第五章 できるだけマシなイチニチを
地獄がもし地上にあるんだとしたら、多分ここだ。しかも相手に害意がないからタチが悪い。
「クラインさん、お茶が入りましたよ!」
「クラインさん、お掃除しますね!」
「クラインさん、耳かきなんてどうですか!」
「クラインさん!」
あの、ね。僕は変わらずタオル一枚なんだよ?
まあ、外に出られないとなると僕は僕でやることがないのも確かなのだけど。本を持って歩けるほど僕たちの持ち物に余裕はない。日記帳すら持ち歩けないのは少し辛い。特に僕はどうにも忘れっぽいから、日々のことを書き留めておきたいとは思うのだけど。まあ、今日のことは間違いなく忘れやしないだろうと思うけれど。
『……君は一体何をされているんだい?』
耳かきだよ、ミヒル。なぜか僕は耳かきをされているんだ。僕は別に耳に垢がたまりやすいわけでもないのに、やってほしいと言ったわけでもないのに、どうしてだろうね?
『君、もしかして気持ちよくなったりしてないかい』
どこか不服そうに僕の顔を見下ろすミヒル。不服なのは僕のほうだよ。なんで僕はタオル一枚でこの人に膝枕をされているわけかな?
「どうですか? 気持ちいいですか?」
いや、気持ちいいけど。気持ちいいけど。そうじゃないでしょ。
「あの、リリーさん。僕の服はもう乾きましたか」
すると、彼女は今思い出したかのように口を開けた。
「あ、ああ、どうでしょう。見てきましょうか」
そうして僕の頭を床に置いて物干し竿を見に行くリリーさん。ああ、ようやく解放された。体を起こすと、どっと疲れがこみ上げてくる。
彼女の行動はそれぞれ僕を慮ってのことなのだろうけれど、そのどれもがなんというか、重い。少なくとも単なる居候に対してとは考えられないほどの奉仕。付き合う側が疲れてしまう。もしかして、彼女は常にこうなのだろうか。これは、うん、離れていくわけだ。最初は微笑ましく思えても、一事が万事こうとなるといろいろと来るものがある。
「クラインさん、乾きましたよ! お召しになりますか?」
そう聞いてくるあたり、別に何が何でも脱がせたかったわけじゃあないらしい。あくまで配慮した結果なのだろうから恐ろしい。
「もちろんです。今行きますね」
立ち上がると、リリーさんは慌てて制止した。
「ああいえいえ、お待ちくださいな。元はといえば私の浅慮が招いたこと。私が着せて差し上げますわ」
「……いや、あの」
お姫様か何かかい、僕は。
半ば強引に彼女の手から着替えを奪い、僕は家を出た。
「ちょっと街の様子を見てきます」
そう言うと、リリーさんは案の定ついてこようとした。
「あ、クラインさん、私も同行いたしますわ! 道案内が必要でしょう?」
その申し出を丁重にお断りして、なんとか単身家を出ることに成功する。勘弁していただきたい。何しろ今からやろうとしていたことはミヒルの食料探し。平たく言えば獲物探し。彼女のような同行者がいてはまるではかどらないことだろう。
『……恐ろしい人間もいたものだね』
ミヒルがぐったりとした様子で呟いた。恐ろしい、という部分には同感だけどね。君のその疲れの原因は大体が一人で身悶えしていたせいだよ、多分。
「あんまりここには長居しないほうが良さそうだね。ここまで干渉されると僕たちも動きづらい」
『とりあえず、彼女のそばからみんなが離れていく理由はわかったねえ。どうしてあそこまで過干渉なのかはやっぱり疑問だけど』
ミヒルが眉をひそめたそのとき、通りかかったおじいさんから声をかけられた。
「おお、お前さん。この家に居候になったのかい?」
いいえ、人違いです。いつもの癖でそう言おうとして、人違いでないことに気がついて言葉を飲み込んだ。いろいろな人に間違えられるから、条件反射が染み付いてしまっている。
「ええと、まあ、そうです。ここのお嬢さんは、ええと、非常に『親切』でして」
それはそれは、と微笑むおじいさんは、どこか同情を目に浮かべていた。
「ここいらのもんはみんなあんたの気持ちがわかるよ。リリーが非常に鬱陶しい。そうだろう?」
そこまでは、言わないけれど。でもそれに近い感情を持ってしまったことは確かだ。答えに窮していると、おじいさんはくるりと踵を返した。
「ただねえ。あの子だって理由もなくああなわけじゃあない。わしはあの子が気の毒で気の毒でねえ。もしも時間がありゃあ、この老いぼれの話を聞いてあげてくれないかね」
『だってさ。ティータイムには少し早いけれど、どうする? クライン』
聞く必要はないけれど、と言いたげなミヒル。けれども多分このおじいさんだって誰かに聞いて欲しいはずなんだ。しかも、事情を知らないよそ者に。事情を知っている人には口にしづらい懺悔だってあるはずで、だったら僕はその適任のような気がした。
「ええ、よろしければ、是非」
その答えを聞いて、おじいさんはゆっくりと歩き出した。
「ありがとう。それでは、立ち話もなんだ。広場のほうまで行こうかね」
しかし、どうも彼の歩みが遅い。もちろん杖をついていることはあるのだけど、その分を差し引いても十分に遅い。もしかすると、足に何か不具合でもあるのかもしれない。僕は彼の歩幅に合わせて、非常にゆっくりと歩く。
『……いいのかい? どうせこの家は長居しないんだろ?』
ぴょこぴょこと尻尾を振りつつミヒルが問う。それは、まあ、そうなんだけども。どうせ、そうだから。小声でぼそりと答えを返す。
「どうせなら、自分が関わった人たちは幸せであってほしいじゃないか」
それだけ。ただそれだけだよ。幸せにしてあげたいって思うことに、理由はいらないと僕は思うんだ。たとえキリストじゃあなくたってさ。
広場のベンチに腰掛けて、僕たちは枯れ果てた噴水を見た。おじいさんが残念そうに口を開く。
「この広場もね、戦前は草花が生い茂るいいところだったんだよ。噴水もきちんと水を噴き上げていて、出店も少しはあったんだ」
閑散とした広場を眺めて、彼は懐かしそうに目を細める。彼の目に映る景色は、僕には想像することしかできない。少なくとも今僕の目には、枯れて少し溶け出した噴水と土ばかりが露出した荒れ果てた花壇と、誰一人座っていないベンチが見えるだけだ。
「わしはね、戦争で足をやられた。けれどまあ、それが幸運だったのかね。最初のころだったから、そのまま帰って来られた。これが最後のほう、負け戦になってきたころなら、そうもいかんかったろうなあ。今頃ハイマートの肥料になっていたかもわからん。けれどもそのころはまだ軍にも余裕があってな。負傷者を回収するだけの余力があった。だから戦争中はほとんどこの街にいたんだがね」
彼がそっと右足のスラックスを持ち上げると、そこには人間の肌がなかった。それで僕はようやく納得する。義足だったから、あそこまで歩みが遅かったのかと。
「リリーに関してはね、あの子はひどい父親を持ったよ。わしはよく知らないが、だいぶアコギな商売をしていたらしくてね、そのコネで兵役逃れまでしていたらしい」
まあ、軍にいたほうが生き延びれたのかもしれないが。おじいさんはそう言って乾いた笑いを浮かべた。
「口癖は『完璧じゃなけりゃ幸せじゃない』だったかな。とにかくそういう性分だったらしく、リリーに対してもそうやって怒鳴っているのを何度か聞いたよ。それがねじれて伝わったのかねえ。本人がどういう意味で言っていたかは今となっちゃあ確かめようもないが」
「……それで、彼女はあそこまで?」
「元々素地はあった、という話さ。リリーもリリーでねえ、あの父親の話をバカ正直に聞いていた。ひどい親でも、彼女はそれに依存していたわけだ。そして人並みに恋をして、甲斐甲斐しく相手の世話を焼いた。相手も父親の眼鏡に叶うだけの若者だった。順調だったのさ。あの戦争で、全部なくなるまでは」
結局、それか。僕たちはあの戦争で、いろいろなものをなくした。資産以外の全てを、彼女はなくしてしまったというだけの話。
「最初はエーリッヒを探しに街を徘徊するだけだったんだよ。でもね、あれだ。あの子は美人だろう。人違いをされたことをきっかけに口説く男が多くてね。それであの子も、拠り所がなかったものだからとにかく藁にもすがった。相手に捨てられないように。でもそれが相手からしたら非常に重いんだよ」
それは、すごくわかる。僕もあれが毎日はとても耐えられない。
「だから彼女の家に居候した男はみんな逃げ出してしまってね。それが結構な頻度なもので、おかげで事情を知らないものからは色ボケ女、などと揶揄されてしまっている。この街には、戦後に仕事を求めて流れ着いた人間も多いものだから」
ようやくすっきりした。あれだけいい子がなぜ近所の人に頼ろうとしないのか。頼れないのだ。
「……きちんと見れば彼女が相応に不幸な女性だということはわかったはずです。僕だって、この街に来てたった一日だ。それでわかるんだから、時間をかければ誰だって」
僕が言い募ると、彼は呆れたように笑い飛ばした。
「『時間をかければ』だって? はっは、失礼だがあんたは時間に余裕があるらしい。この街じゃあね、時間があるというのはかなり幸せな身分なんだよ」
言いつつ、彼はそこらに転がったコンクリートの破片から小さなものを一つ手に取ると、近くの家に軽く投げつけた。窓に当たって結構な音を出したはずなのに、何も反応が返ってこない。ほらね、と彼は肩をすくめてみせる。
「昼間に家にいられるなんて、富豪の特権さ。だいたい日中は皆『山』に登って、働いて、夜に帰ってきて、起きたらまた働いて。夜勤のやつは逆さ。早朝に解放されて昼まで死んだように眠る。休みなんてないし、女子供の区別なんてしていられない。だから、まあ、市場も早朝と夕方に開く。それ以外で買いに来るやつがいないのをわかってるんだ。
誰も他人を気にしていられない。余裕がない。だからリリーのことも表面上でしか見ない。表面的には金持ちばかりを家に呼び込んで金をむしり取る性悪女だ。昼間に歩き回るほど金と時間もある、と。そりゃあ誰だって同情なんてしないさ。ひどい目に遭っている、というなら、誰だって同じようなもんでね」
一つため息を吐いて、彼は言葉を継ぐ。
「もしそれでもあんたが彼女に同情するんなら、支えになってやってくれんかい。女の一人暮らしは、この時代にはきつい。あんただって、家がないからリリーの家に転がり込んだんだろう」
彼の気持ちは、わからないでもなかった。一方で僕たちには僕たちの目的があって、そのためには多分、この街に留まることはできないだろうこともわかっている。少なくとも、彼女の家にこれ以上留まろうとは思わない。リリーさんの心を癒すために、ミヒルを衰弱死させるつもりは僕にはない。
ただ、ただ。どうせなら、という思いが尻を炙っている。どうせ僕は彼女の傍にはいられない。それでもどうせなら、彼女も今より少しくらいは幸せになってほしい。そんなことを思ってしまうから、僕の不幸体質は抜けないのだろうと思う。
「……考えて、みます」
僕の返答をどう捉えたのか、彼はそっと微笑んで腰をあげた。
「いやあ、時間を取らせて済まなかった。退役軍人は金と時間だけはあるものでね。老いぼれの戯言に付き合ってくれてどうもありがとう」
僕は立ち去ろうとする彼に声をかけた。
「その代わりと言ってはなんですが、すみません。少しお聞きしたいことがあって」
「何か?」
多分、彼はこれまでの話の続きだと思ったのだろう。少し重い表情で応えた。けれども、実のところ僕には僕で問題がありまして。
「どこかにいい仕事の口はありますか?」
「……どうりで時間があるはずだよ」
あちゃあ、と額に手を当てるおじいさん。そうなんだよ。別に僕は富豪でも何でもないんだ。
『無職』
それまで神妙に口をつぐんでいたミヒルが、我慢できなくなったのか耳元で囁く。ええい、わかってるよそんなこと。でも根無し草を続けているのは君のためなんだ。そこをいじられる筋合いはない。
おじいさんは少し考えていたが、やがて諦めたように頷いた。
「知り合いを当たってみよう。わしは明日もここにいるから、同じ時間にここに来るといい。最高の勤め先とは言わないが、まあ最悪の中の一番マシなところを探してみる」
よかった。少しの間滞在するのに、日銭を稼げないのは非常に辛い。どうせまた旅をしなければならないのだし。
「ありがとうございます! ええと……」
名前に詰まっていると、彼は今まで自己紹介をしていなかったことに思い至ったらしい。手を差し出してこう言った。
「ギルベルト・フランク。ギルでいい。よろしく」
その手を、僕は取らなかった。握手は、僕にとっては少し特殊な意味を持つので。
「ああ、いえ、大仰なことは不要です。私はクライン。クライン・グリュックリヒです。それではごきげんよう」
言って、逃げるように立ち去ると、追いすがるようにギルの声が響いた。元軍人だけあって、よく通る声だった。
「また明日、クライン。できるだけマシな一日を」
当たり前のように、彼はそう言った。この街では「いい一日」は奇跡みたいなものなんだろうと、改めて実感した。