そこに困っている人がいるから
『サラ、向こうに人が集まっているぞ』
リューの言うままに目を向けると、港が何やらざわつき始めたことに気付く。
海際の小さな港に人が集まっている。視線は海に浮いた小舟に集中しているようで、サラもその人だかりに飛び込んで人の間を通り抜けて進む。
皆が見ていたのは漁船だったらしい。
同時に、血まみれの男が一人、仰向けになって乗せられている。
それを見ると同時、咄嗟にサラは小舟に飛び乗る。人の目など気にする余地もなかった。
……脈はない。もうとっくに死んでいるようだ。
虚ろな瞳が、遥か遠くを見つめているような、しかして死者にもう見る力はない。
服には大量の血が滲んでおり、そのすぐ近くに、斬りつけられたような跡が無数に残っている。
「襲われたのか?」
「ここ最近じゃ、珍しくないんよ」
サラが振り返ると、一人の老婆がそう言っていた。
しわで目が開いているかも見て取れないような年配の女性は、サラに向けてそう言った。
「自然にできたとは思えない」
「そう、この向こうにある無人島に、賊が住み着いたんじゃ。それ以来、魚を捕りに行った漁船はこうして襲われる」
女性が口重そうに言うと、周りにいた民衆は皆項垂れる。
さきほどまでの明るい雰囲気は嘘だったかのようだ。
「自警団かなにかは?」
「一昨日に数人で出て行った。それっきり、彼らは帰ってきてないよ」
民衆からは不安の表情がこびりつき、恐ろしい、怖いと囁いている。
――サラは知っていた。人がいる限り争いは生まれる。楽をしたいから人の道を外れる。時には、誰も思いつかない方法で多くの人を陥れようとする。
戦争という、誰にでも目に見える醜いものがなくなっただけで、この世界には、まだ多くの悲しみや憎み合いがある。
それがなくなることは永遠にないことを、サラは知っている。
「……じゃあ」
『やめておけ。関わってもお前に得なんて帰って来やしない』
言いかけたところで、リューは念話で彼女を諭した。
これから彼女がやろうとしていたことを悟り、それが無駄だということを教えたかった。
彼女もまた、それを十分に理解していた。
「わかっている。けど、見過ごすこともできない。無害な人たちが虐げられるのは、間違ってるよ」
すべての悪を倒したいわけではない。サラは勇敢でもないし英雄気質でもない。問題があったとしても、すべてに真っ向から抗うほど熱血でもない。
けれど、サラはこの村で多くの優しさをもらった。
個人にではなく、キーンという村の大多数から、サラという一人の人間を歓迎してくれた。
当然、彼女が魔法使いだとは夢にも思っていないだろう。それでも、この体験はサラの心情を動かすに足る動機だ。
「ご迷惑をおかけしました。早く賊がいなくなるといいですね」
「旅人さんは気にせんでもええよ。昼のうちなら、この村は平和じゃから」
そう言って、女性はしわだらけの手を差し出す。サラはそれを優しく握り、微笑んでみせる。
「できれば宿を紹介してほしい。それと、できれば美味しいものが食べたい」
「ならうちはどうだ? 宿も飯も安く付けるぜ!」
「おい、うちだって負けてねえぞ!」
――騒ぎはやがて静まり、太陽が海に隠れていくとともに、村全体が眠ったように静かになっていった。
サラは借りた宿で一人窓を開け放ち、波が静かに凪ぐ音を聞く。
「……本当に、海は綺麗だな」
『随分気に入ったな』
「うん。ずっと見ていられる」
昼は太陽に照らされ、宝石のように輝いて見えた。
しかし夜は、ぼんやりとした月明り。真っ暗な海は不気味でもあり、また波の凪ぐ音は子守唄のようでもある。
初めて絵本を読んだときのように、サラは童心に帰っていた。
『本当にやるのか』
「やるさ。このまま放ってはおけないからね」
リューは静かに問いかける。対してサラも、迷うことなく答える。
彼にはきっと、サラの行動を本質的に理解できない。それも承知の上で、サラは静かに語りかける。
「……称えられたいわけじゃない。ただ、ここに生きる優しい人たちが不幸な目に遭うのは、嫌なんだ。リューのときもそうだったけど、私はじっとしてられないらしい」
『我の主はそういう奴だったな。まあいい、日が出る前には起こすぞ』
「ありがとう。おやすみ、リュー」
目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。やがて波と呼吸のリズムが重なり、心地の良い眠りへと誘った。