第二章 不幸体質のクライン
本当に、リリーさんの家はすぐ近くにあった。一体なぜ彼女は何も持たずに家の近所をうろうろしていたのか。僕はどうにも不思議でたまらない。
彼女の家はそれなりに大きかった。他の誰も住んでいないのに、どうしてこんなに大きいのかわからないほどに。多分、あれだ。本当はエーリッヒさんとやらが住んでいたのだろうと思う。
「さあ、入って入って! 私はお部屋を片付けてまいります!」
言われるがまま、僕は家の中に入った。中は……どうにも、僕にはへんてこに見えた。
「ミヒル」
『うん? なんだい?』
「この家、おかしくないかい」
ミヒルは少し考えてから、とぼけたように首を傾げた。
『私はアクマだからなあ、人間の家が普通どうなのかはわからないよ。君はどう感じた?』
僕はリビングを見渡す。そのインテリアが、どうにも気になって仕方がない。
「まずね、統一性がなさすぎる。豪奢なシャンデリアとアウトドアな釣り用具、民族風のクロスに簡素な目覚まし時計。少しくらいなら違うものが混じるのもあり得ると思うけど、少なくとも同じ人が住んでいてこんなに趣味が矛盾するのはおかしい。同じ家具だってある。切り貼りしたんじゃないかってくらいに違和感がある」
『ああ、そういえばそうかもしれないね。それで?』
「もう一つは、増改築の跡だね。この家、何度となく増改築されてる。そこまで古くも見えないのに、多分五、六回はね。多分、不自然に残った基礎もあるから、削られてもいる。それがおかしい。普通に住んでいる人が、そんなに何度も家を作り変えるものかな」
ふうむ、とミヒルは考え込む素振りをした。それから全部放り投げるように笑い飛ばした。
『わっかんないよ、そんなの。でもね、あんまり考えすぎなくていいんじゃないかな。物事は大体単純なものさ』
そんなことを話していると、リリーさんが戻ってきた。
「準備、出来ましたわ! さあどうぞこちらに!」
彼女はまた僕の手を引っ張っていく。しかしどうにも天井の高さがちぐはぐで、不意に低くなっているところに僕は盛大に頭をぶつけてしまった。
「ひぐうあ」
リリーさんはぶつからなかったのでそのまま僕を引っ張り、僕はまた低くなっているところに頭をぶつける。
「いぎい」
ひどい。僕の額を割るためだけの設計じゃないのか、これ。じゃあせめてしゃがんで上を回避しよう、と思った次の瞬間には、突然現れた段差に脛をぶつけて転んでしまう。
「おごぅあ」
な、なにこれ。いくらなんでもおかしいだろう。なんで上を警戒し始める段階で下にトラップがあるんだ。悪意があるとしか思えない。というかこれ、どう考えても住みにくいよね。荒波に乗った船レベルに高低差がひどい。僕がここに住むとしても、確かに改装したくなってしまうなあ、これは。
『……ほんとについてないなあ、君』
ミヒルが苦笑しながら呟いた。自分でも面白いくらいだよ、全く。
転んで初めてリリーさんは僕がぼろぼろなことに気がついたらしい。どこまで動転してるんだろう。そろそろ落ち着いて欲しいところなんだけど。
「やだ、私ったら、申し訳ありません! もう手をひかないようにしますわ」
ぜひそうしてください。死んでしまいます。
通された部屋は、明らかに男性の生活感が滲んでいた。特徴的なのはカミソリとシェーバークリームがたくさん常備されていたこと。だいぶ髭の濃い男性がいたんだろうとわかる備蓄の量だ。
「ここは、もしかするとさっきの……」
聞くと、リリーさんはこくりと頷いた。今までと比べると落ち着いている。それなりに話もできそうだ。
「エーリッヒの部屋でしたわ。この家自体は私の親の形見なのですけれど、部屋も余っていましたし、エーリッヒは三男で家を継ぐ資格がなかったそうなので、ここに住まわせていたんです」
「ちなみに、そのエーリッヒさんは今どちらに?」
ええ、と少し答えて、彼女はしばらく黙り込んだ。下手なことを聞いてしまったかな、と話題を変えようとするタイミングで、彼女はぼそりとこぼした。
「先の大戦に駆り出されました。いいえ、語弊がありますわね。彼は自ら志願して戦争に行ったのです。年の頃はクラインさん、あなたと同じくらいだったのだけど、志願は徴兵より早くからできるものですから」
それで、帰ってこない。ならまあ、行き先は決まったようなものだ。ヴァルハラかあるいは畑の肥料か、というところだろう。
「それで、ですね。私心細かったんですの。親を亡くし、恋人を亡くし、ふらふらとさまよっているところにあなたを見つけました。ええ、そうなのです」
いきなり振り返ると、その真っ赤な顔で僕に詰め寄ってくるリリーさん。いや、だから、見つけたってなんだい。見つけたっていうのは探した条件に合うものを見たときに使う言葉だろう? まず僕らは赤の他人じゃあないか。
「もしよろしければ、この部屋に住んでくれませんか? 叶うなら、ずっと。家賃は頂きませんし、食事もお出しします。どうですか?」
ずっと、ときた。僕はこの街にそう滞在する気はないのだけど。挙句宿代も食事代もいらない、と言う。どう見ても裏がある。そうは、思うのだけど。
そっとリュックサックを揺すってみる。十日の野営で食料がほとんどなくなってしまったから、とても軽い。いくら金塊があるとは言え、タダで泊まれるのならそれに越したことはない。それに、ちょっとリリーさんのことも気になるし。
いろいろ考えた結果、僕はここに泊まることにした。
「それでは、すみません。お言葉に甘えさせてもらいます。代わりに何か手伝えることがあれば是非させてください」
「まあ!」
彼女は心底嬉しそうに手を合わせたあと、頼みづらそうに小首を傾げた。
「ええと、その。それでしたら持っていただきたいものがあるのですが、よろしいですか?」
「ええ、それなりに体格はありますので。任せてください!」
数分後、僕は安請け合いしたことを後悔した。
そういえば、そうだった。この国は戦争に負けた。そのときに多額の賠償金を払うことになった。結果、国の紙幣が大量に国外に流出して、お金の価値が底辺まで落っこちた。こんな国で、女性の一人暮らしが、出かけるときに男に持って行ってほしいものなんて一つだけだ。
「あ、あの、クラインさん。重くはないですか?」
重いよ。そりゃあ重いよ。万を越える紙の束を乗せた荷車。加えて坂道、登り坂。重くないわけがない。でも、なあ。安請け合いした手前、そんなこと白状できるわけもなし。
「だ、大丈夫ですよ。これくらい平気です」
うん。まあ、まだ、なんとか。そう付け加えたいのを必死で飲み込んだ。すると、何を勘違いしたのか、リリーさんはこんなことを言い出した。
「力持ちなんですね。素晴らしいことですわ。それでは、申し訳ありません。私少々疲れてしまいまして。お金と一緒に乗せていただいてもよろしいですか?」
……正気かい?
『ク、クライン、君大丈夫かい? いっひひ、私も乗ってあげようか?』
ミヒルはもう大爆笑である。笑いのツボに落っこちてしまったらしく、息も必要ないはずなのにひいひいと引き笑いが止まらない。というか、ミヒルにまで乗られたらまずい。ミヒルは基本的に取り憑いている僕以外には干渉できないしされないが、一方で僕には十分に質量を与えてくる。普段浮いているだけで忘れがちだけど、実は彼女はいっちょまえに成人女性より少し少ないくらいの体重がある。勘弁、して欲しい。
『というかさあ、クライン? 君の不幸体質って、もしかして自分のせいだったりしてないかい?』
一理、あるかもしれない。もう少し考えて行動するべきなのかもしれないけれど、だってこんなこと華奢な女の人にはさせられないし。どうせ僕はやることになっていた気がするのだ。
ただ、どうして僕なのかと思わなくはない。別に僕じゃなくても、近所の人たちが手伝ってやればいいだけの話ではある。年頃の男はいなくても、力持ちのおばさんならいそうな気はするのだ。もしかすると彼女はあまり近所付き合いが得意ではないのかもしれない。そう思いつつ、僕はまた一歩街路を踏みしめる。
「と、ところでリリーさん。今日は、何を買いに行くのですか?」
僕はついに荷車に乗った彼女に聞いた。すると、彼女は当然のように答える。
「水、ですわ」
「水」
「ええ、水。ほかの街から週に二回仕入れの車が来ますの。それで、毎回取り置きしてもらっているんですわ。何しろ、ほら。この街は『銀の雨が降る街』ですので」
ああ、そんな異名もあったっけ。まったくもってひどい街だね、ここは。