第三章 銀の雨が降る街ミドメル
しばらく登ったところに、簡素な露店があった。折りたたみの机を広げただけにしか見えないけれど、後ろにトラックが停められていて、その荷台に大量のタンクを抱えているので、これはこれで合理的なんだろうなあ、と思う。きっとこれを売り切ったらさっさと机を畳んで、またほかの街に水を集めに行くのだろう。お金はお金で大量の麻袋に詰め込んで、水の代わりに積んでいけばよし。なかなかいい商売だ。正直なところ、水と一万バルク紙幣が同じ体積で等価になるこの状況が空恐ろしいけれど。
「それでは、待っていてくださいな。美味しい水を買ってきますから」
ニッコリと笑って、リリーさんは行列の最後尾に並んだ。つかの間の休息だ。僕は石塀に腰掛けた。
『あれだねえ。こうして見ると買い物だなんだと言いつつ社会の基本は物々交換なんだね。原始的なもんだ』
ミヒルがくすくすと笑う。気持ちは、わからないでもない。
本当なら、紙幣というのは何にも使えない代わりに何にでもなる交換券であるはずなんだ。物々交換というだけだと需要と供給に不均衡が生じる。だから何にでもなるものがあれば、それを通じて世界が回る。それに水や肉は重いけれど、紙なら軽いし、何にも使えない分価値も自由に決められる。だから昔はお金さえ数枚財布に入れて行けば、好きなものを買えた。
それが今はこんなだ。どうでもよさそうに水売りのおじさんが荷台にお金を投げ込んでいく。戦争に負けた、というただそれだけで、うまくいって当たり前の仕組みが破綻する。お金がただの紙以上の価値を持たなくなる。こうして水を買うためだけに、汗を垂らして荷車を引いてこなくちゃあいけなくなる。
『それにしても、クライン。どうしてみんな、水を買うだけのためにここまで並んでいるんだ? 喉が渇いたなら川の水でも飲めばいいじゃないか』
「それがね、そうもいかないんだよ、ミヒル」
言いつつ指を差すのは、すぐそばを流れている水路。覗き込まなくてもわかるほどに、汚い。異臭が立ち込めているから、みんな水路には近づこうとも思わない。彼女はわざわざそれを覗いて、思わずと言わんばかりに声を上げた。
『おわあ、こりゃあひどいね。どうしてこんな』
顔をしかめつつ首をかしげるミヒルの横で、窓が開く音がした。そして、べしゃ、と何かを水の中に投げ込む音も。それで彼女は納得したらしい。げんなりした様子で戻ってくる。
「疑問は解決したかい?」
『したよ。したけどさあ……。全く、文明的な所業とは思えないね。窓から汚物を投げ捨てる淑女もいたもんだ』
「それがまあ、この街じゃあ常識らしいから。そもそもそうじゃなくても工場排水で、まともに飲めたもんじゃあないそうだよ。だからみんなあんなことをしているわけさ」
なるほどねえ。ミヒルは空を見上げる。
『しかしそれなら雨水でも貯めておけばいいんじゃないかい? まさかカミサマの小便を飲めないってわけでもなかろうし』
うん、その発想はもっともなんだけど。それができないから、この街は「銀の雨が降る街」なんだよ。
「それがねえ、ここのカミサマのお小水は飲めないんだよ。ほら、あれが見えるかい」
建物の向こう側に、そびえ立ついくつもの煙突を指し示す。工場がいくつも積み重なって見えるあの工業地帯は、俗に「山」と呼ばれている。要は、洒落だ。ゴツゴツした岩肌に、にごりきった湧水を垂れ流し、煙が立ち上る煙突は噴火口、というわけだ。ついでにあそこに立ち入った労働者はもれなく無事では帰ってこない、という意味も込めて。
『あーりゃりゃ。これまた立派な山脈だこと。おまけにこいつは噴火中だねえ』
「そうだよ、ここの山はいつでも噴火中だ。それで上った煙が雨を降らせるんだけど、こいつが有毒でさ。晴れの日でも傘を持ち歩くほどらしいよ」
荷車に備え付けられた二本の傘を見せると、彼女はたまらず笑いだした。
『あっはは、それで真水が貴重品なわけだ。人間ってのは変な生き物だね。どうしてこう、自分の住みにくい世界に向かっていくんだろ』
「さあてね。でも少なくとも、最初からこうだったわけじゃあないさ。この国が負けたから。だからこの街は全力稼働しなきゃいけなくなって、銀の雨が降るようになった」
結局のところ、この国の全ての不都合はそこに集約されるような気がする。戦争に負けた。本当はただそれだけのことで、上が勝手にやったことなのに、僕たちは深刻な影響を被っている。負けたから、水も満足に手に入らない。負けたから、ほとんどの男の人がこの国にはいない。負けたから、みんな誰かを探して、欠けたものを埋められないまま。
この国では、幸せは貴重品だ。いくら札束を積んでも、今の紙幣価値じゃあ幸せの代金には程遠い。だからもしもミヒルが本当に、この国の人たちを幸せにしようと思うのなら、僕は応援したいと思う。手伝ってあげたいとも、思う。
『ふうん。じゃあ、もしも私がここで真水をぱーっと出したら、みんな幸せになったりするのかね?』
「……ミヒル。いつも思うんだけど。君はちょっと短絡的すぎるよ」
本当、がっかり。そりゃあこの場は潤うかもしれないけどさあ。人間の幸せってのはそんな単純なものじゃあないのだけど。
「そんなんじゃあ幸せを育てるなんて夢のまた夢だね」
『なんだよ、だったら正解を教えてよう』
そんなものがあったら僕が知りたいよ。ため息をつくと、ようやく買えたらしいリリーさんが手を振っていた。
「クラインさん、荷車を持ってきてくださいな! 水を積んでもらいますの!」
横を見ると、トラックの荷台からタンクが下ろされている。しかし、その量がもう恐ろしい。え、あの量を運ぶの? 今度は下り坂を? 僕が?
『転がり落ちるのが目に見えるね?』
「勘弁してよ……」
荷車が位置エネルギー車に化けてしまう。アクセルの代わりも十分苦しかったけど、ブレーキの代わりも同じくらいにしんどそうだ。自分の膝が果たして保つだろうか。
なんにせよ、行くしかないのだ。どんな目に遭うにしても、必要に迫られたなら。
結論から言って、僕は義務を果たした。うん、それならまあ、それでいいさ。おかげで僕は一歩も歩けなくなってしまったけれど、休めばよくもなる。だからリリーさんが喜んでくれたなら、まあ、僕がどうなろうとどうだっていいさ。
あてがわれた部屋で休んでいると、リリーさんに呼ばれた。壁を伝いながらリビングに向かうと、そこには立派な料理が並んでいた。シチューにライ麦パン、野菜のサイコロ炒め。
「……感動だなあ、これは」
思わず漏れた声に、リリーさんは顔を染める。
「そんなに、ですか? いつもエーリッヒに作っていたものなんですが」
へえ、これをいつも。そりゃあ、さぞ幸せだろうなあ。
「いやね、旅をしていると大体まともな料理なんて食べられませんで。肉の燻製なんて食べられたら贅沢なくらい。大体トカゲだとか虫だとか。食べられそうな雑草もなんとなく目星が付きます」
ひっ、と彼女は顔をしかめた。ああ、こりゃ失敬。街の人にとっては食事時に想像したくない絵ヅラだろう。でもこれが僕にとってはご馳走なんだよなあ。
「と、とにかく食べましょう。冷めてしまいますよ」
エプロンを外して椅子に腰掛ける彼女に倣い、その向かいの席に着く。ワインまで用意してあるとは、また余裕のあることだ。
「……お金に余裕があるんですね」
つい、口が緩む。別に嫌味を言うつもりはなかったのだけど、それでも彼女は少し傷ついたように目を伏せた。
「親が、お金を溜め込んでいたものですから」
それだけじゃあ、ないだろうに。この国で、きちんと三品出せる家庭がどれだけあると思っているんだ。
せっかくだから、と僕は質問を投げてみる。
「リリーさん。失礼ですが、親御さんが亡くなられたのはいつでしたか?」
「ええと、そうですね。三年ほど前だったかと」
戦争が終わる直前、と。じゃあまあ、死因は想像がつく。あのころは空襲もひどかったし。おそらくはその犠牲になったのだろう。
「エーリッヒさんが戦争に出たのは、いつごろでしたか?」
「……三年前です」
そりゃあ、そうだろうね。ほら、軍に志願して帰ってこなかったって言ってたし。それはいいんだよ。
「もう一つ質問いいですか」
それで戦争が終わって、紙幣価値が大暴落。うん、ということはだよ。溜め込んでいたお金の価値も同じように大暴落したはずで。
「あなたのその資産は、一体どこから来たんですか?」
「――え?」
彼女の顔が、一気に凍りついた。そして思わずというように周囲を見渡してしまう。その反応から、ある程度は察せられた。なら、もうそれでいい。さっと撤退を試みる。
「ああ、いえ。ちょっと気になったものですから」
『流石だねえ、クライン。女心を踏みにじる天才だあ』
ミヒルがけらけらと笑う。僕だって、別に彼女を傷つけたいなんて思っちゃいないさ。それでも、看過できないことだってある。もしも彼女が強盗とかでお金を稼いでいるのだとしたら、僕の身だって危ないわけだし。
しばらく、僕たちは何も話さなかった。沈黙の中、スプーンが食器を引っ掻く音だけが響いていた。食事は美味しかった。シチューも粉乳なんかじゃなくてきちんと牛乳を使っているのがわかったし、野菜のサイコロ炒めはバターの匂いがした。パンも混ぜもののない純粋な小麦粉の味がした。だからこそ、僕は聞いたのだけど。
このご時世に、全く代用品を使わないような食生活を続けられるような資産が、一体どこから出てきたのかと。
「……すみません」
食べ終わってから、彼女は呟いた。
「いいえ、美味しかったです。皿洗いをお手伝いしても?」
「ご遠慮くださいな。今日はもう疲れたでしょう。部屋でお休みになって」
それなら、お言葉に甘えよう。僕はそっと席を外した。その直前、振り返ると、彼女が皿洗いをしようと腕をまくるところだった。そこにうっすらと火傷の跡のようなただれが見えるのを、僕は見ないふりをした。