澄んだ青空よりも嵐の前の曇天の僕ら(オタクども)6
第六色 周囲からオタバレすると馬鹿にされて羞恥と怒りで生き地獄
『真っ暗な世界に目覚めた僕。何も見えないほどに暗くて、自分が目を開けているのかさえよく分からなかった。
体を起こして、手を動かして辺りを探ってみる、が何もなかった。
ベッドの上で眠っていたわけでなく、手の触感と寝転がっていた体の感覚からして地面に眠っていたのだと分かった。
瞬きを数度繰り返して、目を凝らしてみて目を闇に慣れさせる。明かりになりそうなもの、あるいは電灯のスイッチなどがないのかと手探りで探してみる。
探しながらも目覚めたばかりで、ボーとしている頭を無理矢理冴えさせて少し考える。
記憶の確認。昨日、僕は何をして、どうしてこんな暗闇の中にいるのか。というかここはどんな場所なのか? とそんなことを。
ただ自分の部屋で眠って深夜に目を覚ましただけのことならばそれでいい。もう一度寝直して、太陽が昇った時間帯に目覚めればいいだけの話だからだ。
そう軽い気持ちで眠る前の記憶を思い出そうとしてみるが、
―――何も思い出せない。
昨日のことも、ここが自分の部屋であるかどうかですら何も覚えてないのだ。
「ここはどこで、僕は………誰だ?」
初めて呟いたのはそんな自問だった。
自分が誰なのかが分からない。記憶がな―――
』
「……た、…すぎ……杉田! 杉田夕弌!!」
「あ」
名前を呼ばれて我に返って意識が現実へと引き戻された。
足が止まる。全身から流れ落ちる汗の感覚と、周囲の数名が俺を奇異なものを見るような目で見つめてくる。
一体なんだ? とこちらも訝しいに目を細めて、周囲の視線に返していると、俺の名前を呼んでいた野太い声の張本人である吉田が近づいてくる。その面は相変わらず不機嫌そうなイラついた顔だった。
今度は何の文句を言われるのやらと面倒臭さ全開で構えていると、吉田は圧のある声で言う。
「なんで二周もオーバーして走ったんや、えぇ?」
「あん? 二周? ……ああ、走りすぎたとね」
確か、三十周ほどの走りだったはず。小説の事を考えていたせいで走っている回数を忘れてしまっていた。
そもそもトラックで走るのは苦手だ。グルグル回って走っていると何周目なのかが自分ではよくわからなくなる。
走りは自由なもので走りたいだけ走って、その間は自分の世界に籠っているもの。……いや、小説のことを考えるとか、辛い現実を妄想の中に意識を逃げ込むみたいな意味じゃなくて。
走っていると色々と考えながら、同時に何も考えなくなるのだ。集中していると言えば、そうなんだけど、俺としては集中の一言で片づけるのとは違う。
……何かと対話しているとでもいえばいいのか。
走るっていうのは体全部を動かすことで、足を動かすってことは……地面を蹴ること。地面の感触が踏み込んだ足と蹴る時の衝撃が体へと響いて伝わってくる。
地面の硬さは色々とあって、その硬さで足の衝撃が変わってくる。衝撃が変われば、体の負担も変わって体力の消耗を激しくする。だからそれに合わせるために地面へと踏み蹴る力を調節する。
何も地面と足だけのことじゃない。その日の天気や温度、空気、距離、体調、服装、その他諸々も要因していって走り方が変わってくる。
別に神経質な方ではない。かといって無神経でいていいわけじゃない。
人間である以上、世界に存在して生きている以上、何らかの変化がある。晴れているのに風は冷たい日もあるし、気持ちはあるが体がついていけなかったり、とそういった微かな変動が確かにある。
だが、そんなことは走り始めたら気にならなくなる。
つまりは今の話は走り出すまでのテンションの維持が大事って話だ。走り出せばそんなことは意味がなくなる。スタートして、ゴールすればいいのだけの事なのだから。
一気に投げ捨てた話になったが、実際問題そういうことだ。
走っている間は移り変わる景色を楽しむもよし。前を走る相手にしがみついていくもよし。脳内に流れる音楽やアニメを再生するもよし。何かを考え込むもよし。
走っているとすると不思議と世界に俺しかいない感覚が生まれる。
集中しているようでしていない。
夢想に囚われていて、その瞳は現実を確実に捉えられている。
そして、いずれはゴールにて足を止める。たったそれだけのこと。
………まあ、小難しいことは分からないし、上手く言いたかったけど、自分でもがあまりよく言えたつもりはないけど。
走りの感性だけで言えば俺はそんな感じだ。
ふぅー、と息を吐き出して吉田から視線を放して周囲を見る。まだ何人もの人間が走っている。
「周りがまだ走っとたけん。俺もまだ残っととると勘違いしとった。よう数え取ったね。いつも一番のヤツしか数え取らんとに」
「お前がそん一番やったどもん。独走しっとってからに、よぉ~、言いよるわ。なんや自慢か?」
皮肉で言うと嫌味で返してきた。
アレ、俺一番だったの? 最初の時はいつも通り適当に走り流そうと中間からやや前くらいの順位で走っていたはずなのに……。どうやら話を考えている合間に意識が飛んではいつの間にかトップ独走してしまったようだ。
普段ならそんなことないのに、……どうも浮足立っているような。
リーとモカの三人で作品を作ることにワクワクして、そして新しい作品についても昨日から考えていてようやく形が見えてきたから興奮している。
二人が協力してくれるおかげで今までとは違う形として出来上がることに、一人では見えなかった新たな物語の世界の輪郭が見えてきて、あれやこれやと考えているうちに気持ちが先走って、それが走りに影響してしまったようだ。
いかんいかん、走ることで余計な体力を消耗したら、昼からの活動に睡魔が襲ってくる。ただでさえ、制作時間はかなりないのに。全体の下地を作る俺が何もできていないなら完成は遠のいて、最悪未完成で終わる。
そんなことになってたまるか、こんなチャンス二度とないんだ。
オタク友達といえる間柄の奴らと、何か作品を作るなんてこと、俺の人生でもう二度とできないことといっても過言ではない。
本気でやって、本気で完成させたいんだ。
「……調子がよかならそれならそれでよかわ。あんま体力使い過ぎんなよ」
珍しく吉田が俺の身体を労わるようなことを言ってくる。なんだコイツ気持ち悪いな。ただいたぶり追い込むことでしか指導できない、具体的な指示を殆んど出せない典型的な昭和型タイプなのに。もうすぐ平成も終わるというのに。
しかし、こいつから慮る言葉が出てくるとは一体どういう風の吹き回しだ? 悪いものでも食べたのかと、勘繰りながら少しだけ嫌な予感がした。
コイツが俺に気遣いを見せる時なんて、勝利に貢献した時くらいだ。吉田の態度に俺は眉を顰めて警戒する。
実際に嫌な予感は的中し、吉田から口から次のことを告げられた。
「明後日に合宿あるけん、そん時に十分走ってよかぞ」
「………………合宿?」
「合宿や、他になんがあっとか?」
そういえば今週から来週にかけて毎年各学校の陸上選手が集められる、アレな合宿があるとか言っていたような………。行けるのは代表選手で俺は……その中に何故か含まれていたはず。
………やっべー、完全に忘れてた。あいつらと作品を作ることの方が大事で、合宿なんて全く興味もやる気もなさ過ぎて完全に失念してしまっていた。
………まあ、でも問題ないか。行かなければいいだけの話だから。
一瞬だけ焦ったが、すぐに落ち着いて冷静かつ単純に思考を切り替える。今の俺の中で優先順位はアイツらとの作品作り、それ以外は二の次だ。夏休みの一週間と数日ほどの時間。陸上の合宿なんて行っている暇なんてない。
大体あそこって行ってもあんまり速くなった気がしないんだよな。逆に慣れない環境と帰ってきた時の変化で逆に狂う感じがある。適応し始めた頃に帰されて、また適応し直すような二度手間をしている感じがして。
俺自身、自分がそんなやわな選手だと思っていないが、……一番の要因としては朝食をちゃんと食わせて貰えず、力が入れることができないから身に入らない。起きて走らされて、少ない朝食の後休息、練習ってローテーションは俺には合わない。やっぱり飯の力は偉大よ。
過去の経験からプラスよりもマイナスだらけのあまりいい思い出のない合宿に全くの未練のない俺はサッパリと告げた。
「先生、俺、そるに行かんです。行く意味がなかです」
「あ?」
そう言うと吉田一瞬にして不機嫌そうな顔になる。おっと、予想通りとはいえそこまで怒るもんかね。俺としては妥当の提案だと思うけど。
俺にいい結果出してもらいたいなら、マイナスになるようなことはせずプラスのことを考えろ。環境を変えた生活リズムを狂わされるものじゃなくて、モチベーションを上げさせるか、それの維持。そっちの方が走り自体にも身に入る。
ま、それも選手としての話だが。だが、それ以上に行かなくてもいい理由として上げられるものがある。
「別によかろもん。そもそも俺は控えやし。別に絶対に行かんばいけんこともかなかろもん」
行かなくてもよい一番の要因として俺は控え選手だ。レギュラーじゃない。なら合宿自体も控えが一人行かなくても別に構わないだろう。妥当なを提案すると当然吉田はキレた。
「お前はなんば言っととか。もう決まったこつぞ!」
吉田が声を張りあげる。だが怒鳴りつけないだけでまだ理性自体は残っている。なんだか三年の付き合いだ。怒りのレベル自体は分かる。分かるだけで回避とかに使えるわけじゃないが。
基本的に真っ向勝負だ。俺にしろ、吉田にしろ、それしかお互いに知らないから。
「別に俺は行きたかわけじゃなかですし、……あと何べんも言いますばってん、俺は走るのは好きかばってん、走らされるのは好かんとですよ」
そういうと吉田は張る声が荒げた。
「お前の好き嫌いが関係あっか! 選手に選ばれたらちゃんと責任もって走らんか!」
その言葉を聞き、ムッとして言い返す。
「別に陸上ばやりたくってやってんじゃなかっと言っとっとです! 勝手に選んで勝手に走らされて。俺がそっば望んなら別によかですけど、俺はそっば望んだことは一度もなかです! やる気があるやつならおんならそいつと変えればよか話じゃなかですか! 大体、俺は控えですし、選手じゃあなかけん別に問題なかじゃなかですか」
「お前が控えなんは、お前にやる気がなかけんや! やる気があっとなら控えじゃなか!」
「だからやる気がなかって言っとるじゃなかですか!」
「ふっざくんな、ボケが!!!」
ついに吉田が我慢の限界が来たとばかりに怒鳴りを上げて、両手をガシッと俺の肩を掴んでくる。反射的に体を振って拒否するが、力づくで無理矢理止められる。顔を合わせて真っ直ぐと俺の瞳を見据えさせる。
「聞け、お前には走る才能がある!」
「走りに才能はいらん」
つかさずノータイムで切り返す。
走りに才能はいらない。それが俺の持論だ。ただスタートがあって、そしてゴールが存在する。ただそれだけのもの。順位はいらず、タイムもいらない。道を駆け抜ければそれでいい。それだけだのもの。
だが、吉田は首を振ってそれを否定した。
「いや、ある。お前に才能は。磨けば将来長距離選手として活躍できる。俺も思うし、町田先生なんかいつも言いよった」
言葉は怒を秘めているが、けれど向けられる瞳の強さは熱くはあるが怒りではなく、真剣な眼差し。例えるなら夢を見る人間のそれだ。
町田先生。学年が上がる前の今年の三月に別の学校に移った先生。陸上指導者としてはそれなりに有名らしく合宿の話は元々この先生の伝手があったから参加できていたのだ。
確かに町田先生は夏の特設陸上において、足が速い奴に関して気合い入れて指導していたのだと思う。俺もそのお気に入りの一人だったのだと思う。一年の頃、一年の中で唯一俺を代表選手として選んだのもあの人だ。
……正直俺には分からなかった。タイムが良くなったとか、順位が上がったとか周りは言うが、俺にとってはどうでもよかった。別に勝ち負け自体に興味がないわけじゃなかったが、でも、高みを目指し情熱をもって打ち込んできたわけじゃない。
それにどいつもこいつも俺に走りの才能があると簡単に言うが、俺からしてみれば俺にはそんなものはない。自慢や俗にいう「ありませんよ」アピールではなく、……本当にないんだ。
俺の走りは………子供の頃にあった運動会のかけっこで負けから始まった、努力で培ってきたものだから、走ってきたからできた走りだ。才能によるものじゃない。
それを才能の一言で終わらせるなんて、子どもの頃の敗北を、俺の努力を否定された気持ちになり、心の底から腹立たしい気分になる。
「今はお前の中では走り自体はどがんでよかかもしれんが、ばってん今頑張って走っとけばコン先ん人生……高校、大学と続くし、こん先の将来でお前は日本代表選手も夢じゃなか。それほどのもんば秘めとる」
吉田はご定説丁寧に努めて冷静、俺のためだとかの将来に向けてありがたい話がする。それ自体は百歩どころか千歩譲って聞いてやる。
俺が本気を出せばそりゃあ、大会で一位とまでは言わないが、そこそこ上位くらいには食い込むこと自体はできるだろう。それだけの走り自体はできるという自負は俺自身にもあった。
……だが、それがなんだ。何になる?
何度も言っているが、俺は記録や順位自体にはどうでもいい、……走れさえすればいいのだ。
走っている間に起きる夢幻の狭間の時間。
何者にも侵入させない、自分だけの空間。
そして、最後にはその自分すらも消えていく。
無と夢の如き、神秘とも呼べる世界。
まさに夢幻で無走のものそれを。
それを味わうだけならば陸上選手でなくてもいい。ただのジョギングですら事足りるのだ。
俺の中で走りはスタートがあって、ゴールに辿り付くのが絶対のルール。
そして、その間に訪れる、他人も自分もこの世から消え去ったような夢幻の時間を味わうための場所。
それ以上のものを求めていない。事足りているから俺はこれ以上の情熱を入れることができない。
そして、今の俺には情熱を注ぐべきものは陸上などではなく……。
―――だから、ゆえに思う。
「俺は、そがん先の将来のことよか、目の前にある好きなもんや大切なもんの方が大事かです」
俺は真っすぐ見据えて吉田の瞳へと返す。
思えば普段ならこんな風に言わなかったと思う。向き合わずに言いたいことだって言って、そっぽむく。それで争うだけで終わっていた。
でも今回は違った。今までとは違っていたからだ。いつも俺一人のことだったからそれでよかった。俺一人強がって我を通せばそれでよかった。
だけど、今は違う。今はアイツらがいる。アイツらと一緒にやると決めたんだ。
俺一人じゃなくて、三人のたった一度限りしかないかもしれない挑戦を無駄にしたくなかったのだ。
もし俺の感情や考え方が周りの普通と同じだったら、
もし環境が今よりも優しいものあるいは厳しいものだったら、
もし走りの方がずっと大切なものだと思えていたら、
もし創作について教えてくれたあの人に出会っていなかったら、
俺は吉田達が望むような人間に成れていただろう。
だけど、残念ながら俺が自分自身で決めたのは創作の方だった。走り以外で、小説を書き、物語を綴ること。そちらの方が何倍も情熱を燃やせるものだったって話。
それが吉田に、みんなに伝わってほしかった。
いつもと違う態度に気づいたのか、吉田も声は落ち着いて聞き返す。
「大事なもんってお前が書いとる小説か、なんかのことか?」
「はい」
吉田は不機嫌そうな顔をしたまま聞いてくるのに俺は強く頷いた。
「俺は、小説とか物語ば書きたかです。本気で自分で考えたコツば形にしたとです。そっちのほうが何倍も面白くて……こがん本気の気持ちになったとは初めてです。だけん、真面目に頑張りたかとです」
俺は目を反らずにハッキリとその旨を告げる。
やらせてほしい。小説を書くこと自体いい加減な気持ちなんかじゃない。それが少しでも伝わって理解してほしかった。認めてほしかったのだ。
俺だって別にこういう事でイチイチ敵対したいわけじゃない。ただ許して欲しいだけだ。
すると吉田は、はぁ~、と心底くだらないと言わんばかりの大きな、大きなため息をはいては、どうしようもないバカをみるような目で怒りよりも、呆れ果てた顔で告げる。
「お前のくだらん小説に時間を掛けている方が時間の方が無駄や。いい加減にそがん幼稚なことは卒業せえ」
「………………」
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………何とも言えない感情と共に涙が込み上げてきた。
………言うことかいて、それかよ………。
黒い感情が胸の中を支配する。周囲の音をかき消すかのようなシーンとするよう音が耳にくる。吸い込む息が凍り付いた冷たいものとして口の中に入り込んでくる。
これまでも何度もしてきた問答であり、何度も繰り返した感情。
なぜ俺はいつもこんな思いになっているんだ?
…………単純な話だ。俺はそれだけ本気だったんだ。
本気で、真剣で、真面目で、真摯で、愚直で、熱血で、馬鹿正直な感情でいるからだ。
それが少しでも伝わってくればって、思って訴えっているからだ。
例え、今日のようにちゃんと向き合ってなかろうと、そうした真摯な態度でなかろうと、心根が変わらない。
なのに、目の前の奴は何も思わず戯言だと思って流したのだ。くだらんの一言で、幼稚なことは卒業しろ、と切って捨てたのだ。
いつも……あったんだ。……俺の中には、いつもあった!! 話せば分かってくれるかもしれない、という甘い考えをいつまでも持っていた!!
それをないがしろにされたとわかったら、どうしようない感情に染まってきて、同時に湧き上がってくるのは純粋な怒り。燃え滾る炎のような激しい感情。いや、炎ってレベルじゃない。
火山の噴火。
煮え滾るマグマ。
ボコボコと音立てている。
怒りの沸点が越えて、爆発寸前で抑えが利かない。
それでも握りしめた拳を、なけなしの理性が止めていたが。
吉田が俺の肩を置きながら告げた。
「ふざんくんなぞ、クソガキ。馬鹿は馬鹿でも走り馬鹿の方が何倍もマシや。お前の将来を考えとるこっちの身も少しは考えろ」
「~~~~~っ!!!」
告げたことに対して怒ったわけじゃない。何言ったところで手を出していた。
目の前にいる理不尽なクソ野郎に対して、壊したくなるのは馬鹿として当然だ。走り馬鹿だろうが、夢見がちの馬鹿であろうが。
―――人の気持ちを踏みにじる奴は殴られて当然だ。クソ野郎!!