第一章 ヒトチガイする人たち
人生というのは名前に宿るんだよ、とミヒルは言った。
彼女に言わせれば、名前を与えられたものにはたとえ物であっても人生が宿る。それ以上の理屈は、僕にはむつかしくて理解できなかった。ともかく、そうらしい。
ミヒルは、自分をアクマだと言った。アクマは人間の名前、ひいては人生を食べる、ということだ。その人生が幸せであればあるほど、彼女は満腹になる。どんな幸せかで味が変わる。そういうふうにして生きていく存在なのだと、彼女は語った。
加えて彼女には、不思議な力がある。僕の体を熱くない炎できれいにしてくれたり、疲れを癒してくれたり、宙に浮かせてくれたり。特に僕が頼りっぱなしなのは、何もないところから真水を出す力だ。
『……クライン、もういいんじゃないかい?』
彼女が、困ったような声を出した。ううん、でも、もう少し。
『クーラーイーンー? いい加減寛容な私も怒ってしまうよ? 君の頭に火をつけてしまうよ?』
ああ、それは困る。こんな若くして円形ハゲなんてゴメンだ。僕は仕方なく彼女の指から口を離した。
「なんだい、ミヒル。これから街に入るんだし、いつこんなことができるかわからないんだから、水は多めに飲んでおかないと」
『うん、まあ、わかるんだけどね。どうして君はいつも生まれたての赤ん坊よろしく意地汚く私の指をしゃぶるのかな? 私だってそんなことをされるのは恥ずかしいんだけども』
ほんのり顔を染めるミヒル。だって、溢れたらもったいないし。それに多分、恥ずかしいのはどう考えても僕のほうだよ。
「君はほかの人には見えないんだからそれでいいじゃないか。僕なんて何もないところで口をあむあむさせているように見えるんだよ。街の中でそれをやるよりはこういう茂みで済ませておくべきじゃあないのかな」
一回見つかってひどい目にあった。彼女も当然その場にいて、それはもう爆笑していたものだ。でももう忘れてしまったらしい。こういうことはいつだって被害者の方がよく覚えているものだ。単に、僕が不幸体質でそういうことばかり起こるというだけかもしれないけれど。
『でも、人里に出るんだろう? だったらそこで飲み水を買えばいいだけの話じゃないか。先の集落で司祭様からそれなりの金塊を貰ったろう? 人間の世界じゃあ、あんな石ころでもそれなりの価値があるそうじゃないか』
それは、そうなんだけどね。僕は茂みから出て、荷物をまとめる。もうすぐ日が暮れそうだ。早く街に入らないと。あの街はミドメルだったはずだ。出稼ぎの人も多いから、宿が取れるか心配なところ。
「確かに今の僕には多少の手持ちがあるよ。でも、あの街じゃあ多分十分な量の真水を手に入れるのは無理だろうから」
その言葉に、ミヒルは興味深げに耳を傾ける。
『へえ、それは一体どうしてだい?』
「うん、実のところね。ミドメルは『魚が浮く街』として有名なんだ」
街の門が閉まるギリギリで、僕たちは中に入ることができた。前の集落から丸十日自然の中を歩いてきたものだから、街灯の明かりがやけに眩しい。ミドメルにはたくさんの異名がある。「天気予報に晴れのない街」、「北緯五十二度の白夜地帯」、「山脈のある街」。まあ、そのどれも元を辿れば一つのことを言っているのだけれど。
『うわあ、明るいねえ。ここはどういう街なんだい、クライン』
ミヒルが楽しそうに聞いてくる。僕が答えようとすると、不意に年配の女性から話しかけられた。
「あんた、ラルフかい? ラルフ・フローデンなんだろ?」
顔を向けると、その女性は途端にがくりとうなだれて、僕の返事も待たずにとぼとぼと去ってしまった。不思議そうな顔をしているミヒルに、僕は先ほどの質問の答えを返す。
「……この街はさ、この国有数の工業都市なんだ。機械の部品だとかも作ってたんだけど、今はとにかく銃や砲弾なんかを作っている」
そこでまたいきなり、大声が聞こえて言葉を止める。どうにも、遠くから子供が走ってきていた。
「兄ちゃん! アーノルド兄ちゃんだろ? 俺兄ちゃんが帰ってくるのずっと待って――」
振り返ると、彼もまた先ほどの女性のように顔をしかめた。「兄ちゃん、じゃないのか?」
「ごめんね。僕はクラインって言うんだ。君のお兄さんじゃあないよ」
すると、彼はみるみるうちに泣き出す直前みたいな顔になって、一言。
「……帰ってくるって約束したのに」
そうこぼして走っていった。ミヒルがしびれを切らしたように口を開く。
『さっきからなんだい、これは。君は誰からも知り合いに間違えられる魔法でも使っているのかい?』
そんなわけあるかい。
「言わなかったっけ。この国、ガルマ帝国は戦争で負けたんだよ。そして大量の賠償金を請求された。この街が常に工場を動かしているのも、一刻も早く国の借金を返済するためだ。その戦争でね、成人近い男はみんな兵隊に取られた。それで、ほとんどみんな、畑の肥料になった」
ひゅう、と彼女は口で言った。なんでも、彼女は口笛が吹けないんだそうだ。だったらわざわざ口で言うものでもないと思うんだけど、なぜか彼女はそうしたがる。
『そりゃあまた農業に力を入れていることだね。挙句砲弾で畑を耕してまでいるんだから涙ぐましい努力だこと。さぞかしジャガイモがたくさん取れたことだろうね』
彼女のブラックジョークを流しつつ、僕は続ける。
「それでまあ、僕はギリギリで徴兵年齢に満たなかった人間みたいでね。だからこうして畑の肥やしにならずにいるんだけど、すると年頃の男ってだけでいろんな人が間違えるんだ」
ああ、と思い出したようにミヒルは漏らした。
『そういえば、そんなことを言っていたっけね。すっかり忘れていたよ。君はそういうことばかり覚えているらしいや。自分のことはさっぱりなのにさ』
その物言いは、どこか懐かしげで、少しだけ刺があった。なんていうか、責められているような気配。でも、どうしてそれで僕が責められなきゃいけないのかよくわからない。そのうちに彼女は話題をすり替える。
『しかしどうしてこうも都合よく見間違えるんだろうね。少し顔を見れば違うってわかるのに』
「それは、多分、単純な話。そうだって思いたいからだよ。思いたいから、そう見える。誰だって、都合がいいほうを期待してしまうものだから」
ふうん、とあまり興味がなさそうにミヒルは肩をすくめた。
『それはあれかな。私の姿が君には美少女に見えているらしいのと似たようなものかな』
えっ。
「……本当は違うのかい?」
恐る恐る聞くと、ミヒルは仕返し、とばかりに意地悪そうに笑ってみせた。
『どう思う? そもそも私は君に名付けられるまで群体としてのアクマの一体でしかなかったわけで。名前が付くまでほとんど不定形だったんだ。君がこの名前を付けたときがちょうどこの姿だったってだけでね。一応、私も今の自分のことを美少女だとは思っているんだよ、アクマ的に。その姿が君にはどう見えているのか。私が思う美少女と君の思う美少女が、同じなのかどうなのか。君はどう思うかな?』
言われて、確かにそれは疑問だった。けれどももし彼女の本当の姿が僕から見ると異形だった場合、僕はいつもその異形の指をしゃぶっていることになるわけで。それは、ええと、ええ?
僕が背筋に寒気を覚えていると、彼女はカラカラと笑って首を振った。
『いいや、クライン。本当の姿なんてものはどこにもないさ。コインの裏表のようなものだ。君の見ている面の裏側がどうなっていようと、君が見ているそれは本物のコインだ。裏の面がぐずぐずに溶けていようと、君が見ていた表側がきちんと美しかったことに変わりはないよ。だから君は見えていないところを見ようとしないで、存分に私の美を賞賛していいんだ』
それは、なんというか、詭弁に近いような。とはいえまあ、彼女の言うとおりでもある。結局裏側なんて確認しようがないのだから、気にするだけ無駄というものだ。
『それにしても、これからどうするつもりだい? ここに永住でもするのかい?』
「いいや、とにかくはまずは食い扶持を稼がないと。僕も、君も。結局、先の集落も司祭の名前を食べたせいで大混乱だったし」
少なくともミヒルが安寧に食事をできる環境ではなかった。というか、いつもそんな調子だ。
『人間の名前を食べる、ということはこの世界からその人間の人生を消滅させることだからね。影響力の大きな人間の名前を食べれば、そりゃあ混乱もあるだろうさ。本人からしたら自分に関係する記憶だけがごっそり抜けた状態になるわけだし』
でもね、とミヒルは念を押す。
『いつも言っているけれど、別に私は人間に不幸せになって欲しいわけじゃあない。手当たり次第に食べ散らかすのは馬鹿のやることだ。私は自分たちが生きていくために、人間の幸せを育てたいと思っているんだ』
うん、いっつも聞いてる。それ自体はすごくいい発想だとおもうんだけどね。
「……それで、手始めに選んだのが僕っていうのはなんともなあ」
なにせ自慢じゃないけれど、僕は今まで幸せな思い出がほとんどないような人間だし。そんな人間を第一号に選ぶなんて、彼女はだいぶ人間の常識からずれていると思う。
『だってさ。もし君をきちんと幸せにしてやれたら、ほかの人間も幸せにしてやれるってことじゃない?』
料理の初心者みたいな発想しているね、君。いきなり難易度最高の料理に挑みたくなるみたいな。
「まあ、それはそれとして君も食べないといけないことには変わりないじゃないか。だからせめて、幸せな人の中でほかの幸せを妨げているような人を選んでいるわけで。この街なら多分そういう人はいると思うよ。まずはそれを調べて回ろうと思うんだよ」
『嬉しいね、君が率先して私の食料探しをしてくれるなんて。最初は人の幸せを奪うなんてって駄々をこねていたくせに』
だって、君は僕の恩人なんだから。そもそも僕がこうして旅をしている理由は、ただただ君への恩返しでしかないのだから。まあ、そんなことは口が裂けても言えないけれど。
「とにかく、今日は宿探しだよ。ここは一日中明るい街ではあるけれど、それでも夜中になれば宿は満杯だ。この街で野宿はしたくないからね」
そのとき、また誰かから呼ばれた気がした。振り返ると、僕より頭一つ小さな、年頃の女性が僕を見上げていた。
「あ、あれ。エーリッヒ、じゃ、ないの……」
非常に、綺麗な女性だった。二十代前半、というところ。まだまだ花盛りな年齢の割に、装いはもう家庭に落ち着いた奥様、という感じだった。外側に少しはねた肩ほどの長さの金髪。目尻が少し下がっているのが印象的で、どこか頼りなさげな、放って置けなさそうな雰囲気を醸し出していた。
「えっと、あの。僕はクラインっていいます。多分人違いかと」
愛想笑いを返すと、彼女はぽっと顔を赤くした。……うん? 僕は何か恥ずかしいことでも言ったかな。首を傾げていると、彼女は急にあたふたしだした。
「え、ええと、すみません、間違ってしまって。ところであなた、素敵な名前ね。な、何をしていらっしゃるの?」
うーんと? 人違いだけで終わらなかった。もしかして、僕でもできる用事なのだろうか。それならまあ、手伝わせてもらおう。
「ああ、いえ、今はこれといって何も。何かお手伝いできることが?」
しかし、彼女は首を振った。どうも、そういうことではないらしい。
「ええとね、違うの。お仕事は、何をしていらっしゃるのかなって」
あ。それを聞かれると、なんというか。
「仕事と言えるようなことは、今はしていませんね。街を渡り歩いて食いつないでいるくらいで。旅人を職業と呼ぶのなら、それが当てはまるかもしれません」
『無職』
だいぶ辛辣なミヒルの茶々を無視しつつ答えると、案の定彼女はぽかんと口を開けた。
「旅? 旅をしているの? 何か大道芸でもしているのかしら」
そう、だよなあ。今の時代、ただ旅をして稼げる時代じゃあない。相当昔なら、ある場所で安く売っているものをほかのところで高く売れば、それだけで食べていけたみたいだけれど。今は車もあるし、ある程度流通もしっかりしている。街の間を十日もかけて歩いて旅をするなんて、きっと僕たちくらいのものだ。車さえあればね。僕だってね。もう少し楽な旅ができるはずなんだよ。でもこの国はもうしばらく車を作ってない。輸出用の武器だけじゃなくてもうちょっと民間用のものを作ってくれないものだろうか。
ただ、大道芸ができないわけではない。本当にタネも仕掛けもない手品もどきでよければ、ミヒルの力をもってすればできないことはない。だから、うん、大道芸人というのもあながち間違いではないのかも知れない。タネも仕掛けもないものを芸と呼んでいいのかはまた別のお話だろうけども。
「あー……。まあ、そんなようなものです。何かご用事でも?」
横でくすくすと笑っているミヒルをよそに質問を返すと、彼女は少ししどろもどろになりながら自己紹介を始めた。
「も、申し遅れました、私リリー・ノイマンと申しますわ。この近くに私の家がありますの。あの、その、もし宿がお決まりでないなら、泊まっていってくださいな」
うーん? 確かにそれ自体は嬉しい申し出なのだけど。
なんで?
「えーと、もしかしてリリーさん、宿屋をやっていらっしゃる? でしたら」
厄介になります、と言いかけたが、それを彼女の言葉が遮る。
「いいえ、いいえ! 私は働いていませんし、家には私一人しか住んでおりませんわ。部屋が余ってますの」
「ええ……?」
いや、そっちのほうがおかしい。なんで年頃の女性が一人暮らしの家にこれまた年頃の、見ず知らずの男を泊めるわけなんだ。思わず声が出てしまった。狼をどうぞどうぞと家に入れる子豚がどこにいるんだ。けれども彼女は鼻息荒く、なぜか目が輝いている。本気のようだ。ええと、それなら断る理由は、確かにないのだけど。
「じゃ、じゃあ、善は急げですわ! こちらに来てくださいまし!」
「のわっ!」
彼女は僕の手を掴むと、突然走り出した。それが本当に突然のことだったから、僕はまるで反応することができず、足をもつれさせて転んでしまった。
「……あいたたた」
「す、すみません! 私ったら動転して……」
一体何がどうしたら気が動転して赤の他人の男を急いで家にあげようと思うのだろう。本当に、女の人は謎だ。そして、うん、僕はやっぱりどうにも不幸らしい。