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第八章 記憶喪失のヒトビト

 僕には、自分自身の記憶がない。

 別に、完全な記憶喪失というわけでもないのだ。そもそも本当にないのかも定かではない。どうにも、思い出せないだけ。

 僕が生まれてきたからには、両親もそのまた両親もいたはずなのだけど、いやはや全く覚えていない。交友関係も然り。なんとなく孤児だったのだろうなあとは思っている。こんな身一つで旅をしているくらいだから、満足な家に住むこともできずにそこらの店のものでも盗んで生活していたのだろう。生きるためとなれば、僕だってそれくらいはやりそうな気がする。あまりにも辛い過去すぎて無理に忘れた、というのが自然だと思う。

 そのくせ、というべきか。僕はこの国の歴史だとか地理だとか、そういうものを知っている。詳しいと言ってもいい。我が国ガルマ帝国は四方に隣国を抱える大陸国家で、防御戦に関しては非常に強かった。にも関わらず攻めてくる隣国があって、そこに殴り返したところからドミノ倒しに均衡が崩れた。そこで勝つために遠征を繰り返したのが運の尽きだ。各国の参戦があって、孤立無援のまま被害者であったはずの帝国は激戦の末敗北した。なまじ強かった分、相手の損害も膨大だった。その賠償なんてものをさせられた日には、ユフテラスの大河だって干上がるというものだ。

 僕は、その一部始終を知っている。戦争が終わったのが、僕が徴兵年齢になるぎりぎりだったことも知っている。その後のこの国の大混乱も、身を持って体験したと思う。それでも僕は自分がその際に何をしていたのか、思い出せずにいる。別に思い出さなくてもいいとは思っているのだ。忘れたということは、覚えていたくないことだろうから。それから、なんだかんだと、今が幸せだということなのだろうから。

 とはいえ、だ。それを差し引いても僕はどうにも忘れっぽい。特にそう、全く興味のない本の管理番号なんて、覚えようと思っても頭からすっぽ抜けてしまう。

「ええと、地質学、だろ? 確かここだったような……」

 うろうろと本棚の迷宮を彷徨う僕に、ミヒルが大笑いしながら指摘する。

『ちーがうって、そこは植物学。なんだい、お花にいい土でもあげようと思ったのかい?』

 よせやい。インクの花にインクの土をあげたところで結局全部インクだろうに。

「なんだ、暗記は得意科目? そりゃあよかった、是非ご教授願いたいところだね」

 皮肉を返すと、彼女は呆れたようにため息一つ。

『……君さあ。この仕事向いてないんじゃないの?』

 まあ、そうなんだろうけど。とはいえせっかく紹介してもらったところだ。もしさっさとやめたりなんかしたらギルさんの面子も立たない。

「向いてなくても、いい職場だ。使えるものは全部使って役に立たないとさ。というわけで、ほら。早く地質学の棚を教えておくれよ」

 はいはい、と別方向に向かうミヒルに、僕はついていく。

『せめて書き留めて置きなよ。そんなんじゃあ何日も経たずに限界が来るよ』

「ノートがあればね」

『買わないの?』

 彼女が首を傾げるが、このご時世ノートを買うのだって安くはないんだよ?

「山ほどの紙幣を積み上げてその十分の一の厚さのノートを買うのかい? アホらしいったらないよ」

『もういっそ紙幣に書けばいいのに』

 思わず吹き出した。そいつは確かに名案だ。造幣局もこんな無駄にゼロの多い印字なんてやめてまっさらな紙をばらまけばいいのに。というか、あれだね。

「紙を買うためにその十倍の紙が必要という時点で世も末だね」

『全くね。おかげで私たちがひもじい思いをする』

 ほら、そこだよ。指差された場所に確かに隙間がある。ああよかった。これで午前中の返納作業は終了だ。ちょうどいいタイミングで、大きな声が響いてくる。

「おおい、クライン! 終わってるか?」

「今終わりました!」

 返事をすると、機嫌良さそうにその野太い声がこう提案する。

「そいつはよかった! ちょっと早いが昼にしよう!」

 お、これはもしかしたらご馳走してもらえるやも。今行きます、と返して僕は慌てて戻る。そう、その慌てたのが良くなかった。

 脚立に脛をぶつけた。それで倒れただけなら良かったのだけど、キャスター付きの脚立が勢いよく転がっていった先に山積みにされた午後返納分の本が。そこで僕は思ったのだ。きちんと分けて積んでおけばよかったなあ、と。

 脚立がぶつかった本の山は、グラグラと揺れてこともあろうに僕のほうに倒れてくる。足をぶつけてうずくまっている僕に、回避できるわけもなし。

「うわあああ」

 僕の情けない悲鳴すら、圧倒的な記録の重みに埋もれてしまった。


「仕事を増やすんじゃないよ、新入り」

 さっきとは打って変わって不機嫌になった声で、僕の雇い主は弁当を差し出してくれた。僕は恐縮しながらそれを受け取る。

「すみません……」

 事務室の中、未整理状態のそこを僕はほとんど床を探すようにして歩き、壁際に放置された粗末な椅子に座った。

「この分じゃあ、ここもしばらく放置だな。全く歩きにくいったら」

 言いつつ、雇い主――ヘルフリートさんが跳ねるようにして自分の席まで向かう。その体型でよくぞ、と言いたくなるけれど、そもそもこの街でここまで肥え太ることができるのは純粋に恵まれているのだからなんとも。

「片付けないんですか?」

 聞くと、うんざりしたようにヘルフリートさんは答える。

「行き場があれば、な。こいつらは全部本来この図書館に納めるべき本どもだ。しかしまあ、残念なことにもう本棚が満杯なもんでね。また新しい本棚を都合するつもりなんだが、こう仕事が多いとなあ」

 そう言われると、脛に傷持つ身としては心苦しい。実際に脛に打撲も負ったしね。二重で痛い。

「その件は本当にすみません……」

 しかし、彼に僕を責めるつもりはなかったらしい。手を振ってそれを否定する。

「ああ、そうじゃないさ。主人ビジッツァの注文が多くてね。本の発注の方が多くて本棚まで手が回らん。入れる場所がないのに所有欲だけは一人前ときた。いやあ、今の時世じゃあ百人前は超えてるな」

 せめて増築くらいは許可して欲しいもんだが、と憤慨しつつ机の上の本を避ける。また発注書を書くらしい。彼も彼で多忙なものだ。

「お前さんを雇う羽目になったのも、通路が狭くなって俺じゃあ通れなくなったからだしな。いやあ、こいつときたら年甲斐もなく成長期でいけねえ」

 そう言ってヘルフリートさんは自分の腹を小突く。いや、まあ、サスペンダーでなんとか服の中に収まるくらいだから、そうなんだろうけど。急にお腹が弾けたわけでもあるまいに、一体今までどうしていたんだろう。

「というかあれだな。ギルベルトのやつが久しぶりに連絡を寄越したと思ったら求職の斡旋ときた。一体どういう風の吹き回しなんだろうな」

 そういえば。確かに元はといえばギルさんに出会ったのはリリーさんのあれこれがきっかけだ。けれどもリリーさんの人生はミヒルが食べてしまった。もちろん食べたミヒルは覚えているし、その契約者たる僕も忘れはしないけれど、ほかの人から見たら確かに僕とギルさんの関係は謎だ。

「お前さん、催眠術か何か使ったのか? 奴さん、自分でも不思議がってたぞ。どうして自分は見ず知らずの根無し草の面倒を見る気になったんだろうって」

 それは、まあ、説明したって納得できないだろうし。だって面倒を見ていた女性の人生をアクマに食べさせたので繋がりが途絶えました、なんて。この街に精神病院があったとしたら緊急搬送、即入院だ。こういうのははぐらかすに限る。

「ええと、僕にはなんとも」

「そりゃあそうか、お前に聞いても仕方ねえか。すまねえな。あの老いぼれのことだ、空きっ歯から記憶がすっぽ抜けてても不思議はねえや」

 そうジョークをこぼしてから、ああいや、と首の後ろをかく。

「もしかすっとあれかもな。記憶喪失怪事件。あれと違うのはあっちが全部なのに対してギルの野郎はその件だけだってことか。とはいえ、記憶がなくなってることに違いはねえんだし」

「う」

 声が漏れた。記憶喪失って、もしかして一昨日の件だろうか。となると、犯人は僕たちということになる。もちろんその立証はできないだろうけど、自分が原因の事件が騒がれている、というのはあんまりいい気分じゃない。

「あ、あの、その事件というのは」

 恐る恐る聞くと、ヘルフリートさんはうんざりした様子で答えた。

「お前さんはそういやよそ者だったな。気をつけたほうがいいぞ、男でもな。特に夜道にゃ注意しな。一昨日のは珍しく真昼間だったが、大体夜に起きてる」

 ……あれ? 何か変だ。リリーさんの件もカウントされてはいるけれど、どうにも別の事件と混同されているらしい。夜に、一昨日と同じようなことが起きている、と?

「そこらへん歩いてるとな。記憶をなくした放浪者がいるんだわ。身寄りもない、そこらじゅう聞いて回っても知ってるやつすらいやしねえ。にも関わらず旅をしてきたような服装にも見えねえ。どうにも変なんだよ。俺が思うに、誰かが組織ぐるみで記憶を奪った状態で、ほかの街から拉致してきてるんじゃねえかな。それにしたって動機も方法もわかったもんじゃあねえんだが」

 確かに、普通の人から見たらそう見えるだろう。けれど、僕はなんとなく見当がついた。ふと隣を見やると、ミヒルがものすごい勢いで顔をしかめている。

「まあ、詳しく知りたいなら新聞でも読んで見るんだな。俺はもう見飽きたんでゴメンだが」

「調べていたんですか?」

 聞けば心底嫌そうな顔が返ってくる。それから何やら思い出したように彼は何やら書き始める。

主人ビジッツァの注文でな。ちまちまこの狭い事務室で新聞を切り抜いている俺を想像してみろ。みっともなくて涙が出らあ」

 その上一週間で返してきやがったんだぞあいつ、とヘルフリートさんは憤慨する。というか、ちょくちょく話に出てくるのだけど。

「そういえば、この図書館って誰かの所有物なんですか? 国有のものにしては人員不足だと思いましたが……」

「そうなんだよ。ここは図書館というよりはただの個人の書庫でなあ。コンラート・フォンケルっつう大富豪が俺たちの主人なんだがな、これが面白いくらい自分勝手なやつでな。さっき戻してもらった本もあれさ、やつが読み終わったもんだよ。それで今日、また本を取りに来るって言うんだからやってられん」

 ほれ、と走り書きのメモを渡される。そこには本のタイトルらしきものがずらっと書き殴られていた。

「今日の夕方までに揃えなきゃならん本のリストだ。俺は出てくるからな、そこのカバンに詰めといてくれ」

 それだけ言うと、彼はため息混じりに先ほど書き上げた注文書を引っつかんで事務室を出て行った。僕は弁当を食べつつ、そのメモを眺める。

「……これ全部を?」

 見るだけで頭が痛くなる分量。これをあの短時間で書き終えたところに、ヘルフリートさんの日頃の努力が伺えた。

『……手を貸してあげようか?』

 ミヒルが見かねて声をかけてくる。うん、まあ、手伝ってもらうことにはなると思うけど。

「貸すどころか、全力で働いてもらわないと。ちょっと気になることがあるんだよね」

『へえ?』

 意外そうなミヒルを尻目に、僕は弁当を食べ終えた。


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