですよと伝えたら、改めて来ると安心して帰られたよ」
親にも迷惑をかけてしまったようだ。
不可抗力の事故とは言え、大変申し訳ない気持ちで天海はいっぱいだった。
「それじゃあ検診始めるよ」
「はい」
状況説明が終わり、そのまま検診が始まった――その時だった。
ふと、扉の隙間から誰かがこちらを覗いているのに天海は気づいた。
女の子だった。
入院服を着た小柄な女の子がジーッとこちらを見ている。
「誰? 何か用?」
「っ!?」
天海が声を掛けると、女の子はびくっとして転び、勢い良く飛び起きるとそのままパタパタと走り去っていった。
一体なんだと言うのか……?
天海が戸惑っていると、仲村医師が苦笑した。
「今の子は五階の病棟にいる桜井さんだね。……もうずっと入院してる子だよ」
「……ずっと?」
「そう。あの子は十一歳の頃からずっと入院している。君と同じ十七歳だから、もう六年だ。……もしも良ければ、歩けるようになったら仲良くしてやって欲しいな。友達と呼べる友達もいなくて、だから自分と同じくらいの歳の君が気になったのかも知れないし」
「十一歳の頃から……何か重い病気なんですか?」
「僕は一応守秘義務があるから、どんな病気かは言えないな。病歴も本人の個人情報だからさ。最近はうるさいんだよそういうの。……興味が出たなら、仲良くなって直接本人から聞いてね」
一体どういう経緯で長期間の入院をしているのか、興味が出た。
可愛かったからだ。
くりっとした瞳に通った鼻筋がアイドルのようで、そんな子の事情が気にならないのは無理がある。
でも、「はい分かりました」とは答えられなかった。
思春期なせいもあって少し恥ずかしかった。
「……気が向いたら」
だから、そんな答えになった。
同じ男だからか、この年頃に抱きやすい気持ちが分かるようで、仲村医師が天海の心を見透かしているかのように微笑んだ。
※
「おい馬鹿やめろって」
「何言ってんだよ、こういう時はギブスに寄せ書きって相場は決まってるんだ」
「ははは、確かに映画とかドラマだと良くやるよね。じゃあ僕も」
入院して二週間が経っていた。
脚を動かすことはまだ出来ないが、それなりに天海も入院生活にも慣れて来た。
たまに友達の西沢と田中もお見舞いに来てくれて、こうして色々と話をしてくれたりしてくれるから、気も紛らわすことも出来ている。
「にしても脚を動かせないって不便だよなー」
ギブスにふざけた言葉を書き終えた西沢が、田中にペンを渡しながら、壁に立てかけていた松葉杖を手に取った。
「こんなんで歩けんのかよ」
「まぁなんとかな」
「トイレとかヤバくない?」
「かなりキツいけど、それでも松葉杖で歩けるようになって恥ずかしくは無くなった」
「恥ずかしくは無くなった?」
「最初の一週間は地獄だったよ。女の看護士が尿瓶持って来てやってくれるんだが、恥ずかしくて顔真っ赤だったぞ俺。向こうは『もう見慣れてるから』とか言って強引に来るんだけど、そうすると今度は過剰に気にした自分が馬鹿みたいで更に恥ずかしくなってさ」
天海が眉間に皺を寄せ、思い出したくもないことを思い出していると、西沢と田中は引き攣った笑みを浮かべた。
「それはキツいね……」
「ご褒美……とは言えないよな。そりゃ恥ずかしいわ確かに」
「そんなことを言いながら、西沢は実際自分がそうなったら喜びそうだけどね」
「俺をなんだと思っているのか」
「変態」
「否定はしないが……」
その後は終始和やかなムードが続いて、夕方になった頃に西沢と田中は帰って行った。
ふいにギブスを見やると、綺麗な華の絵が描かれている。
西沢が書いたふざけた言葉を、田中が器用に改変して絵にしてくれていたようだ。
優しいなぁ……と天海がしみじみ涙を流すと、コンコンとドアをノックする音が聞こえる。
「田中? 西沢? どうしたなんか忘れ物か?」
「……警察署から来ました原部、と申します。中に入っても?」
「えっ⁉」
予想外の来訪者だった。
なぜ警官が来たのか天海にはさっぱり理解が出来なかった。
しかし、この脚では逃げることも出来ないので、仕方なく「どうぞ」と入室を促した。
警察官が入って来る。
威圧感を与えない為なのか、パーカーを羽織って制服を隠しているが、下が完全に警察官のそれである。
「あの……警察が俺に一体何の用でしょうか?」
「事故の話を色々と聞きたくてね。思い出したく無かったり、辛いなら言わなくても大丈夫」
ああそういうことか、と天海はホッとした。
事故がトラウマになったりはしていないので、そういうことならきちんと答えられる。
天海は一息吐くと、事故に遇った時のことを思い出していった。
子どもが轢かれそうだったから飛び出して、上手く突き飛ばして助けた――ところまでは良かったが、そのまま轢かれて。
「ちなみに、君が助けた子どもは、かすり傷は負ったけど絆創膏を貼るくらいで大怪我も無く元気だよ。署でも感謝状がどうのって話にもなっているから、そのうち持って来るよ」
「え? 感謝状ですか? そういうのは別に無くても……」
「そうは言わずに受け取って。誰かを助けようと動いた人を褒めないと、警察って何なのって話になるから」
「えっと、つまり警察の面子的にという話ですか?」
「そういう言い方はちょっとね。我々としては市民の善良な行動に感謝をしている、という体を世間に示す必要があるからさ」
原部はそう言い切った。
世間の評判を気にしてとは……日本の治安機構に理念や信念といった類のものが無いのだろうか、となんだか心配になってくる。
まぁその、理念や信念というよりも、常日頃税金泥棒とも揶揄されることもある職業がゆえに気にせざるを得ないのだろうが。
「まぁその、立派な行動なのは事実で、私も含めて感心している警官も多くいる。面子も確かに大きな理由だけど、それだけが全てじゃないよ。同じ状況に陥って、君と同じように動ける警官もそうはいない」
「は、はぁ……」
「17歳だっけ?」
「はい高二です」
「卒業後の進路って決めてるの?」
「……特には。漠然と大学に行こうかなっては思ってますけど」
「……漠然と大学に行っても何の意味もないよ。目標が無いのであれば無駄に時間を浪費するだけ。それよりも警察官とかどうかな? 公務員で安定しているし、君の性格にも向いていると思う。まぁ大学を出てキャリア組になるという選択肢もあるにはあるけど……」
事故の話だったハズだが、いつのまにか就職の勧誘になっている。
何の話をしに来たのだろうかこの警官は。
「……か、考えておきますね。それよりも話の続きを」
「そうだった。事故の話をしに来たんだった。……えーと、君が助けた子どもは無事だと伝えたから、次は加害者について」
加害者と言うと、車を運転していた人のことだろうが、ある意味でその人物も被害者かも知れないと天海は思った。
子どもが車道に飛び出していなければ、自分が助けに行って轢かれることは無く事故も起きなかったのだから。
子どもに罪は無いのだが……。
「……運転手の方も不運でしたね」
「うん? どうして?」
「子どもが飛び出して、俺がそれを助けてこうなったわけで、逆を言うと飛び出しが無ければ事故が起きなかったわけで。あっでも、別に子どもが悪かったとかそう言いたいわけじゃなくて……」
「……あの車道の制限速度は30kmだったんだ。小学生の通学路になっているから。30kmというのは、仮に飛び出されても急ブレーキをかければ間に合う速度なんだよ」
「えっ……?」
「加害者が運転する車は70km出ていて、だから明確な過失なんだ。道路交通法はそれを全員が守れば事故は起きないように出来ている。それを破ったから起きた事故」
淡々と説明されて、天海は押し黙った。
事故の時に車がどのくらいの速さだったか意識していなかったが、言われて見れば、確かにスピードが出ていた気はする。
「……それで、君に聞きたいのは加害者の罪についてだね」
「……加害者の罪?」
「そう、被害者の君が望めば重く出来る。それをしたいかどうかを聞きに来たんだ」
天海の答え次第で加害者の罪の大小が決まるようだ。
まだ17歳の男の子には重すぎる、”他人の運命を左右する権利”の行使を求められている。
答えを出さずに済むのであればそうしたい、と思うような問い。
天海は眉根を寄せるが、原部がジッとこちらを見据えていた。
スルーは出来なさそうだ。
「……あの、加害者の方はどんな人なんでしょうか。スピード出していた理由とか」
「普通の営業マンで、あの日は取引先と急ぎの契約があったとかで、ついスピードを出してしまったと言っていたよ。次からは焦っていても制限速度をきちんと守るとも言っていたかな。反省はしているようだ。……でも、だからといって君をこんな風にした事実が消えるわけでもない」
「……」
「君が思ったままでいいんだ。今すぐ答えられないなら、もう少し落ち着いてからでもいいよ」
話を聞きながら、天海は結論を出した。
原部はもう少し時間を置いても構わないと言ってくれたが、たったいま自分の心の中で出た答えは、恐らく時間を経ても変わらないだろうという確信があった。
「……重い罪には問わなくてもいいのでは、と思っています」
「いいの?」
「骨は折れちゃいましたけど、元通りになるって医者も言っていましたから。脚が無くなったとかなら、もしかしたら気持ちも変わるかも知れないですけど、元通りになるんなら別に。相手も悪いと思っているならそれ以上は」
「……それが君の素直な気持ちなわけだ?」
「はい」
天海がゆっくりと頷くと原部は笑った。
「優しいね」
「そうでもないと思いますけどね」
「少なくとも私の目にはそう映るかな。……それで、学校を卒業したら警官になる気は?」
一件落着したかと思ったらなぜか就職勧誘が再び始まった。
丁重に断りつつ帰って貰うことにした。
※
さて――気が付けば一ヶ月が経っていた。
この頃になって、そろそろ本格的なリハビリを始めようか、という話になった。
「一応はもうくっついているから、あとは感覚を取り戻す為のリハビリが中心になるよ。意外と大変だけど、そこは若いんだから頑張って」
仲村医師はそう言うとギブスを取り外した。
久しぶりに見る天海の右脚はどこかほっそりとしていた。
「はい、動かして見て」
言われて天海が動かそうとして見ると――
「――い゛っ゛!」
「痛みある?」
天海は頷いた。
骨はくっついていると言われたのに、なぜか痛みに襲われている。
「まぁそういうものだから。リハビリ続けていけば、痛みは無くなるよ」
本当だろうか?
なんだかウソを言われているような気にもなったが、しかし医者を信じずして誰を信じろと言うのかという話でもあるので、天海は必死にリハビリに努めるようになった。
すると、本当に徐々に痛みは治まった。
日が過ぎるに連れて段々と思うように動くようになった。
若干脚を引きずりながらにではあるが、リハビリで院内を歩けるようにもなった。
そのころである。
こちらのリハビリの様子を、物陰から窺っている女の子がいることに気づいた。
あれは確か、以前に仲村医師が言っていた桜井とかいう女の子。
脚が動くようになったら仲良くしてやって欲しいとか、そんなことを言われていた気がする。
「桜井?」
「っ⁉」
「こっち来なよ。話をしようよ」
「な、ななな、なんで私の苗字をっ……ここ三階で、私の病室は五階で、あなたが五階にいるの見たことないのだけれどもっ」
「たまたま聞いたんだ。だから知ってる。年齢とかもね。それより話をしない? 入院生活って暇だしさ」
天海がそう言うと、桜井はぱちぱちと瞬きを繰り返して、それからゆっくりと頷いた。
近くを見渡して手ごろな長椅子を見つけて腰かける。
隣をぽんぽんと叩くと、桜井もおずおずとしながらではあったが座った。
「桜井は下の名前なんていうの?」
「あ、あかね……」
「あかねは17歳なんでしょ? 俺もなんだ」
「同い年……」
「そう」
「あ、ああああの」
「なに?」
「私あなたの名前知らなくて……い、いや本当は知ってるけど。病室のネームプレート見たことあるから。でも読みとか違ってたら嫌だし」
「そんなことで悩まなくてもいいのに。……俺は天海勇気」
「天海くん……」
「勇気でいいよ。俺もあかねって呼んじゃったし」
「う、うん」
「良い名前だろ? 呼んだ方も呼ばれた方も”勇気”が出るようにって、そういう意味なんだとさ」
「勇気が出るように……勇気」
「なに?」
「ちっ、違うの今のは呼んだとかそういうんじゃなくてっ」
「あはははっ、分かってるよ。からかってみただけ」
長い入院生活のせいなのか、あかねはあまりコミュニケーションが得意ではなく、割と純粋なようだ。
しかし、そういうところが妙に可愛らしく感じられた。
学校では見ないタイプの女の子。
反応や仕草が妙に面白くて、いつまでも絡んでみたくなるような、そういう魅力を感じた。
「……いぢわるしないで」
「別に意地悪をしたわけじゃないよ。友達とかとこうやってからかいあったりするし、俺にとっての普通なんだ」
「友達……」
「そうだよ」
「私はもう長いこと友達いないから、そういうの分からないの。……ずっと病院だから」
あかねは唇をきゅっと結ぶと寂しげに俯いた。
言葉を間違ってしまったようだ。
天海は反省しつつ、なんとか気を取り直して貰う為の会話に切り替えた。
「その……えーと……仕方ないよ。ずっと病院なら。でも大丈夫だ。友達なんて出来るよすぐに」
「……出来ないよ。だって、今まで出来なかったんだもん。ちょっと話が合う子が出来たりした時もあったけど、友達になる前に退院して皆いなくなっちゃうの」
「そんなことないってば。じゃあ俺と友達になろう」
「……勇気もいつか退院しちゃうんでしょ?」
「そりゃまぁそうだけど。でも、友達になる前に退院するんじゃなくて友達になってから退院だ。今までと違うだろ? お見舞いにも来るよ」
よくもまぁポンポンと臭い台詞が出て来るものだと、天海は自分自身のことながら驚いていた。
なんだか恥ずかしくなって、耳まで熱くなってくる。
でも、ちらりと横目に見たあかねが嬉しそうだったから、別に自分が恥ずかしい思いをするくらい安いものだなとも感じた。
改めて見てもやっぱり可愛くて。
直球で言うなれば容姿が好みだったから、そんな子に喜んで貰えたのが嬉しくもあった。
「ありがとう。勇気が友達第一号! そうだ私の部屋来てよ! 一緒に漫画読もう! ねぇいいでしょ!」
「分かった。……女の子の部屋にお呼ばれするのは初めてだな」
「実は私も男の子を入れるのは初めてだから、失礼のないように頼むぞい勇気」
「急に台詞が漫画の爺さんみたいになったな」
「いっぱい読んでるからね!」
※
「本当に漫画がいっぱいだな」
「でしょ?」
あかねの部屋は女の子らしい暖色系の色で彩られ、本人が言った通りに沢山の漫画があった。
少年漫画もあるし少女漫画もある。
「これが一番好きなの。”ぴろまる”先生のやつ」
あかねから一冊の少女漫画を手渡され、天海はパラパラとページをめくる。
中身はいわゆる恋愛もの。
主人公の女の子が、ある日車に轢かれそうになった子どもを助けた男を目撃して、一目ぼれしてしまうという内容だ。
男はぶっきらぼうだが優しくて、ぐいぐい迫っていく主人公に根負けし、そのうちに惹かれだすといったストーリーだった。
「沢山漫画読んでるのに、こういうありきたりなのが好きなんだな」
「いっぱい読んだからこそ、こういう何の変哲も無いお話が一周回って好きになるのですよ。ウンウン」
「なるほど。でもこの男が相手役は無しだろ」
「えー! なんで? 凄い優しいじゃん。車に轢かれそうになった子どもを助けるんだよ!」
「頭悪そうじゃん」
子どもを助ける為に車に轢かれた男、というのがどうにも自分自身と被ってしまってそう思えた。
自分自身の頭が悪い方だから、この登場人物の頭も悪そうに見えてしまって……。
「例え頭悪くたって、優しいからいいの!」
「でもさぁ今時いるか? こんな男」
「きっといるもん」
あかねは頬を膨らませ、ぷいと横を向いた。
怒らせてしまったかも知れない。
天海は頭を掻きながら、このまま放置するわけにはいかないと機嫌を取ることにした。
「そうだな。どこかにはいるかもな」
「ウン」
「出会えるといいな」
「……ウン」
と、その時だった。
少しだけ開いていた病室の扉から、誰かがこちらを覗いているのに気づいた。
よく見ると警官の原部だった。
「病室にいなかったものだから、どこにいるのかと探し回っていたんだけど……」
「えっと……何か用ですか?」
ちょいちょい、と手招きをされた。
怪訝そうに首を傾げて「誰?」と問うあかねに、天海は「俺に用があるみたいだ」と告げて、それから部屋の外へと出た。
すると、いきなり筒と新聞を渡された。
「これは……」
「前に言ったと思うけれども感謝状。新聞は君のことが載ってるからついでに」
そういえば、そんなことを言われていたような気がする。
新聞を見てみると”勇気ある高校生の勇気くん”なんて見出しで、こっぱずかしくなるような言葉が綴られていた。
感謝状の方も似たような感じ。
「わ、わざわざすみませんでした」
「仕事だからね。ところで警官になる気は――」
「……それは考えておきますので」
余計な勧誘話に切り替わったお陰で恥ずかしさが薄れた天海は、そう告げるとそっと扉を閉めた。
一息をついて回れ右する。
すると、きょとんとした表情のあかねと目が合った。
「今の警察の人? 服がそんな感じだった。下だけ」
「うん? あぁそうだな」
「感謝状がどうとか言ってたけど……」
「別に大したことじゃないよ」
「見せて」
断ると雰囲気が悪くなりそうな気がしたので、天海は渋々ながらに新聞と感謝状を渡した。
あかねは食い入るように感謝状と新聞の文字を目で追った。
「子どもを助けて……」
「成り行きだけどな」
「……ふふ」
「どうした?」
「別に」
「……そうか。というか、もういいだろ。感謝状と新聞返してくれ」
「やだ」
「え?」
「ちょーだい」
「それ俺宛のだぞ」
「私と勇気はもう友達です。だから、友達には友達からのプレゼントがあってもいいと思うのです。これは私へのプレゼントということで」
「俺への感謝状をあかねが貰っても何も嬉しくないだろ」
「……そんなことないよ」
あかねは感謝状と新聞をぎゅっと抱きしめると、柔らかく笑った。
どきり、とした。
心がざわついて、気が付けば頬を掻いて頷いていた。
反射的に返せとは言ったが、もともと感謝状も新聞もそこまで取って置きたいものでも無かったりもしたし、だからそれで喜んでくれているのなら別に構わないかと思う。
「……分かったやるよ。何が嬉しいのか良く分かんないけど」
「ありがとう」
言葉には出さなかったが、天海は察していた。
あかねが大好きな少女漫画のヒーローと自分を重ねていることに。
そして、それを理解してしまっていたからこそ、ちくりとした痛みを胸の内に感じた。
あかねが興味を持ったのは、漫画の登場人物のような行動を起こしていた自分であって、そうではない部分はどうでも良いと言われたように感じて。
人間は多面的な生き物で、その中の一面だけでも興味を持って貰えるのは本来とても良いことだ。
違う面は後から知って貰えば良いだけである。
けれども、複雑な思春期という時期が、そうした素直な発想に至る邪魔をした。
今日この後。
天海はもんもんとした気持ちで一日を過ごすハメになった。
ひねた解釈をした自分が子どもだっただけなのだと、それを理解して飲み込むことが出来たのは、消灯時間になってからだった。
※
「へぇ。天海くんはそういう理由で車に轢かれたんだ」
リハビリの経過診察の時に、事故に遭った経緯やあかねとのことを、天海は主治医の仲村医師に話した。
理由は特に無い。
なんとなくだ。
仲村医師は興味深げに目を丸くしていた。
「不注意で轢かれたのかなって思ってたけど、意外と正義感強いんだね」
「そういうわけじゃ……」
「謙遜しなくてもいいよ。それと、桜井さんと仲良くしてくれているようで何よりだよ」
「……可愛いですし」
「そうだね。アイドルみたいだしね。天海くんも男の子だねぇ」
「からかわないでくださいよ。それより、どうですか脚は」
「おおっとそうだったね。……動かす時の脚の痛みも減ったろう?」
「はい」
「これは大丈夫?」
仲村医師はぐいと天海の膝を曲げたり、太ももを少し押したりした。
違和感のようなものはまだ残っているものの、特に痛みを感じたりすることは無かった。
天海は素直にそれを伝える。
仲村医師は満脚気に頷いてカルテを書き始めた。
「経過良好だね。若いから治りも早い。リハビリは順調」
「若いと治りが早い……ですか。歳を取ると、こういう怪我とか治りが遅くなるものなんですか?」
「なるよ。骨折関係は特に。そもそも骨が脆くなるから、治ったと思った瞬間にまた折れたりとかね。骨粗しょう症とか加齢と共になる人多いから。……まぁでも、歳を取ってたお陰で逆に助かることもあるけど」
「歳をとると逆に助かりやすくなる場合もある……んですか?」
「あるよ。例えば有名なのだとガン。これは若い人ほど進行が早くて手遅れになる確率も高いんだ。でも、お年寄りは進みが緩やかで早期発見が出来ることも多くてね。……年齢層ごとに罹りやすいとか治りやすいとか、それに伴う治療のタイムリミットとかも変わって来るから、自分の年齢を自覚することは大事だよ」
「なるほど……」
「さて、それじゃあ僕は次の回診に行かないとね。それじゃ」
よっこいしょ、と重そうに腰を持ち上げた仲村医師の顔を見て、天海は僅かな違和感を覚えた。
表情は笑顔なのだが、瞳の奥がそうでは無かったのだ。
含みがあるような、何かを隠しているようなそういった雰囲気だ。
しかし、なんとなくやそう感じたというだけで人を疑うのも性格が悪いので、気のせいだと結論付けて天海は忘れることにした。
※
「ギブス外れてからつまんねーの。落書き出来なくなっちまった」
「天海の脚が良くなってるってことなんだから、そんな残念がらなくても」
「そりゃそうなんだけどさ」
「まったくもう。……それで天海いつごろ退院出来そうなの?」
日々が過ぎ、とある日にお見舞いに来てくれた田中にそう問われて、天海は「ウーン」と悩んだ。
経過は良好でそろそろリハビリにも慣れて来た頃で、退院も視野に入り始めてはいたのだが、明確な日にちが決まっていなかった。
もう少し様子を見て決める、と言われている。
「これといった日付はまだ決まって無いんだ。まぁそう長くは掛からないと思うけどな。思ってたよりも良い経過のようだし」
「そっか。……クリスマスイヴに間に合うかな?」
「クリスマスイヴ? 間に合う? 何かあったか? いつもゲームして遊んでるだけで、間に合うもくそもない寂しい聖夜な気がするが」
天海が怪訝に首をひねると、西沢と田中は同時にニヤっと笑った。
「実は……」
「……その日終業式だけど、そのあとに合コンやるんだよね」
「マジで?」
「マジで。三対三でな。……間に合ってくれればいいけどな」
「間に合わないようなら、仕方ないから別の人誘うけど」
彼女いない歴イコール年齢の天海にとって、これはまたとないチャンスだった。
「絶対に間に合う! 行くよ行く!」
「待ってるぜ~」
「だね。三人ならやっぱりこのメンツの方が気持ち的にも収まりがいいから」
クリスマスイヴが待ち遠しくなって来た。
天海は逸る気持ちを抑えつつ二人を見送り、よしとガッツポーズを取っていると――袖をくいくいと引っ張られた。
振り返るとあかねがいた。
「……今の人たちは?」
西沢や田中と天海のやり取りを物陰から見ていて、気になったようだ。
「俺の友達なんだ」
「ふぅん。何のお話してたの?」
「えっと……」
まさか合コンの話をしていたとは言えず、目が泳いでしまった。
正直に言えなかった。
「なんか変。隠し事してる」
「し、してない」
「してるもん! 私だって勇気の友達だもん! 友達に隠し事は無しだよ!」
あかねは頬を膨らませて、今にも泣きそうになった。
こういう顔をされると弱い。
天海は「うー」とか「あー」とか唸った後に、仕方なくなって適当なことを言った。
「た、退院したら一緒にゲームしようぜって言われたんだ」
「……ほんとうに?」
「本当だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「そっか。なら良かった」
どうにか切り抜けた。
天海は安堵するが、しかし、続くあかねの言葉に一転目を丸くすることになった。
「ところで……クリスマスイヴって空いてる?」
「へっ……?」
「な、なに驚いてるのよ。別に変な意味とかないから。ただ、一緒にいたいなって思っただけで。と、友達と一緒にクリスマスイヴ過ごしてみたいなって」
その日は合コンがあるのだが……しかし、あかねの折角の誘いを断ることも天海には出来なくて、勢いに任せて天海は首肯してしまった。
「わ、分かった!」
「……約束だからね?」
「約束は守るのが男ってもんだからな!」
――どうしたら良いのだろうか?
天海は頭を抱えた。
あかねは確かに可愛いし好みでもあるし、頻繁に話をして距離も近くなっていた。
ただ、なんと言えば良いのかその、下世話な話ではあるのだがそんな風に仲を深めても今のところ”友達”以上になれる気配が無い状態でもあった。
天海は彼女が欲しいと思う年ごろで、興味もある。
であればこそ、そうした気持ちに素直になるのであれば合コンに気持ちが傾くのも致し方が無いところである。
しかし、だ。
友達と一緒にクリスマスを過ごしてみたいと言うあかねの気持ちも、天海は無碍にしたくなかった。
ずっと病院生活で、初めて出来た友達が自分で、そんな自分に対して勇気を出して誘いを告げたのだ。
それを断るなんて……。
「どうしたの……頭が痛い痛いなの?」
「そんなことはない。大丈夫だ」
「看護士さん呼ぼっか?」
「ほ、本当に大丈夫だって」
「そっか……」
心配そうに覗きこんでくるあかねを見て、天海は下唇を噛んで俯いた。
※
天海が抱えた悩みは晴れること無く、一週間が経った。
その頃になって、天海は仲村医師から退院の日付を知らされた。
12月23日。
クリスマスイブの前日だった。
「……良かったわねぇ。って何あんた丸まってんのよ」
天海がシーツに丸まっていると、見舞いに来ていた母親がそう問いかけてくる。
「うーん」
「何を悩んでるのよ」
「友達を取るべきか、それとも女の子を取るべきか」
「あんた入院中に変な妄想でもするようになったの? もしかして車に轢かれた時に頭も打ってた……? ちょっと仲村先生に相談しに――」
「――ま、待って待って! 違う別に変な妄想してるわけじゃない!」
天海は慌てて母親に事情を全て説明した。
言うには非常に恥ずかしい話ではあるが、このままだと大事になりそうだった。
母親は面白そうに相槌を打ちながら話を聞いてくれた。
しかし、あかねの病室が五階だと知った途端に表情を曇らせる。
「……五階の子?」
「そうだけど……それがどうかした?」
「あんた五階に入院してる人がどういう人か知ってるの?」
「知らないけど……」
「……五階に入院してる人は、いつ死んでもおかしくない人って言われてるのよ」
天海は目を剥いた。
寝耳に水で、そんなこと全く知らなかった。
だが、言われてみればそれは何もおかしな話では無い。
あかねは五年間も入院しているが、そんな長期間の入院はよほどの病を抱えているということに他ならないのである。
少し考えれば分かることだった。
「……出会いは一期一会ともいうし、この短い一カ月と少しの間にその子のことが気になっていたとしても笑わないし、可笑しいことだとも思わない」
どうしたら良いのか分からない。
ただ、天海は自分の馬鹿さ加減に愛想が尽きそうだった。
自分と同じようにあかねもそのうちに元気になるのだと、勝手にそう思い込んでいた。
頭が悪いにもほどがある。
「……でもね、もう会うのはやめなさい。いつ死んでもおかしくない子を好きになるなんて、あなたが辛くなるだけだよ」
そう言って、母親は用事があるからと出て行った。
天海はその背中を見送ってすぐに、忠告をすぐさまに破る罪悪感を抱えながらも、あかねに会いに行った。
忘れるなんて嫌だった。
嫌だったのだ。
気づいてしまった。
気づかされてしまった。
短くても重ねた時間によって、自分は既にあかねのことを好きになっているのだと。
「どうしたの勇気。元気が無いよ」
「元気か……そうだな無いかも知れない」
「ヤダヤダこういう暗い空気。前みたいに楽しくお話しようよ」
ぷくっと頬を膨らませるあかねはいつも通りだった。
いつ死んでもおかしくないのに。
「――勇気! 勇気勇気勇気勇気!」
「な、なんだよ」
「前に言ってたじゃん。自分の名前は呼んだ人も呼ばれた人も”勇気”が出るようにって意味でつけられたって」
「……そういえば、そんなことを教えたな」
「だから、何か辛いことがあるなら、私が沢山呼んだから勇気出して立ち向かえるよね?」
天海は自分の顔を両手で覆った。
自分の方が大変だろうに、それよりも人のことを心配するあかねの行動に、気が付いたら涙が出てしまった。
泣いているのは見られたくなかった。
「泣いてるの……?」
「泣いてない」
「じゃあその手どけて見てよ」
「嫌だ」
「やっぱり泣いてるんだ。どうして?」
「どうしてって……」
言えなかった。
あかねがいつ死ぬか分からないのが怖くて、それなのに他人の心配をする健気な行動に心打たれて、だから泣いているなんて言えなかった。
「……よく分かんないや。私は勇気の名前を呼んでいっぱい勇気貰えたから、頑張ろうって思えて手術も受けようって思えて、だから笑ってて欲しいのに」
「……手術?」
「うん。……勇気はさ、五階にいる人がどういう人か知ってる?」
「……」
「……いつ死んでもおかしくない人がいる階なんだ。私は心臓が駄目なんだよね。大動脈弁狭窄症って言って、血液が上手く送れないの。痛みがあってから五年とか六年後には死んじゃうって言われてる病気で、初めて痛いって思って分かったのが六年前。子どもだったから体力持たないかもってすぐには手術できなくて、ギリギリの今の歳になってどうするか決めることになって。……今の歳になっても成功率って半々くらいだし、別に手術しなくても良いかなって思ってた時もあったけど」
「……そんなこと思うなよ。そのままだと死んじゃうんだろ」
「今は思ってないよ。勇気と会って、いっぱい勇気貰えたの。名前を呼ぶ度に頑張りたいって、もっと生きたいって気持ちになったの」
「……」
「だから、受けることにしたんだ。手術。……12月25日に」
あかねの一言一言に力が籠っているのが分かった。
生きたい、もっと生きていたいって本気で思っているのが分かった。
溢れる涙が勢いを増し、もう手のひらでは隠せなくなった。
指の隙間から零れてぽたぽたと床に落ちて音を立てた。
「24日に、最後の一押しの”勇気”を貰って、それで絶対に手術成功させるんだ」
「……分かった」
鼻水をすすりながら、天海はみっともない声で頷いた。
今ばかり思春期の複雑な心境なんてものは吹き飛んで、自分の心に素直になれていた。
「暗い話はもうやめるね。それで、この漫画なんだけど……」
不安だろうし、怖いだろうに、それでもあかねはいつも通りだ。
おすすめの漫画の説明を始めている。
天海は今の自分に出来ることはなんだろうかと考えながら、相槌を打つだけで精一杯だった。
※
あかねの病室から出てから、天海が涙を拭いながら廊下を歩いていると、ふいにすれ違った仲村医師に呼び止められた。
「泣いているの? 何かあったの?」
「その……」
「脚が急に痛み出したってわけじゃなさそうだ。精神的なものかな? ……よかったら話を聞こうか」
「……あかねが」
「桜井さんのこと?」
「大変な病気だと。死ぬかも知れないって」
「なるほど。本人から聞けたわけだ」
「はい。大動脈弁狭窄症とかいう病気だって。手術を受けるって」
「……そうだね。でも、何もそんなに悲観することは無いよ。手術が成功すれば助かるかも知れないんだから」
「成功率は半々くらいだって……」
「難病の中では半分もあれば高い方なんだよ? 大丈夫さ。本人も以前と違って前向きになっているから、きっと成功する。手術というのは、患者の心の部分も大きく影響するものだからね。……君に仲良くなるようにお願いして良かったと思ってるよ」
「え……?」
「桜井さんは以前は全く笑わなくて、手術も別に受けなくていいって言うような消極的な子だった。でも君と会ってからドンドン元気になって、『もっと生きたいから受けます』って自分から言い出したんだ。……僕は桜井さんの主治医であり執刀医でもあるからね」
以前に仲村医師が見せた含みのある表情、そのワケを天海は今になって理解した。
あかねを手術に前向きにさせる為に、自分を利用した。
だからだ。
患者に生きたいと思わせて、助かる方法を少しでも上げるのは医師として当たり前ではあるのだろうが……利用された者からすれば、こんな気持ちにさせられるのだから酷い話である。
「……俺を使ったわけですか。酷いことするんですね」
「……悪かったと思っているよ」
「悪いと思っているなら、じゃあ一つ約束してください」
「なんだい?」
「絶対に成功させてください。手術」
天海が唇をきつく結ぶと、それを見た仲村医師が「分かった。約束しよう」と真剣な顔で頷いた。
※
「それマ?」
「今の天海ドラマみたいな状況だね」
退院が徐々に近づく中、最後のお見舞いに来た西沢と田中に天海は事情を説明し、合コンには行けないことを伝えた。
すると、二人は驚きつつも理解を示してくれた。
「本当に悪い。24日があかねの手術の前日だからさ」
「気にしなくていいよ。むしろ何か僕らに何か手伝えることないかな?」
「だな」
「無理しなくてもいいってば。楽しんで来いよ合コン」
「お前さぁ~友達がこんな状況で楽しめるかよ」
「うんうん。西沢の言う通り。絶対に頭にチラつくよね」
二人の気持ちは理解出来る。
仮に田中か西沢のどちらかが同じような事態に陥っていたとしたら、天海も合コンを純粋に楽しむなど不可能だ。
友達だからこそ心配になる。
「……ありがとう」
「気にするなよ」
「そうそう。こういう時の友達だからね。……それで提案だけど、折角クリスマスイブに会うんだし何かプレゼントをあげたらいいんじゃない?」
「だな。そのあかねちゃんとやらが好きなものってなんだ?」
「好きなもの……漫画とかいっぱい持ってたから、そういうのが好きかも。少女漫画が一番好きみたいで」
「そうなんだ。それじゃあ……こういうのどうかな?」
田中はごそごそと鞄の中を漁ると、少女漫画雑誌を取り出して、見開きのページを見せて来た。
大人気少女漫画家――”ぴろまる”のサイン会を23日夕方から東京で開催、と書かれている。
この漫画家は確か、あかねが一番好きだと言っていた少女漫画の作者だ。
「東京に住んでるお姉ちゃんいるんだけど、少女漫画とか好きでさ、これの参加券持ってるんだ。ただ、抽選ハガキ送り過ぎちゃったらしくて二枚当たったみたいで、一枚僕にくれるって送ってくれたんだけど、僕少女漫画って見ないし……」
「ふぬ? いらないものを天海に押し付けるというわけか?」
「に、西沢酷いよその言い方。そういうわけじゃないよ。これ売れば十万くらいになるんだよ? でもあかねちゃんって子が少女漫画好きって言うなら、ならこれ良いんじゃないかなって思っただけで――って、あれ?」
気づいたら、天海は田中の手から雑誌と参加券を奪っていた。
あかねが喜んでくれそうなものだと思ったら、無意識に手が動いた。
23日――丁度退院日。
東京まで距離はあるが、貯金を崩して飛行機に乗れば間に合いそうだ。
「ありがとう田中」
「いいよいいよ。僕にとっては要らないものだから」
「やっぱり不用品を押し付け……」
「西沢空気読んでよ! 気を使わせない為だって理解してよ!」
「お、おう分かってたぞ。ただ場を和ませようと思ってだな……」
「余計な気遣いだよ間違いなくそれは」
良い友達を持ったなと天海は思った。
久しぶりに笑えた。
※
日々はつつがなく過ぎて行った。
あかねの病室に行って、泣きそうなるのを我慢しながら他愛のない話をして、気が付けば23日がやってきた。
「リハビリの進捗確認と経過観察の為に、三カ月か半年くらいは週一で来て貰うけど、とにかく今日で退院だ。おめでとう。……完治まで無理はしないようにね。無理をするとまた折れるかも知れないからね」
仲村医師にそう言われ、天海はまとめていた荷物を手にして病室から出た。
両親の迎えは無い。
もう既に天海が普通に歩けるようになったのものあり、どちらも無理に休みを取らないそうだ。
運が向いている。
今日はこのあと飛行機に乗ってサイン会に行くが、そんなことをすると言えば絶対に反対されるのが目に見えているので、来ないでくれて助かった。
決意を新たにしながら病室の扉を閉めると、あかねがやってきた。
隣に中年くらいの女性と男性もいた。
「見送りに来たよ!」
「ありがとう。……それで、そちらの方は?」
「私のお母さんとお父さんだよ。手術が明後日だから、今日から休み取って出来るだけ傍にいるって言ってくれて」
「そうなのか。……あの、すみません挨拶が遅れて。天海勇気と言います。あかねとは仲良くさせて貰ってて」
天海がどろもどろに挨拶すると、あかねの父母は同時に笑んだ。
「そんな風に腰を低くしなくても大丈夫だよ。あかねから聞いているよ。とっても優しい男の子だとね」
「あなたが勇気くんなのね。あなたと会ってからあかね凄く元気になって、手術も受けるって……」
あかねの両親の顔を良く見るとやつれており、泣きはらした跡もあった。
手術は成功と失敗が半々の確率であるから、失敗した時のことを思うと、気が気かではないのだろう。
その気持ちは天海にも痛いほどに分かる。
「良かったら、一緒に話をしよう。私たちだけだと、どうしても暗くなってしまうから」
「そうね。あかねも天海くんと一緒にお話ししたいわよね?」
「明日ずっと一緒の約束してるから、別に今日はお話しなくても大丈夫だけど……でもお話出来るなら嬉しいかな?」
今から空港に向かわないと駄目なのだが……まだ少し時間はある。
あかねが『お話出来るなら嬉しい』と言ってくれたのが嬉しくて、自分たちだけだと暗くなると言ったご両親の痛みに同調してしまったものだから。
天海は頷いた。
※
「ヤバいヤバいヤバいっ……」
話を切るタイミングを見失い、あかねとご両親と長話をし過ぎてしまった。
スマホで時間を確認する。
もう午後の三時だった。
予約を入れた飛行機の離着時刻が午後の三時四五分なのだが、空港までは電車と徒歩で一時間は掛かった。
間に合わない可能性が出て来た。
「くそっ……」
「ちょっと君、病院内で走ったら駄目――」
「――急いでいるんですよ」
病院関係者に怒られながら天海は走って病院を出た。
久しぶりの運動のせいですぐに息が切れ始めてもいたが、何が何でも間に合わせたくて走り続けた。
大通りに出て、駅に向かって一直線に駆ける。
すると、偶然にもその途中で原付に乗った西沢と出くわした。
制服なのと時間を鑑みるに下校中のようだ。
「あれ天海じゃん。なんでお前まだここにいんの? 今日が退院なのは知ってるが、サイン会行くとか言ってたしもうとっくに飛行機に乗ってるのかと」
「色々あって遅れたんだよ! 今から急いで電車乗って空港まで45分までに着かないと……」
「無理じゃね?」
「え……?」
「確か空港方面への路線って1時間に1本だぜ? そんで毎時40分とか50分頃に出てたような。もう過ぎてる」
「そんな馬鹿な……」
俺は慌ててスマホで路線の時間を調べた。
すると、西沢の言った通りの運行表が出て来た。
「少し遅れても次の便の当日券買えばって言いたいトコだが……当日券って高いって聞くよな。キツいわな」
天海は事前に券を買っていたのだが、それは往復ワンセットの券だった。
キャンセルになれば自動的に帰りの便もキャンセルになり、キャンセル料として全額没収される。
そのうえで当日券を買うとなると……さすがにそこまでのお金は持っていなかった。
「くそくそくそっ!」
苛立ちが増していって、天海はその場に膝をついた。
握った拳で地面のコンクリートを叩く。
血が滲んで来たし痛かったが、それ以上に全てが無に帰してしまう恐怖の方が勝った。
もう間に合わないかも知れない――そう悲観しかけるが、しかし、そこで西沢があっけらかんと言い放った。
「そんな泣かなくても、間に合うことは間に合うと思うが」
「は……? いやだって電車はもう……」
「後ろ乗れよ。原チャリだけど頑張れば60キロは出るんだ。間に合うって」
天海は急いで原チャリの後ろのキャリーに座った。
――頼む。
そう伝えると西沢が笑う。
二人分の重みで潰れたタイヤがアスファルトを踏みしめるように回り、原チャリはぐんぐんと進んでいった。
※
「二人乗り、それに加えて片方はノーヘル、速度超過。若いから深く考えなかったのかも知れないけれど、道路交通法は守らないとダメだからね。はい免許証出して。まさか無免許じゃないよね?」
きっと間に合う――そう思って希望にあふれていた天海であったが、今や鎮痛な面持ちだった。
途中で警察に捕まってしまったのである。
「まさかこうなるとはな……」
「ってか悪い西沢……俺のせいで……」
「謝らなくていい別に。それよりもこのままだと間に合わないな」
色々な気持ちがごちゃまぜになった。
あと一歩で間に合わなかったことに絶望しか感じなかったし、善意の西沢を巻き込んでしまったことも申し訳なく感じた。
すると、ふいに。
警察官が天海の顔を見て怪訝に首をひねった。
「あれ……もしかして天海くん?」
「どうして俺の――」
――名前を、と言おうとして、天海はこの警察官と病院で二度会っていたことに気づいた。
原部だ。
「うん? なんだ天海この警官と知り合い?」
西沢が耳打ちでそう聞いて来たので、天海は頷いて、それから原部と視線を合わせた。
原部は肩を竦めた。
「奇遇だね」
「は、はい」
「退院したの?」
「はい」
「それは良かった。でも、交通違反は駄目だなぁ。そういうことをする子には見えなかったんだけど。速度超過で事故が起きた場合にどうなるか君は身を持って知っているハズだよ。原付の制限速度にも意味はあるんだ。……何か事情でもあるの?」
元々の印象が良かったお陰か、呆れながらも事情を聞いてはくれるようだ。
もしかすると見逃して貰えるかも知れない雰囲気にも感じたので、天海は手短に経緯を話した。
すると、原部は顎に手を当てて「ふむ」と唸る。
駄目……だろうか?
「なるほど、ね」
「出来れば今回だけ見逃して欲しいです」
天海が深々と頭を下げると、原部は顎に手をあてた。
そして、たっぷり一分間は悩んだ素振りを見せてから、
「そうだね……見逃してもいい。いや、それだけじゃなくてなんなら私が空港まで送り届けてもいい。パトカーだから原付よりずっと早く着くよ」
見逃すだけではなく、送り届けてくれると原部は言った。
天海は驚いて西沢と顔を見合わせた。
「い、いいんですか……?」
「うん、いいよ」
「……ありがとうございます」
「お礼はまだいいよ。条件を呑めるならだから」
「えっ……?」
「前にも何度か誘ったことがあるよね? 警官にならないかい、と。それを承諾してくれるなら、見逃すし送っていこう。……どうする?」
その提案に対して、天海は考えるよりも先に「分かりました」と即答していた。
あかねの喜ぶ顔が見れるのならば、いとも容易い条件だった。
迷いのない天海の答えに原部は嬉しそうに笑い、話の流れが掴めていない西沢が瞬きを繰り返している。
「……よ、よく分からねーんだがその条件呑むの? 卒業後の進路もう決める系?」
「……漠然と大学行こうかなくらいにしか考えてなかったし、別に目標とか夢があったわけでもなかったしな。警官は公務員だし安定はしてる。あかねが助かった後のことを考えると、悪い選択でもないと思うし」
「助かった後って結婚とかそういうノリ? 愛が深ぇ……」
「そ、そこまで考えてるわけじゃない。でも、何か欲しいものとかあれば買ってやりたいし、行きたい場所には連れていきたいし」
「あーハイハイ、分かったからもう行って来い」
「悪い……」
「いいっていいって。結果的に見逃がして貰えて罰金も加点も無しだし」
天海は肩を竦める西沢に「ありがとう」と伝えて、それからパトカーに乗った。
※
空港まで無事に辿り着き、飛行機に乗り、東京の羽田まであっという間だった。
天海は脚早にターミナル駅へ向かい、そのままモノレールに乗り込む。
スマホで調べながら、幾度かの乗り継ぎを経て、サイン会の会場へとたどり着くことが出来た。
既に集まっているファンも多いらしく長蛇の列が見えてくる。
人の多さに圧倒されながらも、天海は参加券を渡して整理券を貰い最後尾につき、サイン会が始まるまで待つことにした。
「……女の人ばっかだな」
どんな人が並んでいるのか確認してみると、全員が女性だった。
男が自分一人だけであることに妙な疎外感を覚えもしたが、幸いなことに周囲の人間は天海に興味を持たなかった。
サイン会にだけ注意が行っているのだろうが、なんだかホッとした。
まもなくして開場が告げられサイン会が始まった。
列は少しずつ前に進み、さらに一時間も経ったころにようやく天海の順番が巡って来た。
「はい次のひとー」
サインを描いていた漫画家――”ぴろまる”は女性だった。
ボサボサの髪を無理やり三つ編みにして抑えて、ぐりぐりの牛乳瓶のような眼鏡をかけていて、いかにも漫画家ですといった容貌。
ただ、そうした見た目とは裏腹にキツかったり暗いような感じは無く、雰囲気はやわらかく朗らかだ。
「おっほー男の子?」
「えっと……」
「持ち込みの色紙とかスケブある? あるならそっちに描くけど、ないならこっちがサイン会に用意してる色紙描くよー」
「ス、スケブ? も、持ってないです。色紙も……すみません」
「なんで謝るの? ちゃんと持って来てない人用のも準備してるってあたし言ったけどなー」
「すみません……」
「また……おっと待てよ、ここで何か言ったら「すみません」ってもう一回返ってきそうだな……よし分かった分かった。とりま話を次に進めようか」
脇に積み上げられていた真っ白な色紙を一枚手に取ると、ぴろまるは「それで」と話を続けた。
「描いて欲しいキャラある?」
「えっと、車に轢かれるあのヒーローを……」
「おおメインヒーローね。男の子だからてっきりヒロインの主人公の方を描いて欲しいとか言うのかと思ってた。それで、君の名前は? 〇〇くんへって書くからさ」
「あの……俺の名前じゃなくて”桜井あかね”っていう女の子宛にお願いしたくて」
「うん? ふーむ? もしかして、君があたしのファンとかそういうんじゃなくて、その桜井あかねちゃんがあたしのファンで、用事か何かあって来れなくて代わりに君が来た的な?」
「そんな感じです。手術もっと頑張れるようにって俺思って……」
「手術……? なにそれ詳しく聞きたい! 聞きたい聞きたい!」
ぴろまるは興味深げに目を丸くして笑い、がばりと身を乗り出した。
天海は驚いて思わず後ずさる。
「えっ……ちょっ……」
豹変に天海がついていけずにいると、ぴろまるがハッと顔を赤らめて、口笛を吹きながらすとんと座った。
「ごめんごめん。……まぁいいや。ちょっとゆっくり丁寧に描くから、最初から最後まで話して」
「さ、最初から最後までとは……?」
「ん、君とあかねちゃんとやらの出会いから今までのこと。簡潔に。言わないならサインしないし絵も描かないから」
「えっ⁉」
「ほら早くしなよ」
これはもはや脅迫であり、天海も戸惑ったが……すぐに呑む他には無いと気づいた。
サインと絵を描いて貰わなければ、ここまで来た意味が無いからだ。
初対面のぴろまるが、どうしてあかねとのアレコレを知りたがるのか天海には理解出来なかったが、漫画家は変わっている人も多いイメージがある。
本人なりに少しでも気になることが出来たら知りたくなる――漫画家とは、そういうものなのかも知れない。
「……分かりました」
「ん、分かったならヨシ」
※
なるべく簡潔に伝えたつもりだったが、少しばかり語るのに時間が掛かってしまった。
三十分も掛かってしまった。
後ろの列の女性たちとぴろまるの後ろにいたスーツの女性―恐らく編集者―から睨まれつつも、色紙を受け取り絵と宛名を確認して慌てて回れ右する。
「いやーすごい話を聞いてしまった。現実にそんなのあるんだね。ありがと」
「し、失礼しました~」
小走りで会場から出て空を見上げると、もう真っ暗だった。
街の明かりが眩しすぎるせいなのか、それとも都会に漂う排気ガスのせいなのか、それともその両方なのかは分からないが星が見えなかった。
天海は東京の夜闇に溶け込むように歩き出し、路地裏に入り込むと座り込む。
帰りの便が出るのは明日の朝だ。
ホテル代までは用意が出来なかったから、あとはここで夜が明けるのを待つ。
「寒いな……」
両手を擦りながら寒さを凌ぐ。
気が付けば時刻は午後の十時を回り、その頃になってスマホが鳴った。
両親からの電話だった。
退院日だというのに家に帰って形跡が無く、病院に連絡したら既に出て行っていると言われて気になったのだろう。
出るかどうか一瞬だけ迷った。
なにをどう伝えれば良いのか考えが纏まらなかった。
でも、目的のものをもう手に入れたからか、自分でも知らないうちに心に余裕が出来ていて。
逃げたり誤魔化したりしたくないと思えて、指が勝手に動いた。
「もしもし」
『あんたどこにいるのよ! 病院に連絡したらもう出て行ったって言われるし、でも帰って来た形跡も無いし……』
「いま東京」
『と、東京⁉ なんだってそんなところに』
「どうしても欲しいものがあって、飛行機で来たんだ」
『欲しいもの……?』
「あかねの手術が近くて」
『あかね? あぁ前に話してた……好きになるのはやめた方が良いって言ったわよね?』
「覚えてるよ。でも後悔はしたくないんだ」
母親をかなり怒らせてしまっている。
電話越しでも鼻息が荒い。
後ろの方から時折に物音が聞こえてくるが、これは、どちらかというと穏やかな性格の父が母をなだめようとしてくれているのだろう。
『まったくこの子は……。ほらお父さんからも何か言ってやって!』
『別に犯罪をしたってわけじゃないんだし、そこまで怒らなくても……。横から話を聞くに好きになった女の子の為のようだし、ならやりたいようにやらせてあげればいい』
『そんなことを言って‼ 学校だって――』
『――冬休みまでもう何日も無いからと、もともと休むと学校には伝えたと言っていたじゃないか。……というか、どうして勇気を勇気と名付けたのか忘れたのか?』
『……何よ急に』
『きっと、好きになった女の子に”勇気”をあげたかったんじゃないか。手術がどうのって聞こえたしな。なら、俺たちがこうなって欲しいと思った通りに育ってくれたんだと、そうは思わないか? ――呼んだ方も呼ばれた方も”勇気”が出るように。俺とお前の二人でそういう意味を込めて決めた名前だった』
両親の会話をスマホ越しに聞いていると、父のその言葉に母が押し黙った。
意外な展開になったものだと、天海は唇を歪ませた。
父は普段温厚な人ではあるからこそ、母をなだめることはあっても、諭すようなことは滅多にしない人でもあった。
こうして味方までしてくれるとは思っていなかった。
『……勇気、父さんだ。電話を代わった』
「父さん……その……ごめん」
『謝る必要は無い。自分のやりたいように、後悔の無いようにしなさい。何せお前は子どもを助ける為に車に轢かれるような馬鹿だ。やめろと言ってやめるような性格していないだろう。ただ、何かあったら連絡だけはくれよ。それは一人の人間として最低限必要な責任であり義務だ』
やめろと言ってもやめないから、という諦めにも似た理由から味方をしてくれたようだが……語気が柔らかいことから、それだけで無いのも分かった。
前に進もうとする子の背中を押す、父親という役割を全うしようとしてくれているのだ。
「……分かった。ありがとう父さん」
『それじゃあな』
そこで通話が切れた。
天海がなんとなく再び夜空を眺めると、先ほどとは違う景色がそこにあった。
星が浮かんでいた。
きらきら、きらきらと……。
※
翌朝になって、そそくさと予定通りの帰路についた。
問題は起きなかったが――病院に向かう道すがら、天海はどうにも右脚に違和感を抱き始めた。
よく分からないが痛みがあって張っているような感覚だ。
熱も籠っているような気がする。
しかし、動くことは動くので、気にしないようにして歩いた。
病院に入り、あかねの病室を訪ねる。
「俺だー」
「! 入って!」
了解を得たので、がららららーと扉を開ける。
中にいたのはあかね一人だった。
天海は来客用の椅子に腰かけると、
「ご両親は?」
「今日は夕方くらいになってから来るよ」
「ふぅん。何か用でも出来たのかな?」
「そうじゃなくて、その、私が……」
あかねは頬を赤くして目尻を下げると、シーツをぎゅっと握った。
その姿はどこからどう見ても恋する乙女のそれであったが……段々と右脚に痛みも感じ始めていた天海は気づくことが出来ず。
何はともあれ、ごそごそと鞄からサイン色紙を取り出してあかねに渡した。
「これクリスマスプレゼント。あかねが好きな漫画の作者のサイン色紙」
「”ぴろまる”先生の……?」
「そうだ。あかね宛に描いて貰った。ほらちゃんと書いてあるだろ、『桜井あかねちゃんへ』って」
「……これってもしかして昨日のサイン会?」
「知ってたのか」
「知ってたけど……でもそれ確か東京で……」
「そうだな。だから行ってきた。東京」
「えっ⁉ まさか昨日あの後⁉」
「まぁな。病院出てすぐに飛行機に乗ってそれで……」
あかねはポカンと口を開いたまま数秒ほど呆けていたが、やがて細めた目端に涙を溜めると下唇を噛んだ。
「……どうしてここまで? 私たち”友達”だよね? 勇気にとって私はただの”友達”だよね?」
「それは……」
明日の手術に失敗すれば、あかねは死ぬだろう。
仲村医師は必ず成功させると約束はしてくれたが、それはあくまで意気込みというか決意表明というかそういう類のものだ。
絶対に助かるとは限らない。
だから、今のうちに素直な気持ちを言おうと思った。
「それは……?」
「それは……」
しかし、続く言葉が出せなかった。
右脚の痛みが尋常でないレベルになっており、妙に寒気を感じて体の震えが止まらなくなり、がちがちと歯音が立って喋れなくなっていたのだ。
「ゆ、勇気なんかおかしい――っていうか、何その右脚すごい腫れてる! ナ、ナースコール!」
天海は自身の右脚を見た。
すると、左脚と比べて倍の太さになっている右脚があった。
どういうことだろうか……。
原因が分からず天海は戸惑うが、激痛の渦に飲み込まれるうちに意識を失った。
「……あ、あらこの子って確か昨日まで入院してた」
「看護士さん! 勇気が!」
「……大丈夫よ。もしかしてだけど、この子走ったりしたんじゃないかしら。骨がくっついて動けるようになっても、リハビリがまだ完全には終わってないのにそんなことしたら、無意識に患部に過剰な負荷かけちゃってまた折れる可能性あるのよ。退院イコール完治じゃないし、無理は駄目だって教えられてたとは思うけど……とにかく、何日か目覚めないかも知れないわね。とりあえず先生呼ばないと」
「え、えぇ……まだ答え聞いてないのに……」
「答え?」
「聞きたいことがあって、その途中でこんな風に……」
「なるほど。……それじゃあ明日の手術を頑張らないとね。ちゃんと治して、答えを聞かないとね」
「……はい。絶対に生きて、そして、聞きます」
★
とある警察署の中で、中年の男性と二十代の青年が話をしていた。
どちらも警官だ。
「あの時に少しは君から事情を聞いたけど、詳しくは聞いてなくて知らなかったからなぁ。そういう流れだったわけか。そしてまた骨を折ったと」
「えぇまぁ」
「それで、その女の子はどうなったの?」
「普通に助かりました。ドラマとか映画みたいな悲劇にはならなかったですよ。このあと俺が目覚めたのが大晦日で、松葉杖使って様子見に行ったら集中治療室に入ってて慌てましたけど、手術は成功したと言われて。……ちなみに、その子のことを見たことあるハズですよ原部さんも。結構最近にも」
「え? 見たことあるって――あっもしかして、たまに君が弁当忘れた時に届けに来る奥さんか! 小さい子どもの手を引いて一緒に来てるあの」
「はい」
「感動的だなぁ。ちなみに結婚に行きつくまではどうだったの?」
「そんなこと知りたいんですか?」
「一番知りたいところだね」
「交際自体は特に問題も起きずに順調でしたけど、それ以外の部分では色々ありましたね。サイン描いてくれた漫画家の漫画のストーリーが急に俺の話そのままになったり、俺が警官になってまもなくいつの間にか警部になって刑事課長に異動していた原部さんから推薦貰って刑事課に配属になって、そこで初めて手錠をかけたのが犯罪に手を染めてしまった友達の西沢だったり」
「初めて手錠をかけたのが友達……それもしかして君が泣きながら『確保』って言った時の?」
「ですね。……さて、そろそろ仕事戻りましょうか。溜まっている仕事もありますしね」
「……色々と続きが気になる話が多いけど、また今度聞くとしようか」
青年――天海勇気は警察官になった。
顔つきから幼さは抜けきり、すっかりと一人の男へと変わっている。
あかねの手術は成功して、自分の気持ちを伝えて交際が始まって、そのまま結婚した。
途中で関係ないことで色々とはあったけれど。
とにもかくにも、今はただ、善良な市民の安全と財産と愛する奥さんと子どもを守る一人の警察官だ。
★☆★
最後までお読み頂きましてありがとうございました。この物語を通して、皆さまの心に温もりや勇気をお届け出来たのであれば嬉しいです。|˙꒳˙)