洞窟の主
森がざわめいていた。
木々は大粒の雨に晒され、突風に当てられ、今にも落ちてきそうな雷に、悲鳴を上げているようだった。
舗装もされていない林道を、一人の少女、サラ=メルティアは走っていた。
麻色の大きなカバンを背負い、黒いローブを羽織り、フードの隙間から銀色の長い髪を覗かせ、足下の不安定な林の間を、一心不乱に駆け抜けてゆく。
サラは雨宿りできる場所を探していた。
突然やってきた嵐に対抗する術もなく、今は身を隠す小さな木の影、あるいは小さな洞窟でもあれば……と、サラの視界に、先の見えない洞穴が映る。
道も整備されていないような田舎の山だ。
凶暴な魔獣や徒党を組んだ賊が潜んでいてもおかしくはない。
しかし今のサラにはそれらの可能性を考慮しても、入る選択肢しか残っていなかった。
素早く洞穴に駆け込み、天井を見上げる。
人が入るにしては高いが、少なくとも数年は人が使っていた形跡もない。古い鉱山かなにかだろう。
獣の足跡らしきものも残っておらず、ようやくここが安全な場所だと見切りをつけ、雨で濡れて重くなった荷物を、地面の上に落とした。
頭から足のつま先までぐっしょりと濡れ、底なし沼の中にいるような気分の悪さに襲われる。
普通の旅人ならそれらを脱いでぶら下げ、火でも焚いて乾くのを待つのだろうが、少女にそんな手間をかける必要はなかった。
「アフィリ・ラウ・ザッハ」
この世のものではない不可思議な呪文を唱えると、二、三ほど火の玉が彼女の周りをふよふよと浮き、やがてそれは風となり、熱風となって彼女を包み込む。
一瞬だけ熱いことに耐えれば、少女の纏っていた服や靴はすぐに乾いた。
「アフィリ」
もう一度火の玉を生成する。今度はさきほどより大きく、それをゆっくりと地面に落とし、悴んだ手をかざす。
「雨が多いな」
そんなことをひとり呟きながら、洞穴の外を一瞥する。
――雨が降るたび、あの日のことを思い出す。
少女が旅立った日、最愛の師から別れを告げた日も、ひどい嵐だった。
あれからどれくらいの時が経ったのだろう。数えてはいなかった。
今では旅路にも慣れてきて、薬草の換金や宿の交渉にも、少しずつ余裕が出てきている。
ただ心に、孤独という穴がぽっかりと空いたまま。
「あっ」
涙が、流れた気がした。だがそれは天井から落ちてきた水滴で、静かに頬を伝う。
涙などとっくに枯れていることを、サラ自身がもっとも理解している。
「孤独には、もう慣れている」
己を奮い立たせるようにそう呟き、カバンから毛布を取り出して小さく丸まった。
魔法使いといえど、雨に濡れて走れば体力も削られる。雨が止むまで寝ていよう。
そうして、サラは一時の眠りについた。
…………
…………か。
……そこにいるのは、魔法使いか。
「誰?!」
どこからか聞こえた声に飛び起きて、辺りを見渡す。
しかしどこにも影はなく、静かな雨音が耳を刺すばかり。
『そこな魔法使い』
もう一度、今度ははっきりと聞こえた。男のような声、低く響く声だった。
いや、これは耳から入っているのではない。頭の中に直接語りかけてくる。魔法の用語でいう念話の類だ。
魔法の中でも高等な技の一つをいとも容易く扱う主は、おそらくこの洞穴の奥にいる。少女はそこに向かって声を飛ばす。
「雨宿りをしていた。勝手に入った非礼は詫びよう」
『そんなことはどうでもよい。中に入ってくるがいい』
このような誘いは、十中八九罠であると、サラは学んでいた。
得体の知れない、しかも念話の使い手とあらば、並の魔獣ではないことは明白で、そう易々とついていくわけにはいかない。
探り探りに、念話の主に問いかける。
「襲わない、という保証は?」
『来ればわかる。安心しろ、道中に魔獣の一匹も住み着いておらぬ』
どうしてか、サラはその声に妙な安心感を抱いていた。
得体の知れない生物の言葉を鵜呑みにするなど、自殺に等しい行為だと理解している。
でもその声はどこか弱々しく、寂しそうだった。
やがて吸い込まれるように、少女は洞穴の奥へと足を踏み入れる。
――道中には本当に魔獣がいなかった。それどころかネズミやコウモリの一匹もおらず、まるでこのあたり一帯が死んでいるとすら思えた。
その代わりとでもいうように、所々から半透明の、淡い青の水晶が自由に生えて瞬き、暗い細道を彩っている。
水晶は鉱物の中でもマナに干渉しやすく、マナが濃い環境にあればあるほど、大きく成長するという。
それにしても、このマナの濃度は異常だった。
多少なら意識しないとわからないが、ここまで濃いと鼻に触る。
マナの過剰摂取は身体に毒であり、頭がくらくらする、思考がぼうっとする、といった症状に襲われる。
「いったい、君は何者なんだ」
『来ればわかると言っていよう。そこの水晶なら、帰りに好きなだけ持っていくといい』
お金になるのはありがたいが、サラ一人で持ち運ぶにも限度がある。
ほどほどに持っていこうと、あたりの水晶を撫でつつ先に進んだ。
ようやく細い道を抜けて大きな空洞に出るなり、目の前に広がる光景を疑った。
さきほどまでとは比べ物にならない、塔のように高く太い水晶がそびえ立っている。
さらにその中から、ただならぬマナの塊が潜んでいることに勘付く。
半透明な水晶に目を凝らし、中身をじっと見つめる。
やがてその姿が目に映るなり、サラは固まった。
瞳孔は大きく開いたまま、信じられない、と小さく首を振る。
彼女の予想が正しければ、それはいるはずのない生物。しかし、その姿は疑うことすらできない。
『ようやく来たか。随分と若い魔法使いだな』
その声の主は――ドラゴンだった。