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第七章 幸せを食べるアクマ

 崩れ落ちて気を失ったリリーさん――元、と頭につけるべきか――を置いて、僕は家を出た。やがて目を覚ました彼女は、それまでの記憶をすっぱりなくした別人として、生きていくことだろう。そこに多分、僕はいらないのだ。エーリッヒさんの代役として呼ばれた僕は、エーリッヒさんの記憶を持たない彼女にとってはもはや不要であるだろう。

『よかったのかい、クライン』

 ミヒルがふよふよと浮きながら追いかけてくる。

「よかったって、何がだい?」

『何がって、彼女の名前を食べたことだよ。君は彼女を幸せにしてやりたいって言ってなかったかい? なのに彼女の幸せを食べてしまってよかったのかってことさ』

 なんだ、そんなことか。僕は即答する。

「良かったんだよ、あれで」

『ふうん。そういうものかな』

 ミヒルは少し考えてから、今日も澱んだ曇空を見上げた。

『彼女の人生ね。すごく味付けが濃かったよ。そして、ぱっさぱさだった。潤いが何もなかった。なんていうか、あれだね。君たちが食器を洗うときに使う、スポンジ、とかいったっけ。あれにひたすら味をつけたような感じ』

 そうだろうな、と思う。彼女は『幸せ』であるために幸せを人工的に製造した。多分、アクマ的にはジャンクフードに違いない。

『それなりにお腹は膨れたから、幸せなこともあったんだとは思うよ。でもさあ。そんな不自然な人生を生きて、彼女は実際幸せだったのかねえ』

 それは、まあ、彼女の考え方一つだったろう。ただ一つだけ言えることは、ああいう思いは人間なら誰しも少しは抱えているということだ。

「さあね。でもねミヒル、僕には彼女の気持ちがわかるよ」

『へえ、私にもわかるように噛み砕いて教えてくれると助かるな』

 それはちょっと、ハードルが高いような。僕は少し考えてから、思いついた答えを返す。

「ええと、そうだな。要はね、僕たちは幸せを食べないと生きていけないんだ」

 幸せを、食べる。それは何も、アクマに限った話じゃあない。人間だって同じくらい、幸せというものに飢えている。

「自分を幸せだと思わないと生きていけない。幸せな感覚を消費しないと辛い毎日に耐えられない。そのために自分の認識すら捻じ曲げる。幸せだと思い込んで日々を生きる。満たされない胃袋を満たすために、世間的な幸せを捏造する。自分自身すら騙して、幸せを消費して今日を生きる。そういう生き物なんだ、人間っていうのは」

『そりゃあ大変だね、クライン。アクマは幸せだけで生きていけるのに、普通の食事だけじゃあなくて幸せも食べなきゃ生きていけないなんて。大忙しだ』

「そうだよ、忙しいんだよ、人間は。しかも意地汚いもんでね。満腹っていうものがない。もっとを求めだすと止まらない生き物なんだ」

 腹八分目で止めておけば十分なはずなのに。それができないから人間はここまで発展した。それはいいところでもあり、悪いところでもある。

「リリーさんは、抑えが効かなくなってしまっていた。彼女が求める『幸せ』はどこにもないんだ。そして、それを求めるたびに彼女は自分がせっかく手に入れた幸せを失ってしまう。そしてその原因は彼女の過去、もう手の届かない場所にある。だったら全部消去してしまったほうがいいと思ったんだ」

『今までの幸せをなかったことにしたほうが、彼女は幸せになれる、と?』

 むつかしいね、と笑うミヒルに、僕は首を振った。

「断言するつもりもないよ。これから彼女が本当に幸せになるかどうかは、彼女自身の努力にかかっている。『ほどほどで妥協する』努力にね。もしかしたらこれまでよりもっと不幸になるかもしれない。でも、少なくともあのままでいたら彼女はただただ不幸になっていくばかりだった。だから、人生を失った彼女がきちんとやり直せる可能性を選んだ」

 そこで、ふとミヒルが僕のことをとても優しげな瞳で見ていることに気がついた。なんとなく照れくさくて、僕は顔を背ける。

『……そうかい。君は私の人生を食べる、という性質を「人生をやり直す」機会を与えるために使おうと考えたのかい』

 やっぱり、と付けたそうな調子で、彼女は囁いた。何がどう「やっぱり」なのかは僕にはよくわからない。

「そんな大層なもんじゃあないんだけどね。もし君の幸せを食べるという行為を人間の幸せのために使うとしたら、そういう使い方が一番かな、と思っただけだよ。それに」

 口が滑った。それ以上を口にするつもりはなかったのに。

『それに?』

 ニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んでくるミヒル。ええい、仕方がない。できるだけ小さな声で口にする。

「ミヒルが、お腹を空かしてたから。ミヒルが納得する形で、今すぐ食べさせてあげたくて」

『……』

 促した本人も顔を赤くして黙り込んだ。いや、ほらね。だから言わないつもりだったのに。地雷で遊んで実際に爆発させてりゃあ世話もない。

『そ、それにしてもクラインはちょっと薄情じゃないかい。ええと、ほら、あの子は自分に関する記憶がさっぱりなくなったんだよ? せめて今日くらい泊まってあげればいいのに』

 露骨に話を逸らすミヒル。もう少し素直になってくれたら、僕だってきちんと君をかわいいって言って挙げられるのになあ。思いつつ、僕は肩をすくめる。

「いらないよ。記憶喪失になって目が覚めたら背の高い男が横に居た、とか怖すぎるでしょう。僕は警察の厄介になるつもりはないよ。それに、万が一にもまた僕に依存されたら困る。僕は今後の彼女の人生まで付き添ってはあげられないんだから」

『そ、そうだねえ。君は私の契約者なんだからね』

 照れるんなら口にしなければいいのに。なんだかなあ。

『それじゃあまた宿探しだね。アテはあるのかい?』

「ないよ。ないけど……」

『ないけど?』

 ギルさんの話を思い出す。確か「山」に勤めている人はみんな夕方と早朝しか出歩かないのだという。加えて夜以外はほとんど家にいない。そして、宿を営んでいる人はきっと「山」で働いてはいないのだろう。だったら単純な話。

「今明かりの点いている家を探そう。宿屋ならきっと、一日中家にいるんだろうから」

『なるほど、一理ある。しかしあれだ。そいつはだいぶ不健康だね。少しは外に出たほうがいいのに』

 まあ、確かに運動不足ではあるだろうけどさ。僕は「山」から立ち上る煙を見上げる。

「そうでもないよ」

 空の様子が、少し変わってきていた。もう少しで雨が降る。急がなきゃまずい。僕は傘を持っていないんだ。

「この街じゃあ、外を歩き回るのも同じくらい健康に悪い」


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