第二十章 コンラートへの鎌かけ
今日はコンラートさんが持ち出した本を返しに来る日だ。昼頃に来るということなので、僕にその戻し作業が回ってくるのは間違いなかった。じゃあそれまで暇かというとそういうことはなくて。
「また忙しくなるんだから、先にこいつを片付けてもらわないとなあ」
件の狸親父の言である。こいつ、というのはただでさえ狭い事務室に山と積まれたブックカバー。なるほど、確かに一理ある。ただ一つ言わせて欲しいのだけど、それ持ってきたのはあなたですよ。もちろん雇われている分際でそんなことを言える訳もなく、つまり僕はひたすらブックカバーを替え続けるほかないのであった。
「……ところで、ヘルフリートさんはどうするんですか?」
聞くと、彼は呆れたように肩をすくめる。
「また起きたんだよ、あの記憶喪失事件」
記憶喪失事件、というとこの街で連続して起こっているという「アクマが人間の人生を食べる」事件か。
「それでなあ、またコンラート殿がスクラップ帳を更新しろと仰せだ。だが長いこと続いている事件だもんで、新聞の扱いもあるかないかというところでなあ。俺が自分で調べることになっちまった」
にやり、と笑っているところからして、多分まともに調べる気はないのだろう。それを名目に合法的にサボれるとまで思っているに違いない。僕はそれに気づかないふりをしながら、できる限りにこやかに聞いた。
「なるほど。食費も経費で落ちるのですかね?」
すると、彼は少しだけ妙な顔をした。
「何を言っとるんだお前は。だが、まあ、そうだな。普段よりはちょっといいものを食ってこようとは思っているよ」
……今の表情は、なんだろう。ええと、ぎょっとした? はぐらかそうとした? いや、違うな。なんというか、「そもそもそういうことを聞かれることを想定していない」かのような表情だ。けれども、それはおかしくないか? だって、人間である以上は食事をするのだし、食事をするとなれば食費が発生する。あとはその出処の話。あんなふうに笑ってみせたところから、調査名目でサボるぞ、と暗に言っていたのは間違いない。だったら、さっきの質問はごく自然な流れだったと思うのだけど。
「まあ、それは主人には秘密な。言ったらきっと雷を落とされることだろうし」
そう話をまとめようとするヘルフリートさんは、いつもどおりの表情に戻っていた。僕の、勘違いだろうか。それならまあ、別にいいのだけど。
「それじゃあ早速行ってくらあ。奴さんが来たら本を受け取って、適当に戻しといてくれ」
それだけ言って、彼は足早に出て行った。ミヒルがニヤニヤしながら口を開く。
『あれはまた逃げたね。どうにも彼はあのいけ好かない男が苦手みたいだ』
「……ミヒル、さっきの彼なんだけどさ」
『うん?』
彼女は不思議そうに振り返る。僕の言いたいことがわからない、と。やはり気のせいだったのだろうか。
「いや、何でもない」
『なんだよ、気になるなあ。もう誰もいないんだから気兼ねなく言えばいいのに』
「……さっきの彼の反応が、なんだか妙だった気がして」
『妙って、どんなふうに?』
「なんというか、変なことを聞かれた、という風に見えたんだよ。それだけ」
『……ふうん』
それを聴くと、彼女は深く考え込んでしまった。でもそれを引きづられると僕も困る。そんな気がした、という程度だし、それに僕たちには十分すぎるほどの仕事がある。
「でも、ミヒルはそんな風には感じなかったんだろ? なら多分、僕の勘違いさ。ほら、さっさと仕事を片付けよう。僕一人でちまちまやってたんじゃあ多分昼までには終わらないよ」
『……うん、まあ、そうだね』
そう答えて、彼女は考えるのを中断したらしかった。そしてブックカバーの山を見やる。
『これ、昼までにやるって? まさか交換するって意味じゃあないよね? 芸術的な積み方でも試すのかい?』
そっちのほうが時間かかりそうだと思うよ。僕の壊滅的なセンスに何を求めているんだか。
「いや何、ここにはいろんなものをいっぺんに動かすことのできるすごいやつがいるじゃないか」
『君さあ。たまには仕事を自分でやるべきなんじゃない?』
そんなことを言わずにお願いしますよ、先生。
なんだかんだと、ミヒルがやると仕事が早い。なんとか昼ごろまでに交換を終わらせて、僕たちは事務室で休憩をしていた。
「ところでさあ、ミヒル」
『なんだい?』
「この事務室の片付けも、僕たちの仕事なんだろうね」
見るだけでもうんざりするほどの本の山。これを戻すとなったら一体何日かかることだろう。本棚がもしも届いた暁にはそれが僕たちの仕事になるのは目に見えている。
『そもそもあれだね。これを発注したのはコンラートのはずだろう? なのに私たちはまだこの中から本を探したことがないよね』
言われてみれば、そうだ。正直ここから目当ての本を探すなんて想像もしたくないのだけど、でも実際にはそういう可能性もあったわけで。
「そうだね。そもそも本を発注したってことはそれを読みたいってことだろうし、しまいきれなくてここに積み上げられているってことはここにあるのは新しく入荷した本ばかりのはずだ。読みたい本が入ったらすぐに読みたいと思うのは当然だと思うんだけど……」
実際に持ち出している本も、返ってくる本も、全部本棚に収まったもの。しかもカバーを交換しないといけないくらい年季の入ったものばかりだ。
『あれかもね。コンラートとかいう大富豪はコレクター気質があるのかも。とりあえず持っておきたい、みたいな』
ミヒルが名案とばかりに口にするが、僕はそれはあまりしっくりこない気がする。もしもコレクターなら、コレクションの管理には人一倍気を使うような気がして。少なくともこんなふうに本が無造作に積み上げられている状態をよしとはしないだろう。僕が考え込むので、彼女も釣られたように何やら考えている表情を見せる。
この図書館に勤めだして一週間ほどになるけれど、よく考えてみれば毎日のようにヘルフリートさんは本の発注に出かける。でもそれが誰かに読まれることはない。ヘルフリートさん自身が読みたくてついでに経費で注文した本もあるかと思ったけど、彼が本を読んでいる光景を今まで見たことがない。となれば、だ。この図書館は一体どんな目的で本を注文しているわけだろう。
コン、コン。無遠慮なノックが僕の思考を遮った。反応する間もなくドアが開く。そうして大男を引き連れて見えた顔は、コンラートさんその人だった。
「……またやつは留守か。まったく、やつはあれで臆病者だから世話が焼ける」
隣の男が無言でカバンを置いた。どうもそれで用事は終わりらしい。コンラートさんは僕に声をかける。
「新入り。次は三日後に来る。あのオヤジにリストを渡しておくから、用意しておくように」
ああ、まずいまずい。このまま帰られたら何もわからないままになってしまう。ともかくは引き止めないと。僕は声を張り上げる。
「あ、あの!」
彼はぴたりと動きを止めた。それからゆっくり振り返って、苛立たしげに言葉を返す。
「なんだ、新入り。私は忙しいんだ。今から少し出なければならん。お前の戯言に付き合っているような時間は」
彼の言葉を遮って、僕はなんとかねじ込んだ。とにかくこれだけは言っておかないと。
「『山賊』の犯行予告ありましたよね。『大騒ぎでした』けど、大丈夫でしたか?」
若干煩わしそうに、彼は答えようとした。
「そんなもの、貴様に心配されるようなことではない。あれくらい対応できなくて……」
そこまで言って、僕の言葉の本当の意味に気がついたらしい。多分初めて、彼は僕に正面から相対した。
「お前、今何と言った? 『大騒ぎだった』と言ったか?」
頷くと、彼は盛大にため息を吐き、それから一言ぽつりと呟いた。
「……何が目的だ?」
どうやら彼はものすごく頭の回転が速いらしい。さっきのあの一言から、すぐにそこまで思考が進むのか。そして思い直したように僕の答えを手で遮る。
「いいや、ここで話すのはよろしくないな。いいだろう、今日の予定はキャンセルだ」
隣の男が驚いた様子で彼を見る。しかし彼は意にも介さず続ける。
「貴様、見たところ昼食はまだだろう。いや、済ませていたところで満足に食えているはずもない。私の食卓に招待しよう。光栄に思うといい」
……確かにまだなんだけどさ。僕のどこをどう見てそういう結論に至ったんだろう。僕、多分コンラートさんより背が高いんだけど。ひょろひょろってこと?
「え、あの、コンラート様?」
あまりに唐突な提案にお付きの大男が二人しておろおろしている。しかしコンラートさんは振り返るなり有無を言わさぬ口調で命令した。
「聞こえていただろう。屋敷に戻るぞ。この男も同伴だ」
「し、しかしですね。このあと皆様との昼食会に参加のご予定ですが……」
「聞こえていなかったのか? 今日の予定は全てキャンセルだ。その皆様とやらには手紙でも送りつけてやればいい。ヤギの文通よろしくやつらはまともに読みもしないだろうがな」
「で、ですが本日は昼食をお出しする予定が無く、準備をしておりませんが……」
「貴様らは私の食料庫を一体どう管理しているのだ? 数日分の食料くらい用意があるだろう。明日出す予定だったものを今日出せばいいだけのことだ。そして足りなくなった分は改めて買い出しにでも行ってこい」
「こ、コックがおりませんが……」
「呼びつければいい話だろう! なんなら貴様らが作ることになっても一向に構わん! それで私の機嫌を害したら貴様らに処罰をあたえるからな!」
どうも付き人たちはコンラートさんにどうしても翻意して欲しかったらしい。ええと、多分僕のせいなんだろう。僕を屋敷に上げることそのものに抵抗を感じているように見えた。けれどもコンラートさんの決心は揺るがず、ついには大の男ふたりが泣き落としにかかる。
「ご、ご容赦くださいませ! このような下賎な男をお屋敷に招いたとあっては、奥様に申し開きができません!」
げ、下賤、ねえ……。いや僕もある程度自覚はあるつもりだけど、いくらなんでも傷つくよ、それ。
「当主は私だ! 貴様は誰の命令を聞くのかね? 当主か、それともその妻か!」
「もちろんコンラート様のご命令が第一でございます! しかしお叱りを受けるのも我々なのです。せめて納得のいく説明をくださいませ!」
「貴様に納得できるような説明をする義務は私にはない! いいから黙って、この薄汚い鼠のごとき男を我が屋敷に連れて行けと行っているのだ!」
……それ、ここでしなきゃいけない話かな。目の前で言いたい放題されると流石に心が痛いんだよね。それともあれかな。僕が話の聞こえないところまで避けておけばいいのかな。そう思っても彼らが話しているのは唯一の出入り口のすぐ前。僕には全く逃げ道がない。
「ミヒル。これはなかなか新しい拷問だね」
小声で話しかけると、彼女は楽しそうに応えた。
『気に入ったかい? なら私のレパートリーに加えておくよ』
ああ、いや、ホント、勘弁して。泣くよ?