序章 詐欺師たちのキョウエン
喝采の拍手が沸き起こった。僕の目の前で、司祭様が両手ですくい取るようにして炎を持っている。何も燃えてなどいないのに、ただ炎だけがそこに在って、しかもそれは司祭様の合図に合わせて自在に形を変えていた。司祭様が神様の名を呼びながらそれを操っている「フリ」をするのを、僕は薄ぼんやりとした意識で見ていた。
「滑稽だね、クライン」
ぼそり、僕の体が呟いた。多分この喝采の渦の中では僕以外にはきっと聞こえていない。そして僕の声も、きっと「僕」にしか聞こえない。
『ミヒル、やりすぎじゃないかい? こんなに大立ち回りをして、僕たちがいなくなったら』
やれやれ、と「僕」が首を振る。
「言ってなかったかな。残念だけれどね。あの司祭様は今日でおしまいさ。僕だってたまにはきちんと食べないと。あの司祭様――確か、グリードリヒだっけね。あいつはだいぶ食いでがありそうだ」
言いつつ片手の指をすいすいと動かしている。そう、あの司祭様が広場の真ん中でおうおう叫びながら、たまに火傷しかけながら、なんとか操っているように見せているあの炎を実際に操っているのは「僕」なのだ。僕は器用なものだなあ、と頭の片隅で思いつつ、どうにも後ろめたい気持ちでいっぱいなのだった。
『でもこんなの、騙してるみたいじゃないか』
「騙してるよ?」
彼女は呆れ混じりの微笑みを浮かべて、幕の向こう側の司祭様を眺める。僕たちは広場の荷物置き兼控え室のテントの中に隠れているように言われている。常識的には、炎を自在に操ることのできる存在なんて伝説の中にしかいないんだから、僕たちが誰に見られてもいいと思うんだけど。多分、ここまで用心深いからこそあの司祭様はこの町の信徒たちから絶大な信仰を得ているんだろう。
「騙しているとも。でもね、元々信徒たちを騙していたのはグリードリヒだよ。あいつ、神の奇跡なんて使えないしさ。そんな謳い文句で信仰と寄付を集めて、幸せいっぱいだろうねえ。僕はアクマだからそのあたりよくわからないけれど、人間社会的にはあれは悪って言われるべきものじゃあないかね? そしてさ、それに報いを与えることは、人間社会的には善って言われるものじゃあないかい?」
それは、まあ、そうだけども。ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。どうにも、僕は不幸体質が抜けなくて困るや。
やがて炎の奇跡の実演が終わり、グリードリヒの演説が始まる。
「我々は皆このように火を司る主に仕える信徒である。火は再生を象徴する。失ったもの、亡くなった人も、呼び戻すほどの大いなる力を、主はお恵みになる。信じなさい。一心に信じたならば、この大いなる火を分け与えることを、主もお許しになるかもしれぬ。さあ、我らが主を崇めよ。さあ」
その言葉に、大勢の人が頭を下げた。一様に、ただ深々と。それは、多分信仰心からだけじゃあないんだ。頭の下げ方が足りなかった青年が、思いっきり杖で殴られて昏倒しているのが、見えてしまったから。前言撤回。ダメだね、これは。信じたくない人を無理やり縛るんなら、そんな宗教はあっちゃいけない。
『……ミヒルが、正しいのかも』
間違いを認めた僕を、彼女は笑った。まるでおかしなやつを見た、と言わんばかりの笑い方だった。
「どっちだっていいんだよ、クライン。僕はいい加減お腹が減ってるんだ。どうにか腹を膨らませたくて、それにちょうどいい理屈をこねてみただけさ。それに君が同調する必要はないし、意地張って反発する必要もない。どっちだっていいんだよ、正しいかどうかなんて。人間にとって大切なのはただ一つ。幸せか、幸せじゃないかさ」
拍手に惜しまれるようにしてグリードリヒは僕たちのいるテントに戻ってきた。そして、にやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「素晴らしい仕事ぶりだったぞ、クライン・グリュックリヒ。私の大切な司祭服が焦げ臭くなったが、まあ、許してやるとしよう。もう少し正確に炎を操れるようになれば、さらなる援助を約束しよう」
汗だくになりながら努めて尊大に振舞おうとするグリードリヒは、ちょっと面白かった。近くで炎が飛び回っていたからだろう、背中なんか汗でぐっしょりだ。日頃の運動不足もたたっているんだろう。もし僕たちが今後一年でも協力したりなんかしたら、彼はすっかり痩せてしまったかもしれない。となればまあ、僕たちの協力はこの一回で打ち止めがいいんだろう。失礼ながら、二足歩行する豚みたいな体型の彼が、炎に炙られながらおうおう言って踊る姿を見るのも、なんというか、腹筋に悪い。僕のお腹も割れてしまったかもだ。
「この度は失礼いたしました、グリードリヒ司祭。たゆまず精進いたしますので、今後ともよろしくお願いします」
そう言って「僕」は右手を差し出した。きっと彼は疲れていたんだろうと思う。そうでなきゃ、彼ほど用心深い人がいきなり差し出された手を、何の疑いもなく握るもんか。
「ああ、よろ、よろしくな、クライン。こんな汗っかきな手ですまんね」
彼らは、がっしりと握手をした。その途端「僕」の顔が邪悪なまでに口角を釣り上げるのを、グリードリヒは見ただろう。けれどももう遅い。アクマにとって、握手は契約成立の合図だ。
「いいえ、なんてことはありませんよ。あと少ししたら、その手は冷や汗に塗れることになるでしょうから」
――命名供食契約、履行。
「僕」の口がぼそりとその言葉をこぼすと、二人を中心に魔法陣が展開される。驚いて逃げようとするグリードリヒだったが、全く体に力が入らないかのように崩れ落ちた。
「あ、あああ、な、なんだお前は。何を、持っていく。やめろ。やめてくれ。持っていかないでくれ」
結ばれた右手を振り払うこともできないまま、左手で彼は自分の頭をかきむしる。毛が抜けるのも構わず、引っ掻き回して何かを探しているかのように、ひたすらに掻き毟る。それを「僕」は満足そうに見つめていた。
「あなたは幸せでしたね。ええ、そこらじゅうで愛人を作るのが趣味でしたね。時には熟女から、年端もいかない子どもにまで手を出しましたね。美食の追求も絶やしませんでしたね。極東からの珍味に目がありませんでしたね。何より、自らが作り出した教義を説くのがあなたは大好きでしたね。信徒が熱心に自分の言葉を聞き、拍手を返すことがあなたを存分に幸せにしてくれましたね。そのためには、気に入らない人間は全部排除してきましたね。その全ての人間の幸せを吸い上げて、あなたはここの誰よりも幸せになりましたね」
「や、やめろ! それを持っていくな! 私の、大切な、大切なああああああぁぁぁぁっ!」
ぶるぶると震え、泣き叫ぶグリードリヒ。しかしその声は誰にも届かず、ただただ彼はその名前を吸い出される。
「残念です、グリードリヒ・ハーベン。これほどの幸せをあなたが吸い上げなければ、大勢の市民が今よりももっと幸せだったろうと考えると、まったくもって残念です。しかし、大きく育ったリンゴを収穫するのに理由はいりませんから。その名前、いただきます」
「にあああああああぁぁあおおおあああああっ!」
もんどりうって倒れた彼は、泡を噴いて気絶していた。彼らの右手は離れ、魔法陣は消えていた。満足そうにうっとりと顔をほころばせる「僕」に、僕は尋ねた。
『……どうだい、お味は』
「味はどうあれ、量が凄いね。脂っこくて後を引くけど、少なくともお腹の減った僕には極上の量だったとも」
鼻息を荒くして目を輝かせる「僕」。……自分の顔がここまで幼くなるなんて知らなかったや。ちょっと見ていられなくて、僕はいらだちを込めて催促した。
『ああ、はいはい、よかったね。それより早く僕の「名前」を返してくれないか。こうしてふわふわ「名無し」で浮いているのはあんまり好きじゃないんだ』
それで「僕」はようやく思い出したらしい。あんまり謝る気が見えない軽さで、僕に右手を差し出した。
「ああ、ごめんごめん。だいぶ長いこと借りてしまったね。ほら」
差し出された手を掴む。そうして「僕」はこう唱えた。
「命名貸借契約、解除!」
その瞬間、天地がひっくり返るような感覚の後に、僕は自分の体にしっかりと意識が収まっているのを自覚した。そして横にはふよふよと浮く、目を疑うような美少女の姿。黒くて少しウェーブのかかった、とても長い髪。その合間から顔をのぞかせるようにちょこんと生えた灰白色の角。青くて透き通った瞳。少し幼さが垣間見える、それでも凛とした顔立ち。人間ではなかなか拝めないほど黄金率的に整ったスタイル。腰のあたりから飾りか何かのようにスタイルの良さを強調するコウモリじみた羽が一対。黒いワンピースのような装いに映える白い手足。それに絡むように延びる艶やかな尻尾。そして、それら全ての印象を吹き飛ばしてしまうほどにきりりと主張する眉が特徴的だった。
『どうかな、大丈夫かい? 自分の名前は言える?』
これは別に、僕のことを馬鹿にしているわけじゃあない。きちんと僕が「僕」として戻ったかどうかの確認だ。だから、僕もきちんと答える。
「もちろんだよ、ミヒル。僕はクライン。クライン・グリュックリヒだ」